262.【小説】ぐるり、左 ― 遠回りのあとで ―⑦
第7章:上野 - 戻らない駅 -
上野のホームに入るとき、私は無意識に窓の外を見た。
なぜか、少し背筋が伸びる。
私が初めて東京に来た日も、ここだった。
地元から出る新幹線は、いつも上野止まりだった。 東京駅よりも雑多で、人の距離が近くて、どこか“入り口”のような場所だった。
大学に受かった春、父と母が見送りに来てくれた。
重たいスーツケースと、新しい生活と、淡い東京への希望。
あの時、私は上野から東京に入ってきた。
ホームに立つ親の姿を、車窓越しに何度も振り返った。
見えなくなるまで、手を振り続けた。
でも、それから何度この駅を通ったかわからないのに、 私はしばらくの間、ここで降りて、歩いたことがなかった。
美術館や動物園の案内板を横目に見ながら、 いつも目的地へと急いでいた。
それが変わったのは、大学を卒業して数年経った頃だった。
友人に誘われて、なんとなく訪れた展覧会。 その日から、私はときどき上野に降りるようになった。
美術館の静けさが心地よかった。
展示よりも空気に触れるような感覚で、通い始めた。
扉をくぐった瞬間、街の音が遠ざかる。
靴音だけが、白い壁の中に残る。
東北の震災が起きたあと、地元の街は大きく変わった。
駅前の並木も、通っていた本屋も、もうないと母が言っていた。
家族は無事だったけれど、私の中で“地元”は静かに失われていった。
戻らないと決めたわけじゃない。
ただ、戻る理由がなくなっただけだった。
上野の秋は、好きだった。
美術館へ向かう並木道、落ち葉の積もる歩道、白いマフラー。
ひとりで歩いたこともあったし、誰かと並んだこともあった。
でも、どれも過去のまま、いまの私はその景色を持っていない。
懐かしいのに、触れると壊れそうで、そっと眺めるしかなかった。
私の中の“原風景”は、いつの間にかこの街の中に散らばっている。
東京のどこかに埋もれて、形を変えて、残っている。
だから私は、今日も上野を降りない。
通り過ぎることで、いくらか守れているものがある気がして。
電車が静かに滑り出す。
窓の外で、秋の木々が揺れていた。
その向こうに、美術館の屋根が、少しだけ見えていた。
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