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195.【小説】カタリナ坂で会いましょう-A面|第六話「サマー・ゴールド」

第六話『サマー・ゴールド』


蝉の声が、電線を伝って揺れていた。まるで坂の街に、夏のリズムが届くようだった。

御影坂上十番通り──通称、カタリナ坂。その石畳に、今朝はケーブルと譜面台が散らばっている。

「おーい、港南モジャ研、通しリハ何時からだっけ!」

アロハシャツの中年男性が、坂の上から怒鳴る。

バタつくスタッフ、動かないスピーカー。音響の青年が汗を拭きながら、ミキサー卓に張りついている。

通りの花屋は開店前。

それでも、この坂は確かに、今日だけ音楽のためにある。

杉本リョウは、ピアノの脚をネジで留めながら、静かに深呼吸をした。

都立港南大学モダンジャズ研究会、二回生。二十歳。

学内の演奏会やライブバーのセッションには何度も出た。けれど、この坂で鍵盤に触れるのは初めてだった。

音楽が“聴くもの”だった子供の頃から、“鳴らすもの”になった今。
──同じ景色に、違う立ち位置で戻ってきた。

「リョウくん、こっちテンポ160でいくよ。」

テナー担当の先輩が手を振る。
リョウは短く頷いた。

楽器の音がまだ混ざり合わない午前中。準備でごった返す坂を、1人の少女が歩いていた。

日傘もささずに、Tシャツの袖をまくり上げている。歩幅が速いのに、視線だけはステージをちらちら見ている。

──あれ、地元の子かな。

ピアノカバーを外しかけたとき、不意に声が飛んできた。

「ジャズって、なんか自由すぎて苦手。」

振り返ると、さっきの少女だった。制服でもない、私服でもない。スカートに小さな楽器のキーホルダーが揺れていた。

「……そう?」

リョウは短く返す。気が利いたことは言えない。

「何考えてるかわかんない音って、怖いじゃん。」

「そうかな。言えないことが、音になるだけだよ。」

少女はきょとんとした顔をしてから、ふっと笑った。そのまま、何も言わずに去っていく。 ただ、足音だけが妙に耳に残った。

リョウはピアノの鍵盤に手を置いた。金属の反射が、もう真昼の熱を帯びていた。
今日は、音でしか言えないことを、全部出してやる──そんな気分だった。


午後三時。カタリナ坂の陽は、ちょうど照り返しの角度を変える。

リョウは商店街の中央、小さな特設ステージに立っていた。周囲では、LUNAのスタッフがミントソーダを配り、Chat Noirのカフェ席は、既に満席。

軒先に吊るされた風鈴が、MCのマイクにかすかに混ざる。

「──都立港南大学モダンジャズ研究会より、『カタリナ・ブルース・カルテット』の皆さんです!」

拍手とともに、演奏が始まる。

1曲目は『Take Five』

先輩のテナーサックスが柔らかく吹き抜けると、街の喧騒がほんの少し、音に引き寄せられたようだった。ドラムが加わり、ベースが重なり、坂道にリズムが根を張る。

リョウはピアノの鍵盤に触れると、指先から温度を確かめるように音を重ねた。街の景色が、ほんの少し遠のいていく。

──これが、この坂の音か。

2曲目のイントロが鳴り出す頃、視界の端に誰かの影が見えた。日傘もないまま、通りの木陰に腰掛ける少女。
あの時の、彼女だった。でも、目は合わない。けれど彼女の足は、リズムに合わせて、ほんの少しだけ揺れていた。

ラストは、リョウがアレンジした『My Favorite Things』

少しだけテンポを落とし、コードの響きを深くした。メロディはそのままに、どこか祈るような音。

──言葉にしなかったことを、全部音にする。
──音にしなかったことは、きっと言葉にもできない。

最後の音が消えると、拍手と歓声が降ってきた。それでも、リョウは客席を見なかった。ただ、彼女の反応だけが気になっていた。

楽器を片付け、機材の裏手に回ったとき──

「ねぇ。」

不意に声をかけられた。振り返ると、彼女がそこにいた。缶ジュースを手に、少し汗ばんだ顔で立っている。

「…ピアノ、ちょっとズルいね。」

「は?」

「言わなくても、伝わっちゃう。あたし、そういうの苦手だったけど、今日だけは、うん。」

そう言って笑った彼女の目には、確かな湿り気があった。

「……クラリネット、まだ持ってるの?」

リョウの問いに、彼女は少しだけ口を閉じた。

「なんで、クラリネットの事、分かったの?」

「うん、そのキーホルダー。」

「実家にある。でも、今は……吹けない。色々あってさ。」

「そうか。」

短く返したあと、リョウは視線をそらす。

「でも、今日の音は好きだった。……また、どこかで、聴かせてね。」

少し俯いたまま、彼女はそう言って背を向けた。足音だけが、坂道の石畳に残った。


夕暮れが、街の輪郭をやわらかく染め始めていた。ジャズフェスの熱気が通りを抜け、テントはたたまれ、スピーカーが運ばれていく。

Chat Noirの外席では、早くも夕暮れのビールを楽しむ声が聞こえ始めていた。

リョウは坂の上にある、KITANO GARDEN近くの石段に座っていた。

譜面と鉛筆。本番では使わなかったフレーズを、五線譜の余白に書き足していく。

──あの時、あと2小節、言いたいことがあったのにな。

ポケットからスマホを取り出すと、先輩からメッセージが届いていた。

「撤収終わり。お疲れー!また港南モジャ研でセッションしようぜ!」

それを閉じると、ふと、風の中に音が混じっているのに気づいた。

クラリネットの音だった。遠く、街のどこか。正確には聴こえない、けれど確かにあった。

どこかで、彼女が吹いているのかもしれない。あるいは、彼女の記憶のなかで、音が少しだけ蘇っただけかもしれない。

それでも、いい。
誰かの心に、ほんの少し音が届いたのなら── 今日、この坂で弾いた意味があったと思える。リョウは譜面を閉じ、ペンを胸ポケットに差し込んだ。

坂の下では、街灯が一つ、また一つと灯り始めていた。

「名前くらい、聞いとけばよかったな。」

苦笑いのように呟くと、夜の風が頬を撫でていった。あの夏の午後の、金色の光と音は、もうどこにもなかった。

けれど確かに、あの坂に。あの夏の午後、金色の音は確かに響いていた。


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