219.【小説】男と女∶12 姉妹のポストカード ― 雨の駅にて
『姉妹のポストカード ― 雨の駅にて』
小さなトランクと傘を片手に、駅へと向かった。
雨は朝には止んでいたけれど、街の匂いにはまだ、しっとりとした湿り気が残っていた。アスファルトの濡れた光が、歩き慣れた坂道に名残を残していた。
住み慣れたこの坂の街を離れるのは、久しぶりになる。
大学時代の友人に誘われて、京都で立ち上がった医療系ベンチャーに加わることにした。
京大の研究室が関わっているらしく、久しぶりに心が少しだけ前に動いた。
決して大きな決断ではない。でも、この街の空気から少しだけ距離を取りたいと思ったのは、たぶん、何かを変えたかったのだ。
駅前のカフェに入ると、ちょうど席がひとつ空いていた。ガラス越しの明るさに、空が晴れていく気配を感じた。
数日前、姉から手紙が届いた。
白い封筒に、丁寧な筆跡。中には、二枚の写真が添えられていた。
一枚は、私と姉と両親、まだ小さかった頃の家族写真。もう一枚は、姉とその娘。姉は、少しぎこちない笑顔だけれど、とてもあたたかくて、「お母さんに似てきたな」と思った。
『私はこの街に残ったけれど、あなたには、あなたの歩き方があると思う。どこにいても、私は、あなたを応援しています。』
素直になれなかった時期が長かったけれど、その言葉は、まっすぐ胸に届いた。読み返したその言葉を、トランクのポケットにしまう。
ブレンドとたまごサンドが運ばれてきた。口をつける前に、隣の席から声がした。
「……妹さん、ですよね?」
顔を上げると、どこかで見覚えのある男性がいた。少しだけ年を重ねていたけれど、その穏やかな雰囲気は変わっていなかった。
「お会いしたこと、ありますよね。昔、何度か。」
思い出した。姉の恋人で、姉と付き合っていた頃、数度会話を交わしたことがある人。私がまだ学生だった頃の、記憶の奥にある人だった。
「久しぶりですね。」
「ええ、本当に。……最近、この街に戻ってきたんです。」
彼はそう言って笑い、小さくブレンドに口をつけた。
少しの沈黙のあと、私は言った。
「姉は、元気にしてますよ。……たぶん、前よりも笑うようになりました。」
彼はカップを置いて、そして、とても嬉しそうに、優しく微笑んだ。
それを見て、私の中にも何かがふっとほどけた。
カフェのスピーカーから、女性ボーカルの曲が流れてきた。囁くような旋律に、ピアノと雨音が重なる。
“We both are lost and alone in the world…”
迷いと孤独の中で、優しさだけが残される。そんな歌詞が、二人の間にしみ込んでいくようだった。
電車の時間が近づき、私はトランクの取っ手を持ち上げた。
席を立つとき、彼が小さく会釈してくれる。私は何も言わずに、軽く頭を下げて応えた。
改札を抜けて、ホームに立つ。空には少しだけ、青がのぞいていた。
発車のベルが鳴る。
誰かの傘をたたむ音が、遠くで聞こえた。
私は姉の言葉と写真を胸に、まだ知らない街へと向かった。
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