199.【小説】Golden Slumber Ⅴ-Die Stille des Goldes-
最終章(第5章) 白き花のもとに
春の終わりだった。
風はまだ冷たく、しかし土の匂いにはかすかな緑の気配があった。
私は、花を植えていた。
それはここに来てからの、唯一変わらない習慣だった。
この隠遁の地に来て、もう何年が経っただろう。
今では、屋敷にいた頃の時間の流れが思い出せない。
朝は静かに始まり、昼は鳥の声に満ち、夜はただ闇が降りてくる。私は書物と、少しの音楽と、そして花と共に暮らしている。
ある日、郵便受けに古い新聞の切り抜きが入っていた。
アレクシア家の断絶が報じられていた。
記録上の最後の相続人が亡くなり、財産は国庫に編入されたという。
静かな終焉だった。
あれほどの格式も、今では誰の口にも上らない。
トラウベン伯爵家も、シュタウフェン家も、皆そうだった。名誉に生きた家は、時代の波にのまれ、何も語られぬまま消えていく。
構造は崩れた。音もなく、誰の手も下さずに。
私は、ある施設を訪れた。
山間の古びた建物。かつての屋敷とは比べものにならない簡素な造り。
そこに、アレクシアがいた。
彼女は驚くほど痩せていた。
しかし、身なりは整っていた。髪はまとめられ、白のブラウスは皺ひとつなかった。その端正さの奥に、拭いきれない疲弊が滲んでいた。
世話をしていたのは、褐色の肌を持つ女性だった。
彼女が去ったあと、アレクシアは窓の外を見ながら言った。
「皮肉ね。私達が“追い払った”人々に、今、助けられてるのよ」
「でも、誇りは……失わなかったわ」
私は返さなかった。
ただ、一歩近づいて、彼女の肩に視線を落とした。
「あなたを責める気にはなれない」
それだけを言って、私は帰路についた。
数日後、私は街のはずれの丘にある墓地を訪れた。
その一角に、小さな白い墓がある。
名前は彫られていない。ただ、白い花が刻まれていた。
その墓の前に、花束が置かれていた。白い花、あの日、彼女が描こうとしていた花。
包み紙の角に、かすかに見覚えのある印があった。
アレクシア家の古い封蝋の痕跡だった。
きっと、彼女もまた、自分なりに“描き終えた”のだろう。
私は花には触れず、ただ一輪の花を、自分の手から墓前に添えた。
帰り道、風が吹いた。
その香りは、あの部屋の果実と香の残り香に、少しだけ似ていた。
私は静かに目を閉じた。
声も、赦しも、再会もなかった。
だが、それでよかった。
あの時、私は「降りた」のだ。
誰かに理解されるためではなく、私自身のために。
沈黙こそが、私たちの贖罪だったのだから。
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