2-4 三輪王権滅亡説

    私は仁徳=広開土王説を主張していますがアレルギーをもつ人もいるかと思います。その仮説はミチュホ仮説(応神渡来説)から生まれたものです。そしてミチュホ仮説はと言いますと三輪王権滅亡説から生まれました。

 逆にいいますと私の出発点は田中晋作先生の著作に基づく三輪王権滅亡説です。四世紀の第4四半期あたりから三角縁神獣鏡の副葬が行われなくなりましたが、その理由は三輪王権が滅亡したからだという認識が出発点です。三角縁神獣鏡の副葬が行われなくなったことは三輪王権が滅びた証拠としては十分だと私は思いますが、そうは考えない方も多くおられるようです。本稿では「三輪王権は滅びた」という考えを再説したいと思います。

三角縁神獣鏡の副葬終了の理由

 AIに三角縁神獣鏡の副葬終了の理由を聞きました。AIは常に正しいという保証はありませんが、議論のきっかけに利用することに問題はないと思います(議論の重要な根拠づけに用いることはできませんが)。

*** 三角縁神獣鏡の副葬が止まったのは、「中国が乱れて鏡が手に入らなくなり(原因1)」「王権の世代交代で古い外交儀礼が終わり(原因2)」「朝鮮半島での戦争により、宗教よりも軍事力を誇示する時代になった(原因3)」という、国内外の激変がピタリと一致した結果です。***

 AIの回答の原因1ですが、三角縁神獣鏡は魏、および西晋時代に中国もしくは楽浪郡で作られたと考えています。西晋が滅んだのは316年ですが、三角縁神獣鏡の副葬が行われなくなったのは370年代と考えられるので、時代的なへだたりが大きく、原因1は明らかに間違っています。

 原因2ですが、やや詳細には「新しい支配者層は、もはや古い鏡の分配という形骸化した儀礼に頼る必要がなくなった。地方を従えるためのシステムが宗教的な同盟(鏡)から直接的な政治支配・身分序列へと移行した」という主張のようです。

 しかしこの考えは370年代以後も鏡の副葬が行われなくなったわけではないという事実を見落としています。三角縁神獣鏡の副葬が行われなくなった後も鏡自体の副葬は継続しています。副葬される鏡が三角縁神獣鏡ではなくなったというべきです。「地方を従えるためのシステムが宗教的な同盟(鏡)から直接的な政治支配・身分序列へと移行した」という見解も宗教的な同盟(鏡)の本家本元がいなくなったから、そのように見える結果を述べているだけで、なぜ、本家本元がいなくなったのかという本質的な議論を回避しています。

 原因3ですが朝鮮半島での戦争に参加したのは390年以後です。一方、三角縁神獣鏡の副葬が行われなくなったのは370年代です。370年ごろから410年ごろまでの歴史を粗雑に考えすぎていると私は思います。

腕輪型石製品の副葬

 三角縁神獣鏡以外にも三輪王権が滅びたことを示す資料があります。三角縁神獣鏡と腕輪型石製品(車輪石・鍬形石・石釧)は、ほぼ同時(4世紀末〜5世紀初頭)に副葬が消滅しています。両者を配布・管理していた同一の政権=三輪王権が消滅したことで、配布体制が断絶したと解釈するのが合理的です。三角縁神獣鏡の副葬が行われなくなった理由だけでなく、腕輪型石製品(車輪石・鍬形石・石釧)がほぼ同じ時期に副葬されなくなった理由も説明するには三輪王権滅亡説しかないと思います。

 古市古墳群で腕輪型石製品の副葬が確認できるのは、津堂城山古墳のみです。津堂城山古墳は応神朝の古市古墳群の中でも最古の王墓級古墳です。津堂城山古墳のみに腕輪型石製品が副葬されていることはこの古墳の築造直後、もしくは築造直前に三輪王権が滅亡したことを示しています。

 古市古墳群では津堂城山古墳のみに腕輪型石製品が副葬されています。したがってそれ以後の時期になる仁徳朝(413~440年頃)の百舌鳥古墳群に腕輪型石製品が副葬されているはずがありません。ただし、一件のみ例外があります。百舌鳥古墳群の中心部からは離れたところにある乳岡古墳です。この古墳は仁徳朝が5世紀初頭に始まる以前に築造されたものであり、百舌鳥という地域にはあるが仁徳朝時代の古墳ではなく、その意味では例外というべきではないかもしれません。

 津堂城山古墳は応神朝の最初期の王墓級古墳だということを考えれば応神朝成立と同時に腕輪形石製品の製造元の三輪王権が滅んだと考えていいのではないかと思います。この観点から佐紀古墳群を検討します。

 佐紀古墳群の古墳の中では佐紀陵山古墳、マエ塚古墳(佐紀陵山古墳の陪塚)、猫塚古墳から石釧などの腕輪形石製品が出土します。それだけを見ますと三輪王権時代の感がありますが、一方で三輪王権を代表する三角縁神獣鏡が出土していません。したがって三輪王権の古墳ではなく、三輪王権を滅ぼした応神朝の古墳であると私は推測しています。

 腕輪形石製品の有無の問題とは別の話題ですが、佐紀古墳群の中で最も新しいウワナベ古墳について5世紀中葉から後半とするのが、現在の考古学の通説です。しかし、基礎となっている川西編年でかつては5世紀中葉とされていた応神陵が、現在では5世紀初頭の築造とされていることからも、5世紀中葉から後半築造説は確実ではなく370~412年の応神朝の中に納まるのではないかと思っています。

 古市古墳群の場合も、佐紀古墳群の場合もそれぞれ最古の古墳(マエ塚古墳、猫塚古墳は佐紀陵山古墳と同時期)からのみ主に石釧を出土する程度であり、いずれの古墳群も三輪王権が滅ぶ直前もしくは直後が開始時期だったことが分かります。

 次に馬見古墳群を検討します。

 馬見古墳群の中で三角縁神獣鏡と腕輪型石製品を出土する古墳は新山古墳(南群・4世紀前半〜中葉)と佐味田宝塚古墳(中央群・4世紀後半)の2基のみです。新山古墳からは車輪石・鍬形石などの石製品とともに三角縁神獣鏡が9面が出土しています。佐味田宝塚古墳からも車輪石・石釧・鍬形石と10面ほどの三角縁神獣鏡が出土しています。
 また腕輪形石製品のみ出土する古墳として島の山古墳(北群・4世紀末〜5世紀初頭)があります。鍬形石や133点の腕輪型石製品が副葬されていましたが三角縁神獣鏡は出土していません。

 新山古墳と佐味田宝塚古墳は三輪王権が健在の時期の古墳であると考えられ、馬見古墳群の被葬者であると推測される葛城氏は三輪王権と良好な関係を築いていたことが推測されます。島の山古墳からは三角縁神獣鏡が出土しないのは4世紀末の三角縁神獣鏡の消滅時期に築造されたためと考えられます。以上のことから島の山古墳以後は応神期に入ると思われます。馬見古墳群の中には5世紀や6世紀の築造のものも含まれており、葛城氏が三輪王権時代から応神朝、仁徳朝と継続して生き延びたことが分かります。

 以上、腕輪型石製品と三角縁神獣鏡の出土状況から時代設定を試みましたが、三輪王権の滅亡時期の指標として役立つのではないかと思います。

 三角縁神獣鏡が副葬されなくなった理由として「社会的な変化」などというご都合主義的な安易な言葉で説明を回避する学者が多いと思います。「社会的な変化」という言葉を使ってはいけないと言っているのではありません。「社会的な変化」をいうなら、その社会的変化を具体的に、そしてできるかぎり詳細に語らなければならないと思います。なるほどそうだったのかと思われる社会的な変化の内実を書かなければ説明回避と言われてもしかたがないのではないでしょうか。説明回避はこの三角縁神獣鏡副葬問題に限りません。私はなぜ大仙古墳や応神陵古墳はあれほど巨大なのかという疑問を抱き続けてきましたが、納得のいくレベルの学者の説明を読んだことがありません。ほとんどが「社会的な変化」という説明回避で終わっています。私は大仙古墳や応神陵古墳の巨大性を納得のいくレベルで説明できる史学を求め続けていますが、それができない史学は大きな欠陥を内包する史観と言わざるを得ないと思います。

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