5-19 雄略の高句麗観
478年、倭王「武」(雄略とする比定に賛成)は宋の順帝に次のような上表文を送っています。
升明二年〔478〕、遣使上表曰
「封國偏遠,作藩于外,自昔祖禰,躬擐甲冑,跋涉山川,不遑寧處。東征毛人五十五國,西服眾夷六十六國,渡平海北九十五國,王道融泰,廓土遐畿,累葉朝宗,不愆于歲。臣雖下愚,忝胤先緒,驅率所統,歸崇天極,道遙百濟,裝治船舫,而句驪無道,圖欲見吞,掠抄邊隸,虔劉不已,每致稽滯,以失良風。雖曰進路,或通或不。臣亡考濟實忿寇讎,壅塞天路,控弦百萬,義聲感激,方欲大舉,奄喪父兄,使垂成之功,不獲一簣。居在諒闇,不動兵甲,是以偃息未捷。至今欲練甲治兵,申父兄之志,義士虎賁,文武效功,白刃交前,亦所不顧。若以帝德覆載,摧此強敵,克靖方難,無替前功。竊自假開府儀同三司,其餘咸各[注 2]假授,以勸忠節」
この上表文(478年)の原文を段落ごとに訳出します。
「臣封國偏遠、作藩於外、自昔祖禰、躬擐甲冑、跋渉山川、不遑寧處」
わが封国は辺境の遠方にあって、外側に藩屏をなしております。昔から祖先たちは自ら甲冑を身にまとい、山河を踏み越えて、休む暇もございませんでした。
「東征毛人五十五國、西服衆夷六十六國、渡平海北九十五國、王道融泰、廓土遐畿、累葉朝宗、不愆于歲」
東は毛人を征すること五十五国、西は衆夷を服従させること六十六国、北の海を渡って平定すること九十五国。王の道は広く豊かに行き渡り、土地を広げて王畿を遠くに及ばせました。代々(陛下の朝廷に)朝貢し続け、年ごとに怠ったことはございません。
「臣雖下愚、忝胤先緒、驅率所統、歸崇天極、道遙百濟、裝治船舫」
臣(わたくし)はおろかな身ではございますが、かたじけなくも先祖の血統を継ぎ、統べる国々を率いて陛下の御威光を仰ぎ奉っております。百済を経由して遠い道のりをたどり、船を整え装備して(参朝しようとしておりました)。
「而句驪無道、圖欲見呑、掠抄邊隸、虔劉不已、每致稽滯、以失良風。雖曰進路、或通或不」
ところが高句麗が道理に外れた振る舞いをして、わが国を呑み込もうと企み、辺境の民を略奪し、残虐な殺戮を止めることがありません。そのため(参朝の道は)たびたび妨げられ、良い風(季節風・渡航の好機)を逃してしまいます。進む道があると申しても、通れることもあれば通れないこともある有様でございます。
「臣亡考濟實忿寇仇、壅塞天路、控弦百萬、義聲感激、方欲大舉、奄喪父兄、使垂成之功、不獲一簣。居在諒暗、不動兵甲、是以偃息未捷。」
亡き父・済は、この賊(高句麗)が天への道(朝貢路)を塞いでいることを、まことに憤っておりました。百万の弓兵を擁し、義の声に奮い立って、まさに大挙して攻めようとしたそのとき、にわかに父と兄を相次いで失い、ほぼ成し遂げようとしていた功業を、あと一かごの土も積むことができませんでした。(臣は)喪中にあって兵を動かすことができず、そのために(兵を)休止させ、いまだ勝利を得ておりません。
「至今欲練甲治兵、申父兄之志、義士虎賁、文武效功、白刃交前、亦所不顧。」
今こそ武器を磨き兵を整えて、父と兄の志を継ごうとしております。義に篤い勇猛な将士たちは、文武ともに功を尽くそうとしており、白刃が目の前で交わる場においても、少しも顧みることはございません。
「若以帝德覆載、摧此彊敵、克靖方難、無替前功。」
もし陛下の御徳によって(臣を)お護りくださり、この強敵(高句麗)を打ち砕き、この地の難を平定することができましたならば、先代から積み上げてきた功績を絶やすことなく継ぐことができましょう。
「竊自假開府儀同三司、其餘咸各假授、以勸忠節。」
臣はひそかに自ら「開府儀同三司」の号を仮に称し、その他の者たちにもそれぞれ仮の称号を授けて、忠節を励ましてまいりました。(どうかこれらの称号を正式に勅授くださいますよう、お願い申し上げます。)
この上表文から分かることが少なくとも二つあります。まず雄略の父(允恭)、兄(安康)の時代から高句麗を憎み、高句麗を討ちたいという思いがあったことです。高句麗に鉄槌を下すことが允恭の強い意志であったようです。もう一つは雄略の父と兄には言及しているが祖父にあたる仁徳については全く触れてもいないことです。
後の問題については既に仁徳系と允恭系は系統が異なることがこれまでに指摘されています。第一の理由は南宋への朝貢に際して讃と珍の間、済と興の間、興と武の間はすべて続柄が明記されているのに、珍(反正)と済(允恭)の間だけ続柄が記されていないことです。加えて仁徳系の陵墓は百舌鳥にあるのに、允恭系の陵墓は古市にあることも理由の一つとなります。この上表文でも雄略が父と兄を明記する一方で偉大なる祖父(であるはずの)仁徳について言及していないことは王統が異なることを示しています。
前の問題、すなわちなぜ允恭、安康は高句麗を憎み、高句麗を討ちたいという思いをもっていたのかという問題について考えてみましょう。475年に百済の漢城が高句麗軍によって壊滅され、百済は一度は滅んだという歴史的事実があります。この悲劇を聞いて雄略は高句麗を憎んだと考えられますが、允恭、安康は既に亡くなっていますので、百済の滅亡は理由にはなりません。高句麗と倭国は遠く離れており、允恭が高句麗に対して雄略の上表文に示されているような憎しみ<濟實忿寇仇、壅塞天路、控弦百萬、義聲感激、方欲大舉:この賊(高句麗)が天への道(朝貢路)を塞いでいることを、まことに憤っておりました。百万の弓兵を擁し、義の声に奮い立って、まさに大挙して攻めようとした>をもつ理由は特には思い当たらないでしょう。
しかし、私の允恭=新羅の訥祇麻立干仮説に立てば、その理由が容易に分かります。高句麗は5世紀半ばから新羅の北方の国境をたびたび侵入しています。
(1)431年 高句麗が新羅の辺境を侵攻。新羅軍がこれを撃退
(2)440年 高句麗が新羅の南辺・東辺を侵略
(3)444年 高句麗が新羅に大規模侵攻。新羅の王都付近まで迫ったとされる。
(4)450年7月 高句麗の辺境の首長が悉直(江原道三陟市)の辺りで狩猟をしていたところを、何瑟羅(江原道江陵市)の
城主の三直が急襲して殺害し、俄かに高句麗との緊張を招いた。怒った高句麗の長寿王は新羅の北西部国境に軍を派遣
してきたが、新羅では丁寧な謝罪を行って一旦は高句麗は退却した。
(5)454年 高句麗が新羅の北方辺境に侵入。新羅はこれを撃退
(6)455年 高句麗が百済を攻撃。新羅は百済を救援し出兵(羅済同盟の機能)
(7)468年 高句麗が新羅の悉直城(現・三陟付近)を攻撃
(8)469年 高句麗が新羅北境に再度侵入
(9)481年 高句麗・靺鞨の連合軍が新羅に侵攻し、狐鳴等7城を陥落。新羅は百済・加耶の援軍を得て撃退
(10)484年 高句麗が新羅に侵攻。新羅は百済と連合してこれを撃退
(11)489年 高句麗が新羅北辺を侵略
この年表に允恭、安康、雄略の治世年を重ねます。允恭は442~453年、安康は454~456年、雄略は457~479年の治世です。ただし允恭は訥祇であり、新羅では417年に即位しています。したがって允恭は417~453年の治世になります。したがって上記の(1)から(4)は允恭期の侵入です。(5)から(6)が安康期、(7)から(8)が雄略期の侵入になります。
つまり、允恭、安康、雄略の三代にわたり高句麗の長寿王は新羅にたびたび侵入しています。允恭、安康、雄略の三代は新羅系の王統ですから、倭王と新羅王は兼任の形になります。したがって允恭、安康、雄略の三代にわたって高句麗を警戒し、憎悪する理由があるわけです。倭王と新羅王は兼任の形を証明することは容易ではありません。新羅系といってもその中で権力争いはあり、反乱勢力はあったはずです。ただ一つ言えることは5世紀の新羅は謎の世紀であり、肯定するにせよ否定するにせよ、明確な根拠を示すことは困難であると言うことです。
あくまで想像を続けるとしますと410~430年ごろには高句麗軍は国境に侵入していません。なぜかと言えば、430年ごろまでは広開土王=仁徳がまだ生きていたからです。広開土王から高句麗王の位を禅譲された甥(私見)の長寿王は仁徳が健在な時期には南進を考えていなかったのです。仁徳朝が終わり、新羅系の允恭朝になってから明確な南進政策をとっています。
上記の年表から分かることは、高句麗軍は5世紀に新羅に駐留していないということです(通説は駐留説です)。国境に何度も侵入している事実は逆に新羅の都や重要都市に高句麗軍が駐留していないことを示しています。通説は417年の訥祇の即位時に高句麗軍が新羅にいた記述があることを、高句麗軍が駐留していた根拠に挙げていますが、この高句麗軍は仁徳=広開土王の高句麗軍です。広開土王は413年に倭国で即位して仁徳になりますが、新羅にはまだその軍隊の一部が駐留していたと考えれば問題はありません。
この雄略の上表文から、新羅と倭国を代表し、百済南方のミチュホの旧領土を有する「そらみつやまと国」の王として南宋の力を借りて百済を再興させ、高句麗に対峙したいと言う覚悟が読み取れます。雄略の史観は朝鮮半島からかなり距離があり、高句麗の侵攻をそれほど恐れる必要がなかった日本列島に極限されたヤマト王の史観ではないと思うのです。強い危機感は高句麗と直接対峙していた新羅王に相応しいものです。特に強調したいのは475年の百済滅亡を経験した雄略のみではなく、その父と兄の時代から高句麗に対する敵対心があったという事実です。
最後ですが、新羅と高句麗の関係をより明確にするために上記の年表の前に少しだけ追加があります。
399年 新羅王は国内に倭人が集結し、国内の統治ができなくなったので広開土王に支援を要請
400年 広開土王はこれに答えて5万の軍隊を新羅に送り、倭人を撃退したので、新羅王は広開土王に臣従
407年 広開土王軍は倭軍を壊滅的に撃破、倭軍は朝鮮半島より撤退
408年 広開土王、南巡へ
412年 広開土王、39歳で亡くなる。倭国と高句麗が南宋に朝貢 倭国の南宋への朝貢品は高句麗産の貂の毛皮と朝鮮人参
413年 倭王仁徳即位
417年 訥祇が麻立干に即位。この時期に高句麗軍が新羅に駐留
427年 高句麗、国内城から平壌に遷都
429もしくは430年 仁徳崩御
433年 新羅と百済の同盟(羅済同盟)成立
この年表を加味して再考をしてください。倭王仁徳が崩御する(429年もしくは430年)と高句麗は新羅国境に現れます。仁徳朝が終わり、新羅系の允恭朝になりますとたびたび執拗に北辺に現れています。また433年に新羅と百済の同盟が成立していますが、これは新羅国内に高句麗軍が駐留していないことが大前提のはずであり、高句麗軍が駐留していないことの証拠とみるべきです。付加的に言いますと倭の五王は南宋に六国諸軍事の冊封を求めた際、必ず新羅を入れています。高句麗軍が新羅に駐留していたとすれば考えられない話です。古代人を馬鹿にしては行けません。
なお、上記の(1)から(11)までの年表を5世紀のものではなく、6世紀の記事を5世紀のこととして組み入れているとする説がありますが、高句麗では6世紀中葉に内紛が続き(貴族勢力の台頭)、対外的に攻撃的政策をとれる体制ではなかったこと、また新羅の6世紀の記事は次のような具体的な記事になっており、上記の年表が6世紀のものだとする根拠はありません。
新羅では505年に州郡県制を施行。この際、旧来の係争地であった悉直(三陟)に悉直州を置き、異斯夫(이사부)を軍主に任命した。これは東海岸における新羅支配の制度化であり、高句麗との緊張関係を反映している。512年、異斯夫は悉直州軍主から何瑟羅(江陵)軍主に転任し、同年に于山国(鬱陵島)を征服。東海の制海権が新羅に帰した。
