奄美大島&加計呂麻島(鹿児島県)旅行記~今井大権現・ノロ信仰・戦跡・マリア観音像・マテリアの滝
2020年3月2日~6日 奄美大島&加計呂麻島へ行きました。その旅行記です。膨大な記録ですので少しずつお読みください^^
※まとめ動画 BGMは、「郷土料理かずみ」で、ちょっと歌わせて♪とやってきた地元の方の奄美島唄です。
奄美大島&加計呂麻島1~奄美大島北部
2020.3.2~6奄美大島&加計呂麻島へ旅してきました。1月初旬から計画を立てていて、コロナウィルスの影響で、どうしようかと思いましたが、思い切って決行しました。
友人二人での旅で、友人は20年ぶり(カヌーで来島)、私は14年ぶり(ダイビングで来島)の奄美大島・加計呂麻島旅行となりました。
旅行には今まで必ずカメラを持っていきましたが、今回はすべてスマホ(HUAWEI P30 Pro)で撮りました。
加計呂麻島には、40年来の共通の趣味(アマチュア無線)の知人が居て、現在、加計呂麻島の観光案内業をしています(2026年現在も^^)。
2020.3.2(月) 東京(成田)発 ― 奄美大島着 ピーチ MM541(08時30分 ― 11時30分)
05:30出発、友人の自家用車で成田へ。民間の駐車場に入れて第2ターミナルへ。そこからバスで第3ターミナルへ。帰りは逆に歩きましたが、結構距離があります(500m位?徒歩10分位?)。
往復15300円+保険料1411円×2+預け荷物1700円×2=21522円
手荷物~機内に持ち込める手荷物(既定サイズ)は、身の回りのもの+手荷物の合計2個、重さは合計7.0kgまで。これが実に厳密でわずかでもオーバーすると預けなければなりません。LCC格安飛行機は、この辺りはシッカリしてますな。機内注文の飲み物も有料。






これじゃ、宇宙船から見る地球みたいですよねー。



定刻通り、奄美空港着。タラップを降りると、やはり成田より多少暖かでしたね。気を許すと、このように左指が写っちゃいます^^;
空港を出るとお迎えボードを抱えたオジサンに奄美レンタカーへ。今回、〇〇レンタカーを予約していましたが、「じゃらん」経由のキャンペーン料金を見つけて^^
軽自動車で11000円/5日間。(保険最大限付けて)。嬉しい価格でございました。paypay払い。
まずは腹ごしらえという事で、友人に調べてもらっていた「鶏飯元祖 みなとや 」さんへ。





昭和21年創業。奄美大島北部・笠利町にある鶏飯専門店 「みなとや」。 初代の岩城キネが、炊き込みごはんのようだった鶏飯をアレンジし、ごはんに具材をのせ鶏スープをかけて食べる今のスタイルを作り上げた、奄美大島の郷土料理 鶏飯の元祖。 地元の鶏を丸ごと使ったスープは、その日に作ったものしか使いませんので、スープがなくなったら閉店。
この日、メニューは鶏飯のみでお客さんもけっこう入っていました。奄美といえば「鶏飯」ですねー。こちらの鶏飯は、なかなかスープの味が濃いタイプでした。毎日だとキツそうですが、味がインプットされて定期的に食べたくなるタイプですね。1100円 なんと、このようなお店もpaypay払い。



世界中で見られ、再生や不滅のシンボルとして信仰されてきた。女性シンボルと関係があるとされ、現在でも病気の治癒や子宝に恵まれる事を願って信仰されている。日本の盃状石は縄文時代から作られている。元々は磐座に彫られ、子孫繁栄や死者の蘇生を願ったものとされている。
昼食後、とりあえず奄美大島・北端の笠利崎灯台へ。







奄美大島&加計呂麻島2~御嶽聖地境 今井大権現神社
「あやまる岬観光公園」に立ち寄った後、龍郷町安木屋場の岬の突端に鎮座する「今井大権現」へ向かいました。名瀬龍郷線を北上、道が分からなくてトンネルをくぐってから回り込んで行きました。道中、まったく看板も無し。グーグルマップにもナビにも、その神社へ向かう道がありません。と思って走行していたら、左に「今井大権現」の看板を発見。

帰ってから地図を見ると、航空写真ではうっすらと今井大権現方向への道が確認できます。
ダートの砂利道を上ると少し広い駐車場っぽい広場に出ます。そこから更に道は細くなりますが、鳥居まで上れます。両側が崖の尾根道です。かなりスリリングでした。独りでは鳥居下までは恐ろしくて来れなかったでしょうね~^^;




















との事でしたので、この先には入りませんでしたよ。











今井大権現
平家の落人「今井権太夫」を祭った神社。今井権現へと続く石段は、江戸時代に薩摩への航海安全を祈願した船主によって、薩摩の石材を持ち帰り寄進したものと言われています。また、境内には「五穀豊穣萬民快楽」と刻まれた石碑などがあります。この「今井権現の石段及び石碑」は町指定文化財に指定されています。
こちら様によると・・・・
今井大権現とは、奇怪な伝説に満ちた神のやしろで、そのみなもととは、壇ノ浦合戦に破れて喜界島へ落ちのびた平家の遺臣と安徳帝にさかのぼる。
三位中将平資盛を征夷大将軍とする一族党三百余人が、まず喜界島に上陸。
つづいてあとを追ってきた有盛、行盛の二将が合流し、すぐ目の前にある奄美大島を平定した。
健仁二年(1202)、壇ノ浦合戦から十五年あまり後のことである。
島の北部、現在の笠利町あたりは、源氏の追手が九州からやって来るというので〈魔西〉と呼ばれるようになった。
そのため、ここの守備をまかされた平有盛は、現在の今井大権現のあたりに船見の砦(とりで)を築き、源氏の来襲にそなえたという。
安徳帝は、通常の伝説によれば、三種の神器とともに壇ノ浦の海底に身を投じたことになっている。が、安木屋場のシャ‐マンが語る伝説はまったく異なる。
安徳帝は平家の落人とともに奄美にたどりつき、竜郷の貴人〈龍家〉の姫とされる安久里加那(あくりかな)を妃(きさき)とした。
二人が住むことになった竜郷の一角は、〈安ら木屋の場所〉という意味から、安木屋場と呼ばれるようになった。
安徳帝が姫とのあいだにもうけた一子は、今井権現夫と名のり、若大将として逞(たくま)しく育てあげられてのち、今井大権現のある山頂に館を築き、島の守備に一生を捧げた。
父の安徳帝は平家再興の旗頭として硫黄島へ上陸した直後に永眠、三種の神器のうち、八たの鏡が権現夫に継承された。権現夫は父の死を悲しみ、八たの鏡を今井崎に埋めたという、奇妙な伝説がある。
安徳帝の落胤(らくいん)でもある今井権太夫は死して〈大権現〉と崇(あが)められ、平家が信仰した厳島弁財天もまた、奄美各地に根づくことになった。
しかしさらに奇妙なのは、平家伝説の占領地である今井崎が、同時に、奄美における天孫君臨の地として信じられた点だろう。アマミコの名が、君臨した神アマミコ(天照大神にあたるともいう)に由来するように、今井大権現のあたりは古く降嶽神境(おたきみきよ)と呼ばれた。奄美のシャーマンのあいだでは、卜占(ぼくせん)の神として〈思金松〉なる神が信仰されているが、今井という名もこの〈思〉おもいの転化したものに思える。ついでにいうと、平家の哀れを主題とした巫女の祈願舞に、アマミコを指して〈重句阿麻みこ(おそらく思金松と同義)〉とあることから、今井とは天孫君臨したアマミコ自体を指す名だったのだろう。ついでに、思金松は方位や吉凶を占う呪術師であり、これがシャーマンの祖となった。今井崎は、まさしく、奄美シャーマンの故知ということになる。当地では、シャーマンのことを、沖縄と同じく〈ユタ〉と呼ぶ。この語はユンタ〈歌うの意〉に由来するらしい。通常は女性がユタになるが、若干は男性の巫げきも存在する。
安徳天皇は壇ノ浦で入水せず平氏の残党に警護されて地方に落ち延びたとする伝説がある[2]。九州四国地方を中心に全国各地に伝承地がある。
なお、神奈川県横浜市に「思金神社」があります。以前、参ったことがあります。上記に出てくる、奄美大島のシャーマンが信仰している「思金松」なる神とは関係ないとは思いますが、私的に知り合いを介して繋がっているのでリンクを貼っておきます。



拝殿手前の左右にありました。胴・半身から「仁王像」であったように思います。
立地もスゴイ場所でしたが、地場も湧き上がるモノを感じました。ゴーゴーと、スゴイ風が吹いていたのですが、拝殿周辺は静かで穏やかで時が止まったかのような空間でした。
夕方の参拝でしたが、暗くなったら、ホントに「ケンムン(奄美群島に伝わる妖怪)」が現れそうなところでしたよ。
奄美大島&加計呂麻島3~島唄の夜♪+ホノホシ海岸
あ~忘れてました。「今井大権現」参拝前に「奄美パーク(田中一村記念美術館)」へ立ち寄りました。
明治41(1908)年,栃木県に生まれる。幼い頃から画才を発揮し,7歳の時,父の濔吉(号稲村、稲邨)より「米邨」の号を与えられる。大正15年東京美術学校入学後,わずか2か月余りで中退,その後南画家として活動する。第19回青龍展に「白い花」を出品入選するが,その後中央画壇とつながりをもつことはなかった。昭和33年50歳で単身奄美大島に移住。紬工場で染色工として働き,蓄えができたら絵を描くという生活を繰り返し,亜熱帯の植物や動物を描き続け,独特の世界をつくりあげた。絵描きとして清貧で孤高な生き方を通した一村は,昭和52(1977)年69歳でひっそりとだれにも看取られずにその生涯を閉じた。
私は二度目。奄美パークはガラガラでしたねー。ここでは自動販売機なのでpaypayは使えず。
日本のゴーギャンとも呼ばれる田中一村。奄美時代の作品は有名ですが、幼い頃の作品にも驚かされました。7歳時に児童画展で受賞(天皇賞、もしくは文部大臣賞)。10代にして既に蕪村や木米などを擬した南画を自在に描き得たそうです。生まれながらの天才画家だったのですね。
「今井大権現」参拝、田中一村記念美術館に立ち寄った後、「ケンムン(奄美群島に伝わる妖怪)」に出逢うことなく(笑)奄美市名瀬入舟町(旧名瀬市)のホテル・レクストン奄美セントラルへ。

素泊まり3700円。安くて助かります。paypay払い。しばらく休憩して18時に同行友人が予約しておいてくれた「郷土料理かずみ」へ。

う~ん・・・・・人が少ないです。立て看板、ネオン看板類が無いのでサッパリ、スッキリな商店街です。




お任せ料理でした。美味しかった~。お醤油は少し甘めです。
奄美の「元ちとせ」「中孝介」さんも、ここの「かずみ」さんが島唄を教えられたそうです。黒糖焼酎「龍宮」の残りは旅のお供となりました。
地元の方が家族で飲みに来られたり、若い方たちのグループが卒業旅行でやってきたり、しばらく飲み食いをしていると、奄美三味線のおじさんがやってきて、写真の通り^^ 太鼓を叩かせてくれたり、三味線も弾かせてくれました。
卒業旅行者を引き連れてきた方は地元のガイドさんで、ノロ信仰、ユタ様、クリスチャンの歴史等々、いろいろと情報をもらえました。
更にしばらくすると、地元の方がクルマで、一曲歌わせて~と♪ 仕事帰りに飲まずに島唄を歌っていかれました♪
ちなみに奄美でも、マスクもトイレットペーパーも売り切れ。ちなみに投稿現在まで鹿児島県ではコロナウィルス感染者はゼロ。
話をしていて、いろいろと感じたのは、この季節、北海道ではインドア中心の活動で人の集まる場所は室内。一方、暖かい地方では密室条件はあまりなく、ストーブを付けるちょっと寒い日でも窓が開いていたりしているようで、当然、海風が日常的に吹き抜けていてウィルスも滞留しないのではないか?等々・・・・。
楽しい夜でございました。ホテルに帰ってシャワーを浴びて・・・バタンキューでした^^
ちなみにこの日は曇りがちでしたが雨には降られずラッキー♪
++++++++++
2020.3.3(火)
素泊まりなんで、8時ごろから行動開始。朝食抜き(笑


ホテルを出発して、奄美大島をひたすら南下。瀬戸内町古仁屋へ。道路がすごく整備されていてビックリ。以前記憶のあった峠越えもなく全てトンネル開通していました。ホテル=古仁屋まで距離は41.9kmですが、ほとんど信号が無いので1時間かからなかったような。。




「フェリーかけろま」10:20古仁屋発~10:45瀬相着 片道400円
まだ一時間半近くあるので奄美大島南部のホノホシ海岸へ行ってみることにしました。

ホノホシ海岸へ向かう途中の電柱がたくさん立っている不思議な池。調べたら、どうも大島車海老の養殖池らしい。養殖中は海水が入って、海の中に電柱が沢山立っている状態になる。電柱は酸素を送る機械のため、沢山立っているそうですわ。
参照元 https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q148622919

加計呂麻島の友人のガイドさんはバキューム・ポイズン・リムーバー(毒液・毒針吸引器)を持っていました^^;; ハブは以前は5000円で買い取ってもらえたそうですが、今は3000円だそうです。

タコノキ科タコノキ属の常緑小高木。亜熱帯から熱帯の海岸近くに生育。果実はパイナップルみたいに美味しそうに見えますが、ほとんどが繊維質で食べられません。

ホノホシ園地は、黄色の絨毯を敷き詰めたようにキレイでした。 北海道から沖縄まで草原の日の当たるところに多く,岬や田畑周辺に生育。


この海岸 波打ち際では、まんまるの石がゴロゴロとすごい音を立てていました。思わず、動画も撮影。
名前の由来は、この浜から大島海峡に抜ける陸の部分がひょうたんのくびれ状になっていて、昔、漁師が海路をショートカットして舟を担いで歩いたことから「船越」、なまって「ホノホシ」となったといわれています。
参照:https://blog.goo.ne.jp/mt-fortune
また、このホノホシ海岸をググってみると「ホノホシ海岸の石を持って帰ると、夜になると動き出す」「石を持ち帰った人には災いが降りかかる」「パワースポット」など様々な情報がありました。これらは、帰ってから分かったことなのですが、確かに圧倒されるような空気・空間であったことは間違いありません。
その後、古仁屋へ。「せとうち海の駅」に駐車(3日間で2400円でした)して・・・

奄美大島&加計呂麻島4~加計呂麻島・汽水域のマングローブの「ヒルギ」
さて、いよいよ、加計呂麻島へ!と云っても、対岸に渡るだけなので、わずか25分(笑)
「フェリーかけろま」10:20古仁屋発~10:45瀬相着 片道400円
それでも、船内は・・・・





奄美大島は日本の縮図、加計呂麻島は奄美大島の縮図とも云われています。
あっという間に「瀬相」着。



「いっちゃむん市場」でガイドさんと合流。加計呂麻島探検開始~~♪14年前に来た時は加計呂麻島東部(生間・諸鈍)を中心に案内してもらいましたが、今回は西部、北部を案内してもらいました。というわけで、瀬相港から北上。まずは汽水域へ。


オオジシバリ Ixeris debilis (キク科 ニガナ属)のようです。
和名は「地面を縛る」・・・・「大地縛り」ですな。東アジア原産の多年生キク科雑草で全国に分布。う~ん・・・今まであまり気にしたことなかったなあ。

ジュウニヒトエ???によく似ているなあと思ったら・・・・
オニキランソウ(シソ科キランソウ属)
九州(奄美大島、徳之島、喜界島、沖永良部島)エリアに分布。
調べていたら、ジュウニヒトエもキランソウ属なんだ。背の高いキランソウ属もあるんですねえ。キランソウって地面に這って咲いているものだから。。。

さて「汽水域」です。
汽水域とは、河口付近や海につながる湖沼で、淡水と海水とが混じり合い、塩分が両者の中間になった水域。有名なところでは浜名湖などがありますね。
この青々した木は・・・・・「マングローブ」です。
実は「マングローブ」という名の植物は無くて、マングローブとは、熱帯および亜熱帯地域の河口汽水域の塩性湿地にて植物群落や森林を形成する常緑の高木や低木の総称です。
で、マングローブの代表的な植物は「ヒルギ科」。日本には、ヤエヤマヒルギ、メヒルギ、オヒルギがあり、奄美大島ではメヒルギ、オヒルギが生息しています。
このヒルギ科の植物の生存戦略は実にユニーク。この汽水域に生息していたのは、
「メヒルギ」。



奄美大島&加計呂麻島5~加計呂麻島・武名集落周辺(ノロ信仰&ガジュマル巨樹)
加計呂麻島・汽水域のマングローブの「ヒルギ」を見せてもらった後、三浦集落の「艦船用給水ダム跡」へ。
奄美大島と加計呂麻島を隔てる大島海峡は、リアス式海岸で水深も深いため、戦時中は艦艇の停泊地として利用されました。

白い線は飛行機雲。満々と水を溜めていました。三浦集落の奥には、戦時中に艦船などに水を補給するためのダムが残り現在でも満々と水を讃えています。海へ向けて打つゴルフ練習場もあったみたいですよ。
三浦集落から北の武名集落へ



ググっていたら、ガイドさんが載っていました^^
さて、武名集落を巡ります。その前に「奄美群島の歴史」と「ノロ信仰」について
奄美群島の歴史
・奄美群島は、沖縄と鹿児島のほぼ中間に立地していて、長い歴史の過程の中で「大和文化」と「琉球文化」の双方かの影響を受けて成立してきた。
・島民による統治は平安時代の末期(1200年頃)まで。
・それ以降は、壇ノ浦の戦い(1185年)に敗れた平家武将による統治
・15世紀には琉球王国の支配下
・17世紀には薩摩藩の支配下
・近代は廃藩置県により鹿児島県に編入
・1879(明治12)年、正式に日本領域認定
・1945(昭和20)年、第二次世界大戦敗戦により米国の統治下
・1953(昭和28)年、本土復帰
ノロ信仰
このような様々な文化が混在している島だったが、特に島の文化に影響を与えたのが那覇世(ナハユ)の琉球王朝統治期における、「ノロ制度」の導入である。女性神役「ノロ」は、琉球最後の王朝に確立した、地方の村落を国王の支配下に組み入れる宗教権威者である。薩摩藩支配下で禁じられ、以降徐々に衰退していったが、一部の集落では精神的支柱としてのノロは継承され、その後集落ごとに独自の変容を遂げることとなった。
ノロ(祝女)は、地域の祭祀を取りしきり、御嶽を管理する。民間の巫女である「ユタ」とは異なる。御嶽(うたき)は、琉球の信仰における祭祀などを行う施設。
1970年代以降、ノロの高齢化や後継者不足によってノロ不在となる集落が相次ぎ、奄美大島におけるノロ祭祀は消滅寸前となっている。
ノロ祭祀における祭祀空間(聖地)には、集落毎の差異は認められるものの、
「カミヤマ(オボツヤマ)」「カミミチ」「ミャー」「トネヤ」「イジュン」「アシャゲ」の6つが挙げられる。
1.カミヤマ(神山)・・・神が去来する最も主要な聖地。集落の背後にある。
2.カミミチ・・・カミヤマに来臨した神が山から集落に降臨する際に通る道。
3.ミャー・・・集落の中央にある広場。8月十五夜と旧暦9月9日豊年祭に土俵を設け、神に捧げる相撲をとる。
4.トネヤ・・・祭場。トネヤの神という集落の神が祀られる。祭祀における男性神役「グジヌシ」が管理に携わることが多い。
5.イジュン・・・集落において清めの水とされる泉または井戸。
6.アシャゲ・・・ミャーに建てられる祭場。簡素な構造の建屋。
加計呂麻島には、これらのノロ祭祀の場所がたくさん残っていました。

左の簡素な建屋が「アシャゲ」


石灰岩の自然石・・・「イビ」と呼び、島立神として集落を守っている神さま。

さて、いよいよお目当ての巨樹「武名のガジュマル」へ。




武名のガジュマル
樹齢不明。ググると樹齢400年とも。加計呂麻島で一番大きなガジュマルと云われています。奄美大島では古くから、ガジュマルには「ケンムン」というイタズラ好きな妖怪が住むと言われているそうですが、いかにも住んでいそうです。月夜にここに居たら、ホントに逢えそうな気がしますね。「締め殺しの木」ですから・・ちょっと怖いかなあ。。。それにしてもスゴイ生命力を感じさせる巨樹でした。
ガジュマル(学名:Ficus microcarpa、漢名:細葉榕、正榕、榕樹[1])
は亜熱帯~熱帯地方に分布するクワ科イチジク属の常緑高木。
樹高は20m。実は鳥やコウモリなどの餌となり、糞に混ざった未消化の種子は土台となる低木や岩塊などの上で発芽する。幹は多数分岐して繁茂し、囲から褐色の気根を地面に向けて垂らす。垂れ下がった気根は、徐々に土台や自分の幹に複雑にからみつき派手な姿になっていく。ガジュマルの名の由来は、こうした幹や気根の様子である「絡まる」姿が訛ったという説がある。気根は当初はごく細いが、太くなれば幹のように樹皮が発達する。地面に達すれば幹と区別が付かない。また、成長した気根は地面の舗装に使われているアスファルトやコンクリートなどを突き破る威力がある。こうした過程で、土台となる木は枯れていく(ガジュマルはいわゆる「絞め殺しの木」の一種である)。
ガジュマルの名は、沖縄の地方名だが、由来は不明。前述の「絡まる」の他、一部には『風を守る』⇒『かぜまもる』⇒『ガジュマル』となったという説がある[要出典]。
日本では九州の屋久島と種子島以南、主に南西諸島などに分布する。
奄美大島&加計呂麻島6~加計呂麻島・薩川集落周辺(薩川小学校他)&裏実久ビーチ
お昼ごはんを待っている間、薩川小学校・薩川集落を散策~~♪
まず、薩川小学校


この薩川小学校は、NHK土曜ドラマ『島の先生』(主演・仲間由紀恵)のロケ地でもあります。

右のガジュマルには
「さつっ子の木 このガジュマルの木のように大地にしっかり根をはって、すくすくとのびましょう」の看板^^

「奉安殿」とは、戦前の日本において、天皇と皇后の写真(御真影)と教育勅語を納めていた建物です。この薩川小学校の奉安殿は、昭和10年に建立されたもので,国の登録有形文化財に指定されています。加計呂麻島を含む奄美の瀬戸内町には本校を含めて6つの学校に残っています。

薩川の「薩」は「薩摩藩」からかと思ったら、静岡の薩川さん由来だそうです。








お腹も満たされ、午後の散策開始。薩川集落から芝集落へ。







実久湾と実久集落、さらに江仁屋離島、その先に見える西古見集落が眼前に広がる絶景ポイントより。実久海岸 「実久(さねく)ブルー」と云われています。
海の色合いがなんとも云えません。美しい~~







奄美大島&加計呂麻島7~加計呂麻島・実久ブルー&高千穂神社(瀬武)&地質のお勉強&オヒルギ
加計呂麻島といえば、「諸鈍シバヤ」。「諸鈍シバヤ」は、源平の戦いに敗れて落ちのびて来た平資盛一行が、土地の人々と交流を深めるために伝えたのが始まりと伝承されていますが、源氏と平家の伝説が残るこの加計呂麻島で、同じ日にお祭りが開催されていることは、あまり知られていません。
加計呂麻島の
西の「実久」では、源為朝の子「実久三次郎」が実久三次郎神社に、
東の「諸鈍」では、「平資盛」が大屯神社に祀られています。





では、実久ビーチへ。




実久海岸を離れ南下。もう一度薩川集落を通り「瀬武(せだけ)集落」へ。


ハイビスカスは、アオイ目アオイ科フヨウ属 の植物の総称。フヨウ属の花は一日花で一日で花はしぼんでしまいます。
ブッソウゲ(仏桑花、Hibiscus rosa-sinensis, rose of China, Chinese hibiscus)は、アオイ科フヨウ属の低木。扶桑花、仏桑華とも。沖縄では赤花ともいう。
ハイビスカスとも言うが、フヨウ属の学名・英名がHibiscusであることから、この名前は類似のフヨウ属植物を漠然と指すこともあって、複雑なアオイ科の園芸種群の総称ともなっている。中国南部原産の説やインド洋諸島で発生した雑種植物であるとの説もあるが、原産地は不明である。本土への渡来は、慶長年間(1610年頃)に薩摩藩主島津家久が琉球産ブッソウゲを徳川家康に献じたのが最初の記録として残っているという。


この雰囲気は・・神社ですね。高千穂神社(瀬武)です。






シンプルな社ですが、お供え物もたくさん。
瀬武はかつて実久村と呼ばれ、実久役場が置かれていました(今でも郵便局名は実久郵便局)。この地区の山の上にあるのが「高千穂神社」。
下記を投稿しましたが、ガイドさんから「実久村が出来たのが大正5年なので、瀬武の高千穂神社が勧請されたのはその時だと思います。名瀬の高千穂神社が明治2年創建。」との事です。もしかしらたご祭神も違うかもしれませんね。
↓?↓?↓?
明治2年、大島群全島の宗廟として、旧藩知事島津公の命により勧請され、その6月に鎮座。ご祭神は瓊瓊杵尊(ニニギノニコト)と応神天皇。2013年に神社再建。
https://www.kagojinjacho.or.jp/shrine-search/area-ooshima/%e7%80%ac%e6%88%b8%e5%86%85%e7%94%ba/861/

瀬武集落のカミヤマはウボツと呼ばれています。そこには高千穂神社があります。カミミチはウボツから集落の中を通り、ミャー(集落の祭りを行う広場)を通り浜へつながっています。
集落のイジュミゴー(泉)がアミゴー(お水取りの場)にされていました。
さて、スリ浜に位置する今夜のお宿、ハウスinカケロマさんを目指します。




瀬戸内町(せとうちちょう)の地層
瀬戸内町のほぼ全域に四万十累層群に対比されている堆積岩が分布し、山地をつくっています。
この町の美しい景観をつくっているのは、琉球列島の他の島には見られないリアス式海岸です。本島と加計呂麻島、請島、予路島に入り組んで発達するリアス式海岸は、少なくとも過去10万年の間に奄美大島の南西部が沈降したことによってつくられました。奄美大島北東部の笠利半島はサンゴ礁が隆起し、石灰岩として台地を形成しています。龍郷町を境に東が隆起し、西が沈降しているのです。
更に加計呂麻島の地質図を見ると・・・・

加計呂麻島は、この地質図を見れば一目瞭然なのですが、島を真っ二つに左右色が違います。加計呂麻島の西半分は、混在岩(砂岩・チャート・玄武岩等)とチャート、東半分は、砂岩・泥岩・粘板岩すなわち、西半分は非常に硬い岩石で層状をなす地質、東半分は砂泥の柔らかい地質ということになりますね。どちらも堆積岩地質ですが様相が全然違うわけです。
この日の最後に「オヒルギ」を見せてもらいました。


和名のオヒルギ(雄ヒルギ)、メヒルギ(雌ヒルギ)は、胎生種子が、オヒルギはこの写真ですが、メヒルギはオヒルギよりも細く女性的であることに由来するようです。


根(呼吸根)は屈曲膝根と呼ばれ、写真のように湾曲して人の膝のように見えます。根がぼこぼこと地中から出ていますねー。。大型個体になると根本が板根状になるようですよ。
奄美大島&加計呂麻島8~加計呂麻島・スリ浜 ハウスinカケロマ&朝陽&ドローン撮影

盛沢山のよく遊んだ一日でした。ガイドさん、ありがとう♪




美味しい夕食でした。朝食も。写真撮るの忘れちゃいました。酔った勢いで、持って行ったトラベル・ディジュリドゥ吹いてきちゃいました^^
夜はヤマバトが♪
2020.3.4 さて、三日目です。朝食前にお散歩♪







お庭の巨大な団扇のような樹木は「タビビトノキ(旅人の木)」
マダガスカル原産のバナナに似た植物。オウギバショウ(扇芭蕉)、あるいは旅人木(りょじんぼく)とも。ゴクラクチョウカ科。葉柄に雨水を溜めるため、飲み水として利用されたりも。
他にゲストは若い女性2人の一組。こちらの方たちも卒業旅行のようでした。コロナウィルスの影響でキャンセルが多いようです^^; 私の同行者の先輩がドローンを持ってきていたので、ハウスインカケロマ敷地内で飛ばしてもらいました。
ツバメたちが、なんだ?なんだ?とドローンの周りを飛んでいましたよ。ブーンという音を虫だと思ったのでしょうか(笑)
その後、日の出が見れるかとペンション前の「スリ浜」を散策。










ハウスインカケロマの稲さん、正子さん、お世話になりました。
ありがとうございました^^ ホントに天国のようなところでした^^
奄美大島&加計呂麻島9~加計呂麻島・特攻艇「震洋」基地跡付近を探索
ハウスインカケロマを離れ、加計呂麻島観光の続きです。朝、ガイドさんが迎えに来てくれました。まずは、瀬戸内町大字押角の島尾敏雄文学碑公園へ。



その後、公園を奥へ。

島尾 敏雄(しまお としお、1917年(大正6年)4月18日 - 1986年(昭和61年)11月12日)は、日本の作家。
大学卒業後に海軍予備学生に志願し第十八震洋特攻隊隊長として、奄美群島加計呂麻島に赴任。1945年8月13日に特攻戦が発動され、出撃命令を受けたが発進の号令を受けぬまま即時待機のうちに終戦を迎えた経験を持つ。「ヤポネシア」なる概念を考案したことでも知られる。
作品は超現実主義的な『夢の中での日常』などの系列、戦争中の体験を描いた『出発は遂に訪れず』などの系列、さらに家庭生活を描いた『死の棘』などの系列に大別される。また生涯書き続けられ、小説作品との決定的な差異は無いとされる日記や紀行文など記録性の高いテキスト群や南島論なども高い比重を占める。
妻はのちに作家となった島尾ミホ。長男は写真家の島尾伸三で、漫画家のしまおまほは孫にあたる。島尾の浮気に起因する心因性の精神症状に悩む妻との生活を描いた『死の棘』は小栗康平によって1990年に映画化され、第43回カンヌ国際映画祭にて最高賞パルム・ドールに次ぐ、 審査員グランプリ受賞となった。
amazonで観れました。映画の中で、「震洋」や「横穴」、「ハゲー」という言葉や、奄美三味線・太鼓も出てきましたよ。もっと加計呂麻の風景が出てくるかと思ったら東京での生活が中心なのですね。その東京の風景も興味深かったですが。
公園を更に奥へ。この島尾さんが出撃を待っていた震洋(しんよう)が・・・


ここには、第二次世界大戦のときの特攻部隊である震洋の基地の跡が残っている。震洋(しんよう)とは、ひとり乗り、もしくは二人乗りの小型のベニヤ板製のモーターボートの艇首に炸薬を搭載し、敵艦船に向かって全速力で衝突、自爆する部隊のこと。ここ加計呂麻島にもいくつかの部隊が配置され、その跡がまだ残っています。
終戦時には本土決戦に対する備えとして4,000隻近くが実戦配備についていた。震洋の戦死者は2,500人以上。

この穴の中から見る海は・・・・






奄美大島&加計呂麻島10~加計呂麻島・西阿室教会のマリア観音像&巨大ウナギ&西阿室集落散策
2020.3.4
呑之浦(のみのうら)の島尾敏雄文学碑公園を散策後、加計呂麻島西部の西阿室集落へ。雨が降りそうでしたが傘を開くこともなくラッキーでした^^

割と高い木で、黄色い花があちこちで見られました。イッペイという花の名前で呼ばれているようです。ちょっと調べてみたら・・・・
ノウゼンハレン(ノウゼンカズラ科)落葉高木・南米原産 花は黄色 別名コガネノウゼン
イッペイは、ブラジル中南部~アルゼンチン北部 花はピンク
南米原産のイッペイと呼ばれる花は、ブラジルの国花でピンク色の花。ノウゼンハレンが黄色の花だが、最近ではノウゼンハレンもイッペイやイペーと呼ばれ、その呼び方が定着しつつあるとのこと。



西阿室の港 防波堤の絵が可愛いです。
西阿室集落は、加計呂麻島内で二番目に大きな集落だそうです。中央のそびえたつ島は、立神(たちがみ)。古くから信仰対象で、神さまが来て最初に立ち寄る場所だとして大切にされてきました。夕景は絵になりそうですねー。
では、昼食~^^







昼食後、カトリック西阿室教会へ。






マリア観音は、主に江戸時代の禁教令によって弾圧を受けたキリシタン(キリスト教徒)たちによって信仰の対象とされた聖母マリアに似せられた観音菩薩像。
マリア観音像の台座蓮花台の下部に赤い魚が描かれています。これが潜伏キリシタンが礼拝物としたという「イクトゥス(初期キリスト教徒の隠れシンボル)」なのだそうです。








奄美大島&加計呂麻島11~加計呂麻島・須子茂集落 & 厳島神社 & 須子茂小学校
2020.3.4 西阿室集落散策後、北の須子茂(すこも)集落へ。






ノロ信仰
・・・特に島の文化に影響を与えたのが那覇世(ナハユ)の琉球王朝統治期における、「ノロ制度」の導入である。女性神役「ノロ」は、琉球最後の王朝に確立した、地方の村落を国王の支配下に組み入れる宗教権威者である。薩摩藩支配下で禁じられ、以降徐々に衰退していったが、一部の集落では精神的支柱としてのノロは継承され、その後集落ごとに独自の変容を遂げることとなった。
ノロ(祝女)は、地域の祭祀を取りしきり、御嶽を管理する。民間の巫女である「ユタ」とは異なる。御嶽(うたき)は、琉球の信仰における祭祀などを行う施設。
1970年代以降、ノロの高齢化や後継者不足によってノロ不在となる集落が相次ぎ、奄美大島におけるノロ祭祀は消滅寸前となっている。
ノロ祭祀における祭祀空間(聖地)には、集落毎の差異は認められるものの、
「カミヤマ(オボツヤマ)」「カミミチ」「ミャー」「トネヤ」「イジュン」「アシャゲ」の6つが挙げられる。
1.カミヤマ(神山)・・・神が去来する最も主要な聖地。集落の背後にある。
2.カミミチ・・・カミヤマに来臨した神が山から集落に降臨する際に通る道。
3.ミャー・・・集落の中央にある広場。8月十五夜と旧暦9月9日豊年祭に土俵を設け、神に捧げる相撲をとる。
4.トネヤ・・・祭場。トネヤの神という集落の神が祀られる。祭祀における男性神役「グジヌシ」が管理に携わることが多い。
5.イジュン・・・集落において清めの水とされる泉または井戸。
6.アシャゲ・・・ミャーに建てられる祭場。簡素な構造の建屋。
上記にプラスして、概ね、アシャゲの隣に建てられているイビガナシが、挙げられる。石灰岩の自然石で「イビ」と呼び、島立神として集落を守っている神さま。
65歳以上の女性全員が神人で祭りを行っていた・・・どんなお祭りなのでしょうね^^





では、こちらの集落の「厳島神社(須子茂)」へ。




こちらの厳島神社(須子茂)は、鹿児島県神社庁には見受けられません。
民間信仰(ノロ信仰)と、ここに書かれている「峯田前田氏」をお祀りし、更に平家ゆかりの厳島神社を祀ったのでしょうか???ググっても良く分かりませんでした。
いずれにしてもこの集落のノロ信仰の聖地であったことには間違いありません。



ハイビスカスの定番「ブッソウゲ」 少し雨模様ですが、小ぶりです。
その後、集落の廃校(2018.3)になってしまった須子茂小学校へ。




この小学校は1880年須子茂簡易小学校として開校。15年後に閉校したものの1900年に瀬武尋常小学校須子茂分校として再開。1980年には創立100周年を迎えたが、児童数の減少により2011年4月から休校していました。

母と子の像
昭和37年、NHKのラジオ番組で当時の須子茂小学校の校長の投書が読まれたことから始まりました。
当時、加計呂麻島は夜間しか電気が使えない場所でした。昼間は自家発電をしなければ視聴覚教育など電気を使う授業はできない状態でした。しかし、国の補助金が打ち切られるため、自家発電設備を作ることができず、離島における教育に悩んだ当時の校長が、その件をラジオに投書したのです。
ラジオ放送を聞いた大手ゼネコンの鹿島建設の社長である鹿島卯女(かじまうめ)さんが資金援助を申し出、念願の自家発電設備を整備することに。その後も、鹿島卯女さんと須子茂小学校の交流は続き、鹿島卯女さんは出稼ぎなどで夫が留守にすることも多い島の集落の女性と子ども達の支えとなることを願い、この母と子の像を寄贈しました。





小学校は維持されているようでしたが、現在どのような活動が行われているのかはググってもよく分りませんでした。自然学校等の活用・・・などは過去投稿で散見されましたが。。。。ぜひ、残してもらいたいものです。
この小学校脇に水路があったのですが、裏山から続いていました。


小学校を訪ねた後、ガイドさんとお知り合いのお宅で黒糖菓子や珈琲を頂きました。





須子茂集落を離れ・・・

俵集落から嘉入集落に向かう道の途中にあるこの滝は、別名「ウティリミズヌ瀧」と呼ばれています。標高310メートルの嘉入山が水源地で、かつては山の上の田んぼで稲作が行われていました。滝の落差は約15メートル、滝壺は約2メートル。
聖域としてノロの親神だけが肌身を浄める地域でもあったようです。

加計呂麻島には信号が1ヶ所しかないらしく、街灯も少ないので夜間の交差点は非常に危険。なので、この「まもる君」が見守っていますよ^^
奄美大島&加計呂麻島12~加計呂麻島・海宿5マイル&さよなら加計呂麻島
2020.3.4 今夜のお宿は伊子茂集落はずれの「海宿5マイル」です。ガイドさんとはココに送り届けていただきお別れ。いろいろとお世話になりました。翌日からは絶滅危惧種「アマミヤマシギ」調査同行のようです。













写真集が置かれていました。『加計呂麻島 昭和37年/1962 ―ヨーゼフ・クライナー撮影写真集―』残念ながら発行元で品切れです。
「奄美 加計呂麻島のノロ祭祀」
奄美大島の加計呂間島に加え請島・与路島でのノロ祭祀とそれに関連する諸行事や遺跡・遺構に関する調査報告。その報告はこの3島の全有人集落33を網羅しています。




少し小雨交じりで、ほとんど海に行けず残念でした。時間が止まったような感覚・・・何もしなくていい・・・島はホントに不思議な時間の流れ方をします。

いよいよ加計呂麻島を離れて奄美大島へ戻ります。瀬相の港まで、5マイルのおとうに送ってもらいました。港までわずかな時間なのですが、トンネルを北に抜けると気温が2-3度下がるとか。そんなに違うとはビックリでした。
行きはフェリーでしたが、帰りは海上タクシーにて瀬相→古仁屋へ。









奄美群島は約1,000万年前、沖縄や台湾と繋がったユーラシアプレートという大陸のキワだった。
そこから太平洋側にある琉球海溝に引っ張られ、大陸から引き離され、間に東シナ海ができ、約200万年前に今の奄美と沖縄が島として独立した。
なので、奄美大島の地質はとても古く、中生代のジュラ紀とのこと。鉄分の多い土質もこうした歴史によるもの。
大島海峡の特徴
・両方の入り口には流れがあるため、新鮮な海水の出入りが良い「潮通しがいい」状態である。
・島が風よけになり、南の島特有の台風の影響を直接受けにくい。
・黒潮が流れ込んでいるので水温が高くプランクトンや餌が豊富。以上の事から、「真珠の養殖」「クロマグロの養殖」が行われています。養殖されている真珠は、白蝶貝の中からできる球状の南洋真珠と、半球状のマベパール。
白蝶貝からできる真珠は白やピンクなどの色のものもありますが、ゴールドリップ種という金色の濃い白蝶貝から生まれるゴールドに輝く真珠は、特に人気が高いそうです。近畿大学の養殖しているクロマグロが台風の影響で逃げ出したりして、子どもたちが波打ち際でマグロを拾ったりしたこともあったそうです。
海上タクシーの中で地元の乗客の方々に、奄美大島北部の情報をいろいろといただきました。感謝感謝^^ つづく~
奄美大島&加計呂麻島13~奄美大島・宇検村&大和村 豪快な東シナ海
2020.3.5 さて、加計呂麻島から奄美大島へ戻りました。古仁屋でけっこう有名な昭和チックな銭湯「嶽乃湯」に入ろうかと思っていましたが、13時からの営業で断念。
瀬戸内町古仁屋の細い川沿いにある「嶽乃湯(たけのゆ)」。昭和18年創業、古仁屋に唯一残っている昔ながらの銭湯。う~ん・・・やっぱり入りたかったなあ。でも、この日、訪ね走った奄美大島西部、東シナ海エリアは、スンゴイところだったので古仁屋で時間をかけるよりは良かったのですけどね。もう一日あったら、古仁屋付近をノンビリ回りたかったかなー。
まずは「宇検村(うけんそん)」へ。
石油備蓄基地建設計画、無我利道場問題、奄美大島地区合併協議会離脱、高レベル放射性廃棄物最終処分場誘致問題と時代に翻弄されてきた村ですが、穏やかな空気の流れる素敵な村でしたよ。
加計呂麻島から渡ってくる時に、乗客の方に、大和村付近で、何処か昼ご飯を食べるところがありますかねえと尋ねたら、ココ、宇検村の「やけうちの宿」をおしえて頂きました。
ここは、奄美黒糖焼酎「れんと」で有名な「奄美大島開運酒造」系列の宿泊施設&レストランです。



是非、工場見学をと云われたのですが、道のりが長いのでNG。この日の4日後からはコロナウィルスの影響で工場見学中止になっていました。

昼食は、やっぱり、「鶏飯」。初日に食べた笠利町の「みなとや鶏飯」と食べ比べ^^「みなとや鶏飯」はスープが濃厚でしたが、こちらの鶏飯は、あっさり系でしたよ。どちらも美味しい。人によっては好みは分かれるかもしれませんけどね。
さて、腹ごしらえしたところで、宇検村を離れ、大和村へ。

大和村(やまとそん)今里集落
奄美大島中央部に位置し、北岸で東シナ海に面する。湯湾岳(奄美岳)標高694mで奄美大島最高峰。奄美群島国立公園の特別保護地区、および天然記念物(天然保護区域)に指定されています。
う~ん・・・・佐渡島に似たダイナミックな雰囲気です。




今里集落を見守る集落のシンボル。集落内の路地はすべてこの立神に向かっています。ネリヤカナヤから来た神様が最初に立ち寄る場所として、信仰の対象となっていたことから、自然と人々のかかわりを示す景観ということで奄美群島国立公園に指定されています。
加計呂麻島の集落の神様が最初に立ち寄る岩と同じですね。更に県道79号線を北東へ。ここからの東シナ海の海岸ラインは凄かったです。
大和村名音集落の名音トンネルを抜け振り返ると・・・

すごい断崖絶壁です。ここは、徳浜の断崖と云われています。
海上にそそり立つ徳浜の断崖の高さは170メートルで、その下を徳浜トンネルが貫通しています。この断崖は鎌倉時代の大地震によってできたといわれ、放散虫という小さな生物の死骸が深海底に堆積してできた岩石(チャート)が見られるそうですよ。
この辺りからの海の様相は凄かったです。


道路は高度を上げていきます。



ド迫力ですわ。しかし、更にこの道路、高度を上げます。
嶺山公園に到着

(追記:ガイドさんからリュウキュウコスミレではないかと教えて頂きました。)





奄美大島&加計呂麻島14~奄美大島・大和村(群倉 & マテリアの滝 & 国直海岸)
2020.3.5 豪快な東シナ海を楽しんだ後、大和村大和浜にある「高倉」を見学。




「高倉」の集まりのことを『群倉(ぼれぐら)』と呼びます。現在「群倉」は、大和浜の群倉だけで県の文化財に指定されています。
高倉は、釘を一本も使わない最古の建築様式で建てられた穀物貯蔵庫。茅葺きの部分が貯蔵庫になっており、ネズミが上れない構造です。食料等を火災などから守るために集落のはずれに建てられていました。
高倉を見学後、少し戻って山の中へ入り、「マテリアの滝」へ。


マテリヤの滝の由来
福元盆地はかって琉球王朝から島津藩時代は、大和浜間切と焼家間切(現在の宇検村湯湾)の中間地点として旅人や飛脚等の休息地又は宿場として20数戸の人家があった。
盆地を流れる川は現在の住用川の上流でしかも本流であり集落から約1Km下流で支流と合流する地点があり、ここにこの滝がある。
当時の川の流域はうっそうと大木がおい茂り昼でも暗かったという。不思議にこの滝壺の上だけがポカッと青空が見え、滝壺は何時も太陽の光で美しく照り輝きそこを通る旅人等の心に安らぎを与え、よき憩いの場として親しまれてきたという。
そこで昔の人々はこの滝壺に美しく写り輝く丸く明るい太陽の影を見て「本当に美しい太陽の滝壺」と賞賛し続け何時のまにか「マテリヤのコモリ」となり今では「マテリヤの滝」といわれている。
春(5月頃)は山ツツジが滝壺の周辺と渓流の岩間から、美しい紅の花をのぞかせ流れ落ちる滝の清流の音と小鳥のさえずる美しい鳴き声と調和のとれた山の中での音楽を聞きながら冷たい清流に足をつけ子供たちはにぎり飯を開き、大人は焼酎を清流でうすめながら飲む味は絶対に味わえない風情です。ぜひご観賞下さい。(看板より)
「マ・ティダ・ヌ・コモリ」という太陽が輝く滝壺を意味する島口(奄美の方言)が名前の由来。ティーダ、 テダ、ティダは、主に沖縄方言で太陽を意味する語句です。
高低差はありませんが、ともかく、スゴイ滝でした。何が?いや~、これは実際に観ないと伝わらないかもしれません。





ここの空気・空間は最高でした。わずかな情報で立ち寄りましたがビンゴでしたね^^
マテリヤの滝から、再度、海岸通りの県道79号線へ戻ります。

国直集落については上記に詳細に紹介されています。トネヤ、ミャー、アシャゲ、グスク跡も見られるようです。







奄美大島&加計呂麻島15~奄美大島・「島泊・愛かな」&「2つの海が見える丘」&「手広ビーチのウミウシ」&「大島紬」& etc(完)
2020.3.5 大和村を存分に堪能した後、奄美市市街を経て、旅程最終日の龍郷町の国道58号線沿いの宿泊宿「愛かな」へ到着。

・国道58号は、鹿児島市~那覇市の一般国道。
・途中、種子島、奄美大島を経由する。
・大部分を占める海上区間の延長609.5 kmは日本最長。
・海上区間を含む国道の路線別総延長でも2015年4月1日現在、第1位の長さ。
・国道58号の沖縄県内部分は、米軍が整備・指定したHighway No.1(那覇市 - 国頭村)がその起源。
・沖縄返還と同時に「沖縄の復帰に伴う建設省関係政令の改正に関する政令」が施行され、政府道一号線を含む鹿児島市から那覇市までの区間が一般国道58号に指定。
う~む・・・それで、奄美大島の唯一の国道として走っているわけですね。
素泊まりで宿泊した「愛かな」さんの内部。




シェアハウス風ですね。今回は、我々しか宿泊者が居なかったので、まるごと家の鍵を預けられました(笑)。できて間もないようで、とても綺麗でしたよ。共同のキッチンもお風呂もピカピカでした^^
「愛かな」さんに聞いて、近くのコンビニ「森山ストアー」へ買い出しに。。。お店の人に尋ねたらマスクもトイレットペーパーも品切れだと・・・。こちらは現金払い。
その後、晩御飯を食べに近くの飲み屋さんへ。一番近いタイ料理屋さんは、どうも休みのようで、「奄美 キッチンハウス pada-パダ ~定食・ランチ・居酒屋~」さんへ行きました。こちらもpaypay支払い。





2020.3.6 さて、いよいよ最終日です。格安航空チケットなのでお昼までの自由時間です。
2020.3.6(金) 奄美大島発 ―東京(成田) 着 ピーチ MM542(12時10分 ― 14時15分)


こちらでは大島紬の「泥染め体験」もできるようですよ。
「放課後等デイサービス 愛かな」もされていました。女将さんに半日何処かお勧めのところがあるかと尋ねたら、ほとんど知られていない「愛かな」の南側にある見晴らしの良い丘を紹介してもらいました。道路が開通していない為、行きにくいけれど・・・と。そりゃ、行かなくては(笑)
そこは「2つの海が見える丘」と名付けられた、素晴らしい展望の場所でしたよ。




同行者の先輩にドローンを飛ばしてもらいましたよ。








時間も押してきちゃっているので、その後、直ぐに大島紬村へ。
大島紬生産工場観光庭園 大島紬村
本来、大島紬は分業作業のようですが、ここでは観光の為に、泥染~機織りまでの製造工程が見学できます。






シャリンバイに含まれているタンニン酸色素と泥田の中の鉄分(酸化第2鉄)等が化学結合を85回以上繰り返し染色することにより堅牢(色落ちしない)で深く光沢のある渋い黒色に染まります。




まるでカラーのバーコードです。
紬(つむぎ)とは、真綿糸(動物繊維=蚕 (カイコ) の繭 (まゆ) から紡いだ紬糸)で織った絹布のことをいいますが、大島紬は現在本絹糸を使用した「絣(かすり)織物」であり、素材の分類上で紬と呼ぶのは妥当とは言えませんが、明治の中期まで紬糸を使用し、大島紬として既に市場に知れわたって定着していたため、古来の名称がそのまま受け継がれ現在に至っています。
つまり、昔の大島紬は、動物繊維の綿の屑糸を寄せ集めて糸にして「紡いで」生地にしていた。今のような絹糸(シルク)を用いて作られるようになったのは、大正時代辺りからだそうです。私的に昔の大島紬がどんなモノか見てみたかったですねー。





10:19 観光園内に高倉が展示されていました。観光園の支払いもpaypayでできました。
お土産ショップにちょっと寄って、空港へ急ぎます。レンタカーを返して、空港で荷物を預けて、空港内のジョイフル奄美空港店(ここしか食べるところがない・笑)でカレー食べて、ビール飲んで、良い時間になりました。最後に鶏飯をもう一回食べようかと思いましたがメニューにありませんでした(笑)。ここもpaypay払い。


14:00 ジェット機が並行していました。帰りは2時間くらいで到着。速い!!
いや~、盛沢山の旅でございました。楽しかった~。
++++++++++
奄美大島・加計呂麻島アラカルト(更に気になった点をメモ)
・ほとんどの場所でpaypayが使えたのは驚きでした。導入が早いですねー。
・加計呂麻島・5マイルでユタのおばあさん(笠利町)を紹介してもらったのですが、時間が取れずお会いすることはできませんでした。残念。。。。
・帰りの3/6到着時の成田空港はガラガラでした。使用した民間駐車場もキャンセルが相次ぎ、翌日からは予約を取らないとの事。悲鳴をあげていました。
・奄美の農業 は栽培面積、生産額において、さとうきびが第1位。>>しかし、砂糖のあまりにも大きい内外価格差を考えると、政府の保護や支援なしには奄美のサトウキビ栽培や糖業を維持することは難しい。
・稲作転換政策を機に水田の畑地化が推進され、 特に製糖工場の立地している周辺地域の水田は急速に消えていった。>>渡り鳥の中継地減少。
・江戸時代後期、薩摩藩主島津重豪の時代に本領と差別化するため一字の名字とすることになり、以前よりの郷士格3家に対しても一字姓とするように命じられた(1785年)。>>元ちとせさん、中孝介さん・・・
奄美大島出身の歌姫“城 南海(きずき みなみ)
「愛、奏でて」♪single西郷どん紀行より
・奄美の島唄はどこか哀愁やわびしさを感じさせるものが多いです。
古くから唄い継がれてきた島唄・・・日本本島の民謡は仕事歌が多いのに対し、島唄は生きる悲しみや怨嗟の歌、海への豊穣を祈願する信仰歌などが多い。これには、奄美が辿ってきた歴史が多いに関係している。(下記サイトより引用)
沖縄民謡の中でもある種のものは島唄と呼びますが、島唄は、元々は奄美で歌われる民謡を指すもの。宮廷音楽が主流の琉球民謡に対し、奄美島唄は薩摩藩支配下の厳しい庶民の生活から生まれたものです。
奄美島唄の特徴は、沖縄三線よりも細い弦で音程が高い三線の演奏に、裏声を多用して歌う民謡です。島唄はシマ唄とも表記されますが、その理由は奄美でいうシマ(集落)ごとに歌い継がれてきた唄だからです。また、島唄は1つの曲が固定的な形を持たないことも特徴です。
その歴史は古く、薩摩時代に作られたと思われる島唄は哀愁を帯びており、芸術性も高いと言われています。
・奄美はキリスト教の島
奄美大島北部を中心にカトリック教会が多く見られ、人口に対するカトリック信者の割合が、国内でも信者の多いとされる長崎県以上と言われる。
歴史上では、1549年にフランシスコ・ザビエルが鹿児島に到着し、日本におけるキリスト教の宣教が始まり、奄美大島でカトリックの布教が始まったのは1891年とされる。
だが、下記のサイトでは、「スペインはたくさんの伝道僧を日本に送った。伝道僧は島伝いに日本を北上した。琉球から奄美諸島を経て九州に上陸した。僧の一部は大名や織田信長にまで影響を与えた。」と書かれています。となると史実よりも以前から・・・・・
大笠利教会の建物には「Arms with Alpha and Omega」が・・・
新約聖書の「ヨハネの黙示録」(1章8節、21章6節、22章13節) に、主の言葉「私はアルファであり、オメガである」[1](コイネーギリシャ語: τὸ α καὶ τὸ ω; 英語: I am the Alpha and the Omega)として現れる。なお、21:6 と 22:13 ではこのフレーズの後に「最初であり、最後である」と続く。ギリシャ文字の最初の文字Α(アルファ)と、最後の文字Ω(オメガ)が並べられており、最初と最後、すなわち、「全て」「永遠」という意味を持つ。同じ意味で、「A to Z」「A-Z」「AZ」などと、表記されることがある。
加計呂麻島のカケロマの名前の由来
・奄美大島から見ると「カゲロウ」のように見えるから。
・沖縄(琉球)から加計呂麻島を見ると奄美大島に寄り添った「影のような島」>カゲヌマ>カケロマとなった。(ヌ=の、マ=島)
・「加計呂麻」は明治以降の日本政府の当て字で、本来は「カケロマ」。
・同様に「波照間島」=ハテルマ、「慶良間諸島」=ケラマ、「多良間」=タラマなど
・奄美地方に影響を及ぼした津波として記録に残っているものは、1911年(明治44年)の喜界島地震、1960年(昭和35年)のチリ地震津波、1995年(平成7年)10月18日、19日に発生した奄美大島近海(喜界島南東沖)によるものがある。
・葬儀について
日本では、風葬の習慣があった沖縄の一部や奄美群島などにおいて行われていました。洗骨(せんこつ)とは、ご遺体を土葬や風葬した後一定期間おき、再度取り出してご遺骨を海水や酒などで洗ってから骨壷へと納める葬制。埋葬してから何年か後に、洗骨を伴う改葬を行う。それをシマではハカアラタムル(墓改め)、あるいはカイソ(改葬)と称している。砂地では7年から13年ほどでカイソできるが、粘土質の土地ではそれ以上かかる。また、長く病気をした人は比較的早く骨になるが、健康体であった 人は時間がかかるとされる。一般的には13回忌頃行われる。
琉球王国の王室では、戦前まで洗骨の儀式によって納骨されていたとされる記録が残っている。
以上で2020.3.2~6奄美大島&加計呂麻島の旅行記(完)
※まとめ動画 BGMは、「郷土料理かずみ」で、ちょっと歌わせて♪とやってきた地元の方の奄美島唄です。
