【起業家列伝 #45】鈴木敏文はなぜ、自分の株を賭けてまでコンビニを始めたのか
AI時代が、壁を壊した。言語の壁も、技術の壁も、資金の壁も——かつて大企業だけが越えられた壁を、今は一人で越えられる。敷かれたレールを降り、アイデアひとつを胸に、自分だけの道を切り拓く者たちがいる。世はまさに、創造の新時代。
【起業家列伝】は、時代を切り拓いた起業家たちが、どのようにアイデアを思いつき、どのように行動し、どのように最初の収益を生み出したかを追うシリーズです。成功した後の話ではなく、始まりの話を書いていきます。
海のものとも山のものともつかない「コンビニエンスストア」という業態に、鈴木敏文は会社の資金ではなく、自分自身の持ち株を賭けました。社内の懐疑論を押し切り、モノもカネも経験もないところから、日本に新しい小売の形を根付かせていく。鈴木敏文の起業は、そんな一歩から始まりました。
鈴木敏文は、1932年、長野県に生まれました。1956年に中央大学経済学部を卒業後、最初に就職したのは、出版取次大手の東京出版販売(現・トーハン)でした。小売とは畑違いの世界からキャリアを始めた鈴木が、イトーヨーカ堂に入社したのは1963年のことです。
イトーヨーカ堂に入社して10年ほど経った頃、鈴木は、アメリカで広がりつつあった「コンビニエンスストア」という業態に着目します。小さな店舗で、日常のちょっとした買い物をすぐに済ませられる仕組みは、これからの日本にも必要になるはずだと、鈴木は確信していました。
しかし、社内の反応は冷ややかなものでした。当時のイトーヨーカ堂社内では、日本国内でコンビニ事業がうまくいくかどうかについて、懐疑的な見方が大勢を占めていたのです。
それでも、鈴木はこの事業を諦めませんでした。社内を説得するため、鈴木が持ちかけたのは、並大抵の覚悟では出せない条件でした。
もし事業が失敗したら、自分が保有するイトーヨーカ堂の株式で、その損失を穴埋めする。
この条件を提示することで、鈴木はオーナーである伊藤雅俊から、ようやく事業化の了解を取り付けます。会社の資金でリスクを取るのではなく、自分自身の持ち分を担保にしてまで、事業を通そうとしたのです。
1973年、イトーヨーカ堂の子会社として、ヨークセブン(現・セブン-イレブン・ジャパン)が設立されます。アメリカのサウスランド社からライセンスを取得し、日本でのコンビニエンスストア事業が、ここに始まりました。
翌1974年、東京・豊洲に、国内1号店がオープンします。
鈴木は、この頃をこう振り返っています。始めた当初は、モノもカネもなく、これといった経験もなかった、と。だからこそ、知恵を絞らざるをえなかったのだ、と。
実は、この記念すべき1号店は、本部が計画的に選んだ立地ではありませんでした。豊洲で酒屋を営む二代目、山本憲司さんが、新聞でイトーヨーカ堂の新事業の記事を目にし、自ら手紙を書いて加盟を申し出たのです。まだ正式な加盟店の募集すら始まっていない、いわば「計画外」の申し出でした。
工場地帯という、決して恵まれた立地とは言えない場所にもかかわらず、この1号店は年商1億8000万円という、想定を超える成績を記録します。日本の消費者は、この新しい業態を、確かに受け入れていたのです。
この1号店の成功は、その後の拡大を支えるモデルにもなりました。酒類販売免許を持つ、地域の小さな酒屋や米屋。後継ぎの問題や、経営の先行きに悩んでいた、こうした既存の小売店を、フランチャイズ加盟店として迎え入れる。この転換モデルが、以後の出店の原型になっていきます。
すでにその土地に根を張り、地域の顧客との信頼関係を持つ店主たちを味方につけたことで、出店のスピードは加速していきました。1号店の開業からわずか5年で、店舗数は591店にまで達していたのです。ゼロから出店先を探すのではなく、すでにそこにある信用を引き継ぐ形で店舗網を広げていく。この発想が、セブン-イレブンの急成長を支えていました。
社内の懐疑を押し切り、自分の持ち株を賭け、経験のないまま踏み出した挑戦。鈴木敏文の起業は、潤沢な後ろ盾があっての船出ではありませんでした。何もないところから、知恵だけを頼りに一号店の明かりを灯し、その明かりに引き寄せられるように集まった、地域の小さな店主たちの力を借りながら、店舗網を広げていった記録でした。
【最後まで読んでくださった方へ】
最後まで読んでくださり、ありがとうございます。起業家たちの物語は、まだまだ続きます。ほかの起業家たちの挑戦も、ぜひ覗いてみてください。
