『VLOOKUPの死角』#02 第2話【前編】:幽霊社員とスパゲッティExcel
※本作は全5話の連作ビジネスミステリーです。
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第2話【前編】
葛城陸の事務所のデスクには、紙の書類が一切ない。
壁際に設置された2枚の大型ディスプレイが、部屋の中で淡い光を放っている。
12時を過ぎても、葛城は席を立とうとしなかった。
デスクから引き出しを引くと、中から灰色のアルミパウチを取り出す。
手慣れた動作でプラスチックのシェイカーに水とパウダーを入れ、一定のリズムで本体を振った。ドロドロとした液体を、彼は燃料を補給するように喉へ流し込む。
データを整然と構造化する男の私生活は、食事という観点においては極限まで簡素化されている。
美守はコップを置く彼の手元を見つめながら、1か月前のあの日を思い出していた。
何百、何千と積み重ねたVLOOKUP関数の束を、「未払い残業代の隠蔽」だと容赦なく看破したのが、目の前にいる男だった。
絶望に身をすくませる美守に向かって、葛城は告げた。
『不完全なシステムの隙間を手作業で埋めようとした、その現場の執念だけは裏切りません』
孤独なワンオペ労務に摩耗しきっていた美守にとって、身も蓋もない正論の裏にある救いだった。
『あなたのデータの見方を、私に教えてください』
気づけば履歴書を携えて、事務所の門を叩いていた。
あれから1か月、美守は彼のアシスタントとしてここにいる。
葛城は空になったグラスをデスクの定位置に戻すと、上体を起こした。
「望月さん、次の往訪の準備を。13時には東洋重工へ入ります」
「あ、はい。資料はすでにタブレットに同期してあります」
美守は急いで自分のノートPCを鞄に収めた。
……
東洋重工の総務部は、築40年のビル特有の、古い油と埃の匂いが染みついていた。案内された会議室の机には、厚型のキングファイルが何冊も積み上げられている。
対面に座る労務担当の古賀は、50代半ばの、いかにも頑固そうな男だった。
彼は、美守たちが提出した監査計画書に触れもせず、不機嫌そうに視線を逸らした。
「葛城さん、うちの給与計算システムに不整合などありませんよ」
「それは、システムに入力する前段階のデータも、完全に統制されているという意味ですか」
葛城のトーンは低く平坦だった。
古賀は、不快感を隠そうともせず、手元のノートPCの画面へ視線を戻した。
「うちには、前任の課長が遺してくれた、盤石のExcelツールがあります。これを使って、私が1人で毎月の勤怠データを加工して、システムに吸わせているんです」
彼は上体を固く強張らせ、葛城を正面から見据えた。
「10年以上、1円の狂いもなく回ってきた。変える必要はどこにもありません」
古賀が誇らしげに叩いたノートPCの画面には、複雑怪奇なExcelシートが開かれていた。セルとセルの間を、無数の参照矢印が網の目のように飛び交う、スパゲッティExcel。
美守は、対面の男が放つ頑なな空気に、呼吸のテンポを落とした。
他人の気がしない。
ワンオペ労務として徹夜を繰り返していた当時の自分の姿が、古賀の頑迷な態度に重なって見える。
自分が倒れたら給料が止まる。
その恐怖から、美守は誰も触れないExcelを、善意で編み上げていった。
古賀もまた、この巨大な数式の化け物と1人で対峙してきたのだろう。
美守は心の中で、対面の男の強張った背中にそっと寄り添っていた。
もっとも、美守の隣に座る男には、現場の情念など1ミクロンも通じない。葛城は白シャツの袖口をゆっくりと、2回めくり上げた。
「古賀さん。その盤石なツールとやらに入力する前の、生のデータを拝見したい」
「生? 打刻システムから吐き出しただけのCSVですか」
「ええ。加工不可能な、無加工の生CSVデータです。全件、いただきます」古賀の頬の筋肉が硬直した。
「いや、それは労務の機密情報でもありますし、何より見ても意味がありませんよ」
「意味を決めるのは、あなたではなく、算数です」
葛城は、古賀の拒絶を、短い一言ですり潰した。
「望月さん、ドライブの共有リンクを。古賀さん、そこへデータを投入してください」
古賀は、渋々とキーボードを叩き始めた。指先が微かに震えている。
東洋重工の生CSVデータが、共有ドライブを介して葛城のノートPCへダウンロードされた。
「CloudDockを起動します」
葛城はそれ以上何も言わずに、特定のコマンドを実行した。
画面の中で、英語の羅列が超高速で流れる。Excelの真っ白なシートのバックグラウンドで、無数の生データが組み替えられていく。
葛城は、極小のストロークでキーボードを捉え続ける。
数万行に及ぶ文字列が整列し、半角数字となって視界を埋めた。
「あれ?」
美守は、ディスプレイに展開された、不自然な空白の列に気がついた。
何も表示されていない白いセルが、延々と続いている。
現場の労務担当者としての経験が、美守に違和感を植え付けた。
古賀が作ったツールの奥底に、何かが隠されている。
葛城はタイピングを止め、視線を古賀へと向けた。
「これが、加工不可能なファクトです。IFERROR関数の奥に隠された、年換算4,210万円の過誤払いリスクです」
古賀は大きく目を見開いたまま、椅子の上で身を硬直させた。
4,210万円。
美守は、自分のノートPCのフレームを指先で硬く掴んだ。
そんなはずはない、と内なる声が否定を試みる。
前職のベンチャー企業は、従業員80名ほどの若い組織だった。対して、今回の東洋重工は、創業から半世紀を超える歴史ある老舗メーカーだ。
会社の規模も、扱っている商材も、歴史の長さも、何から何まで全く違う。それなのに、なぜCloudDockが弾き出したリスク額は、1円単位まで一致しているのか。
美守は自分のノートPCを開き、キーボードを叩いた。
先月の監査で記録した過去のログファイルを画面に呼び出す。
ディスプレイに表示された過去の数字と、目の前でCloudDockが映し出している数字を比較する。
42,100,000半角数字の羅列が、寸分の狂いもなく並んでいた。
美守は、葛城が操作するディスプレイへと視線を走らせた。
彼はこの恐ろしい符合を、最初から予期していたのだろうか。
古賀が両手を机に叩きつけ、椅子を大きく後ろへ引きながら立ち上がった。
「適当な数字を並べて、人を騙そうとするんじゃない!」
古賀の叫び声が、会議室の古い壁に荒々しく反響した。
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