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『VLOOKUPの死角』#06 第4話【前編】:2026年の時限爆弾 —監査証跡の破壊—

※本作は全5話の連作ビジネスミステリーです。
あらすじや全話の一気読みは、公式の【連載マガジン(ロードマップ収録)】をご覧ください。


第4話【前編】

スマートフォンの画面に、ニュースアプリの通知が敷き詰められている。
美守は、画面に敷き詰められた「子ども・子育て支援金」の文字を視線で追った。

新しい法律が生まれるとき、バックオフィスの現場には見えない血が流れる。
法改正の波が押し寄せるたび、現場の人間は過酷なデータ修正を強いられるのだ。

美守はデスクに広げた実務情報誌の解説ページを見つめた。
社会保険料の新たな上乗せ、計算プロセスの追加、端数処理の変更。
細かな数字とルールの羅列に、美守は眉根を寄せた。

以前の記憶が、澱のようにせり上がってきた。

前職の中小企業で、新しいシステムが導入されたときだった。
不完全なシステムが端数処理のバグを出した際、
当時出向してきていた元上司の神崎は、美守に分厚い『手パッチ対応マニュアル』を押し付けたのだ。

『ベンダーに連絡するな。改修費の無駄だ。CSVで吐き出してExcelで上書きしろ』

神崎の含み笑いを帯びた声が、耳の奥にこびりついている。

『役員会には自動化成功と見せかけの数字を報告すればいい。中身のログなんて誰も見ない。帳尻を合わせるのがお前たちの存在意義だ』

会社を守るための徹夜作業は、神崎に搾取されていたにすぎなかった。

彼の影を感知してからというもの、背中に張り付いた寒気が消えない。
あの男と、得体の知れないシステムの下層で繋がっているのではないか。

チッ、チッ、という規則的な金属音が、デスクの向こうから届いた。

美守は実務情報誌から顔を上げ、対面に視線を向けた。

対面のデスクでは、葛城がネイビーのハイゲージニットを平置きにしていた。
右目に拡大鏡を装着し、左手に持った工業用の超精密ピンセットで、ニットの表面を突いている。
彼は繊維の摩擦で生じた極小の毛玉を、1本ずつ執拗に間引いていた。

1平方センチメートルあたりの毛羽立ちすら、彼にとっては許されざるバグなのだ。
画面上のエラーを潰すときと同じ厳密な観点を、衣服のクレンジングに適用している。相変わらずの異常性だった。

デスクの固定電話が、鋭いベルの音を立てた。

美守が受話器を取るのと同時に、スピーカー越しに怒号が漏れ聞こえてきた。
相手は、五葉商事グループの給与計算を委託されている、大手社会保険労務士事務所の責任者だった。

「葛城先生、今すぐ来てくれませんか。五葉グループの給与計算データが、システム上で破綻しました!」

受話器の向こうから伝わってくる空気に、背筋が強張った。
葛城は、ピンセットを所定のケースに収めると、ノートPCを鞄に滑り込ませた。

「望月さん、往訪します。生データを抽出する準備を」
「わかりました!」

急ぎ上着をひったくり、美守は葛城の背中を追ってオフィスを飛び出した。

……

往訪先の社会保険労務士法人「平河中央労務」のドアを開けた瞬間、激しいタイピング音が耳を刺した。

電話の呼び出し音が鳴り止まず、誰もが画面を睨みつけていた。
フロア中には印刷された紙の束が散乱し、担当者たちの顔は一様に強張っている。

支給日という絶対の締め切りを前にしたバックオフィスの混乱。
美守自身、何度も身を置いた景色だった。

奥の会議室へ通されると、実務担当者が手汗で濡れた書類を抱え、泣き出しそうな顔で葛城の前に立ち塞がった。
胸元のネームプレートには、「矢野紗季」という名前がある。

「システムベンダーの法改正対応が、今回の支給日にどうしても間に合わなかったんです。支給日を遅らせるわけにはいかないから、良かれと思って私がExcelで対応しました」

矢野は、掠れた声を室内に響かせた。
真面目で、責任感が強そうで、完璧主義な佇まい。

「システムがダメなら、人間が動くしかありません。だから、一度データをCSVで落としました。画面上で展開して、新しい控除額を、1円単位で手動修正したんです」

葛城の動きがピタリと止まった。矢野はさらに続けた。
「計算はすべて合っています。検算も何度もやりましたから、データの上では何の問題もないはずなんです」

葛城は何も答えず、自身のノートPCを開いた。
無駄のない打鍵音とともに、黒い画面に命令文がスクロールしていく。

美守は葛城の隣に立ち、ディスプレイをじっと見つめた。
画面に、

Table.SelectRows

という文字列が浮かび上がる。

これは、特定のデータだけを絞り込んでいる。
美守は頭のなかで、前職で覚えたExcelの『フィルター機能』と目の前の文字列を結びつけた。

さらに目まぐるしく展開していくコードの中に、

Table.ReplaceValue

という関数名を断片的に視界に捉えた。

これは置換処理。特定の値を別のデータに置き換えている。
Excelの『検索と置換』の構造が、M言語の命令文として記述されている。

美守の脳内で、現場の手作業の記憶と、目の前のシステムロジックが噛み合い始めていた。

その設計図の末端で、データの流れが不自然に歪んだ。

画面の端で、英語のエラーメッセージが点滅し始める。
どれほど現場が「計算は合っている」と言い張ろうとも、隠し通すことのできない証拠だった。

葛城がキーボードから静かに指を離した。
「計算が合っているから問題ない、ですか」

葛城の低い声が、冷気となって会議室を満たす。
「あなたがやったのは、辻褄合わせではない」

葛城はノートPCを矢野の方へ傾け、画面に浮かび上がった真っ赤な警告文を指し示した。
「クラウドシステム上の、監査証跡の破壊だ」

【次話へ続く】
▶︎ 第4話【後編】:2026年の時限爆弾 —監査証跡の破壊—を読む

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