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『VLOOKUPの死角』#04 第3話【前編】:確率論のハルシネーションと決定論

※本作は全5話の連作ビジネスミステリーです。
あらすじや全話の一気読みは、公式の【連載マガジン(ロードマップ収録)】をご覧ください。


第3話【前編】

事務所の窓外には、初夏の重い陽光が広がっていた。

美守は、デスクの上のマグカップを両手で包み込み、磁器の温もりを確かめる。指先に伝わる感覚とは裏腹に、思考の芯は冷たい違和感に占拠されていた。

4,210万円。 
1円の狂いもなく、全く同じ文字列が二度出力された。
偶然という言葉では片付けられない、不気味な符合だった。

すぐ横で、豆を挽く規則的な音が響いた。
葛城が、キッチンスペースで手挽きのミルを回している。

「14.5グラム。許容誤差はプラスマイナス0.05」 

計量スプーンを扱う手元は、データの構造化と同様に精密だった。
手順を徹底しているにもかかわらず、彼が淹れた珈琲の味にこだわりがあるようには見えない。プロセスの規格化自体が彼の日常なのだ。

その一方で、脱ぎ捨てた上着はソファの背もたれに無造作に引っ掛けられており、衣服の管理には関心を示さない。

美守は、ミルの音を聞きながら、彼の細身のシルエットを眺めていた。

最初は感情のない執行官のように思えた葛城だが、内実は違った。
データに対して誰よりも誠実で、ワンオペ労務として潰れかけていた自分を泥沼から引き上げてくれた男だ。

葛城はマグカップを美守のデスクに置いた。
濁りのない琥珀色の液体から、湯気が立ち上る。

「望月さん、次の往訪先です」
葛城の声は、低く、いつも通りに短かった。
「大手商社の子会社、DX推進室に向かいます。準備を」

美守は小さく息を整え、頷いた。
「はい、分かりました」

……

ガラスとスチールで構成された最先端のオフィスは、足を踏み入れただけで気後れする輝きを放っていた。

壁一面の大型ディスプレイには、色鮮やかなグラフや、リアルタイムで変動する数字のダッシュボードが滑らかに動いている。

「いやあ、わざわざご足労いただくほどのことはないんですよ」

出迎えた五葉商事デジタルソリューションズ(GDS)のDX担当役員、黒岩宗一郎は、スーツの袖口を軽く整え、品定めするような視線を向けた。

彼は薄型タブレットの画面を滑らせ、デスクの上に肘を組んだ。

「我が社は、最先端の生成AIを導入しましてね。就業規則の読み込みから、毎月の給与計算の出力まで、すべてを完全自動化させているんです。手作業が入る余地がない。エラーなど起きようがないのですよ」

黒岩は、葛城の前に置かれた古いノートPCを一瞥した。
「時代遅れのExcel屋さんが、どこに粗を探そうというのですか? システムが弾き出した最適な答えを、人間が疑う必要などない」

美守は、喉の奥が収縮する圧迫感を覚えた。
現場を見ようとしない、絶対的な自信。

美守の前職の中小企業で、上層部が新しいシステムを誇らしげに語っていた光景が、頭に浮かぶ。
彼らにとって、バックオフィスの人間は置き換え可能なコストに過ぎない。

葛城は黒岩の言葉に対しても、表情を変えなかった。
「推論に計算を丸投げした、加工前の無加工データを提供してください」
彼の要求は、短く拒絶を許さない。
「ダッシュボードの綺麗な画面ではなく、システムから出力された生のCSVが必要です」

黒岩は不快そうに視線を鋭くしたが、背後の部下に指示を出してファイルを転送させた。
美守は、葛城の指示に従ってデータを自分のPCに受け取り、中身を確認した。

画面をスクロールしていくうちに、奇妙な違和感を捉えた。

休日出勤手当の項目。
いくつかのセルで、本来なら一の位がゼロになるべき計算結果に、1円単位の不整合が混じっている。
さらに、夜勤と休日が重なった特定のシフトにおいて、支給額が不可解な波を描いて変動していた。

「葛城さん、これ」
美守は、声を潜めて画面を指差した。
「手当の金額が、月によって微妙にズレています。規則性がないみたいで、何だか生々しい不自然さがあります」

葛城は、美守の指摘に小さく視線で応えた。
彼はノートPCのキーボードへと手を伸ばし、打鍵を開始する。

美守の目には、葛城の操作で展開される文字列は意味を持たない呪文のように見えた。
けれど英語の並びが画面を覆うたびに、システムの綺麗な嘘が剥ぎ取られていくことは直感的に理解できた。

葛城はタイピングを止め、黒岩を正面から見据えた。

「これが、加工不可能なファクトです。お宅のシステムは、就業規則の文章を曖昧な解釈で処理している。AIが条文の意味を読み間違え、推論で給与を算出した結果、全社規模で深刻な過誤払いが発生しています

黒岩は、瞬きの回数を急激に増やした。
「そんな、馬鹿な。最新のモデルだぞ、誤差など……」

「給与計算は算数であり、決定論の領域です。確率に頼った推論を持ち込めば、計算は確実に破綻する」
葛城は、確定した画面を示した。
「現時点で検知された、不規則な未払いおよび過誤払いの累積リスク額です。総額は、4,210万円に達しています」

美守の輪郭が、恐怖で強張った。

また、この数字だ。
3度目の、全く同じ金額。

なぜ、異なる背景を持つ企業のバグが、同じゴールへと収束するのか。
美守は眩暈を覚える感覚のなかで、デスクの端を静かに掴んだ。

黒岩は額に大量の汗を浮かべ、椅子から滑り落ちそうになりながら口を動かした。
「うちのDX推進室が独断で決めたことではない。これは親会社の五葉商事から、トップダウンで降りてきたモデルなんだ。あの優秀な、本社の経営戦略本部に栄転された神崎さんが直々に主導したプロジェクトで……」

神崎。

脳裏に、冷徹な笑顔がありありと蘇る。

美守を都合のいい歯車として扱い、実態に合わないシステムのエラーを埋めるために、終わらない手作業を強いた男。
そして、すべての不正の責任を美守ひとりに押し付け、使い捨てていった張本人だ。

あの男が、この不気味な数字の裏にいるのか。

美守は、震える自分の両手を強く握りしめた。
消えない数字の呪いの向こう側に、最悪な影が蠢いている。

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