『VLOOKUPの死角』#08 最終話【前編】:真実のドック —さよなら、VLOOKUP—
※本作は全5話の連作ビジネスミステリーです。
あらすじや全話の一気読みは、公式の【連載マガジン(ロードマップ収録)】をご覧ください。
最終話【前編】
品川駅の港南口を出ると、湿気を含んだ風が美守の肌を重く湿らせた。
頭上には、灰色の雲が低く垂れ込めている。
淀んだ空に向かって、五葉商事の本社ビルがそびえ立っている。
見上げるだけで首の筋肉が強張る。
巨大なガラスの建物を前にして、美守は足を止めた。
金属製のセキュリティゲートが、エントランスの奥に整然と並んでいる。
人々は、社員証をかざして流れるように通過していく。
美守は組織の底辺で、使い捨ての事務員として都合よく搾取されていた。
明かりの消えかけたデスクで、終わりの見えない数字合わせのために、一人で膝を震わせていた日々。
美守の人生を弄んだ男が、あそこにいる。
美守の視線の先には、いつも通りの背中があった。
リクは、ジャケットの襟元を無言で微調整している。
もう私は、あの頃の無力な事務員ではない。
リクの隣で、隠されたデータの動きを観測する相棒だ。
美守たちは受付を済ませ、金属のゲートを通過した。
最上階の役員室へと向かう、高速エレベーターに乗り込む。
上昇の速度が上がるにつれて、鼓膜に不快な圧迫感がのしかかってくる。
リクは眼鏡の奥の瞳を、ディスプレイの階数表示に向けていた。
微かに足元が振動し、目的のフロアへ到達したことを告げる。
電子音が鳴り、重厚な扉が左右に開いた。
……
絨毯が靴底を深く包み込み、足音を消し去る。
通された役員会議室には、大きなマホガニーのデスクが置かれ、2人の男が席に着いていた。
そのうちの1人を視界に捉えた。
五葉商事グループ労務統括部長の神崎崇。
隣を歩くリクの視線は、神崎を素通りする。
隣に座る高級スーツを身に纏った初老の重役を捉えていた。
「よく来てくれた、葛城くん。今は特定社労士の先生だったか」
初老の重役が、リクライニングチェアを傾け、低い声を響かせた。
「お久しぶりです、敷島常務。ご健勝のようで何よりです」
リクの声は、いつも通り短く平坦だった。
敷島常務。
美守の背筋に冷たい緊張が走る。リクを組織の力で追放した張本人。
帝国システムソリューションズの敷島雅之が、神崎と並んで待ち構えている。
現場の労働を搾取する発注者と、その不正の痕跡を葬り去る開発者。
平河中央労務の会議室で掴んだ結託の答え合わせが、最悪の形で完了した。
美守は浅い呼吸を止め、2人の男を交互に見比べた。
「今回の監査対象は、グループ全体の人事給与システム移行に関する最終検証だ。手短に終わらせていただきたいな」
神崎が手元の資料を軽く指先で弾き、薄い唇の端を上げた。
「時代遅れのExcel屋の嫌がらせに付き合うほど、僕たちも暇じゃないんでね。望月さんも、相変わらず荷物持ちをしているのかな」
「私たちは、嫌がらせに来たわけではありません」
美守は声を絞り出した
「葛城さんのサポートとして、正当な監査を実行しに来ました」
美守は、手元の資料を強く握りしめ、リクの隣に並び立った。
「これが移行データだ。検証はすべてパスしている」
敷島が手元のラップトップを操作し、壁面の巨大ディスプレイに数値を映し出した。
整然と並んだ進捗100%の文字と、スタイリッシュなグラフ。
「マスタの移行を完了している。エラーはゼロだ。君たちの入る余地はどこにもない」
敷島は顎を微かに上げ、リクを見下ろした 。
「システムを信じるな、算数を信じろ。それが私の仕事です」
リクは、カバンから薄型の ノートPCを取り出した。
「無駄な抵抗だよ。最新のクラウドシステムが、そんな古いツールで暴かれるとでも思っているのかな」
神崎はデスクを指先で軽く叩き、冷ややかに言い放った。
「見た目の美しさに騙されるのは、人間だけです。生CSVは嘘をつきません」
リクの手がキーボードへと伸びる。
役員室に、乾いた打鍵の衝撃が規則的に響いた。
美守には、展開されるクエリの意味が明確に理解できた。
画面を走る「Table.NestedJoin」のコード。
新旧システムのマスタを全件で突き合わせる、結合処理の命令だ。
さらに「Table.SelectColumns」によって、必要なデータ項目が切り出されていく。
美守はリクの指先の動きを追い、データの処理手順を脳内でトレースしていた。
「抽出を完了しました」
リクの言葉と同時に、画面が切り替わり、スピル関数によって数万行の演算結果が一瞬で展開された。
「言っただろう。データは完璧だ。これ以上の監査は時間の無駄だ。ただの嫌がらせだ」
敷島がデスクを指先で叩いた。
「ええ、表面上は。ですが、データの深層には、巨大な不整合が潜んでいます 」
リクの眼鏡の奥の瞳が、光を反射した。
「API連携の仕様差による丸め誤差、退職者への過誤払いの隠蔽、AIの推論ミス、そして法改正に伴う監査証跡の破壊。これまで各社で検知されてきたシステムの歪みが、この共通基盤の下層で複雑に絡み合っています」
「くだらない。システム仕様の範囲内だ。言いがかりはやめて欲しいよ」
神崎の眉が微かに跳ね上がり、瞬きの回数が増えた。
リクはノートPCの角度を変え、2人の前に画面を向けた。
「CloudDockが抽出したファクトです。下層に仕掛けられた共通のパラメータによって、財務の歪みが4,210万円の簿外債務に収束するように設計されています」
ディスプレイの底が赤く染まっていく。
美守は息を詰め、2人の反応をうかがった。
神崎と敷島は、顔を見合わせて唇の端を歪めていた。
「やはり君は、そこまでしか見えていないようだ」
敷島が、椅子の肘掛けから手を離し、ゆっくりと立ち上がった。
「君の愛する算数とやらが、いつまでも万能だと思ったら大間違いだよ」
神崎も笑みを深くし、美守とリクを冷ややかな目で見下ろしていた。
【次話へ続く】
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