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【エッセイ】終わらないスワイプの果てに:私がマッチングアプリに疲弊するまで②

スマートフォンを静かに置き、アプリを閉じたあの夜から、
私はしばらくの間、デジタルな出会いの世界から完全に距離を置いた。
疲弊しきった心には、何もかもが重すぎた。
メッセージの通知音にすら胃の奥がキュッと締め付けられるような、
条件反射的な嫌悪感を覚えるほどだった。

数週間が過ぎ数ヶ月が経ち、ようやく私の心は、
あの消耗戦の傷跡から少しずつ回復してきた。
自分自身との向き合い趣味に没頭する時間、友人たちとの他愛もない会話。そんな「リアル」な日常の中にこそ、
本当の安らぎがあるのだと、改めて気づかされた。
デジタルなフィルターを通さず五感で感じる世界が、
こんなにも温かく、穏やかだったとは。

しかし、完全に「人との繋がり」を断ち切ったわけではなかった。
SNS、特にTwitterは、日々の情報収集や興味のある分野の動向を追うために細々と続けていた。
そこには、マッチングアプリのような「出会い」を前面に押し出した
ギラギラした空気は存在しない。
人々は、それぞれの関心事を自由に発信し、共感する人々と自然に交流している。ある人は専門的な知識を惜しみなく共有し、ある人は日常のささやかな喜びを詩的に綴り、またある人はユーモア溢れる視点で世の中を切り取っていた。最初は、ただ傍観者として、彼らのタイムラインを眺めているだけだった。だが、次第に気づき始めたことがある。

彼らの投稿には、
「人間性」が、驚くほど豊かに滲み出ているということだ。

マッチングアプリでは、厳選された数枚の写真と簡潔なプロフィール文でしか相手を判断できなかった。
そこには、常に「良い自分を見せよう」という意識が働いている。
だからこそ、実際に会った時に写真と現実のギャップに愕然とすることも多かった。
しかし、SNSのタイムラインに流れる彼らの日常の「言葉」からは、
もっと深い部分が伝わってくる。

例えば、
ある日の投稿でフォロワーの誰かが仕事での失敗談を打ち明けていた。
それに対するリプライの連なりを見て、私は息をのんだ。
「お疲れ様です。本当に大変でしたね。私も以前、似たような状況で心が折れそうになったことがあって、お気持ち、痛いほどよく分かります…」
「無理しないで、頼れる人に頼ってくださいね。少しでも心が休まる時間がありますように。」

そこには、マッチングアプリのメッセージには決してなかった、
真摯な共感と、相手を慮る優しい気持ちが溢れていた。
一方的に好意をアピールするでもなく、会う約束を取り付けようとするでもなく、ただただ相手の辛さに寄り添い、温かい言葉を投げかけている。
そのやり取りを見ていると、
私の心にもじんわりと温かさが広がるのを感じた。

また、その人の持つ親しみやすさや、
飾らない日常の喜びが、鮮やかに伝わってきた。
完璧な文章や、計算されたアピールなど何もない。
ただ、その人自身の「素」がそこにはあった。

私がマッチングアプリで追い求めていたものは、
もしかしたら、この「人間性」そのものだったのではないか?
写真やスペックで選ばれるのではなく、私の言葉や考え方、ユーモアのセンス、そして私が何に共感し、何に心を動かされるのか。
そういった「私」という人間そのものを理解し、
受け入れてくれる相手を、無意識のうちに探していたのではないか。

マッチングアプリの「出会い」は、
まるでレギュレーションが厳しく敷かれた競技会場のようだった。
最高のパフォーマンスを見せなければ選ばれない。
常に誰かと比較され、点数をつけられる。
そのプレッシャーは、私本来の魅力を押し殺し
作り物の自分を演じさせるばかりだった。

しかし、SNSは違った。
そこは、人々がそれぞれの舞台で自由に自分を表現する「広場」のようだった。ここでは、完璧な演技は求められない。むしろ、少し不器用でも、飾らない「素」の人間性こそが、多くの人の心を惹きつけ共感を呼ぶ。

私は、この「広場」でならもう一度、人と繋がることに挑戦できるかもしれない、という漠然とした希望を抱き始めた。
それは、マッチングアプリでの疲弊とは全く異なる、穏やかで、
しかし確かな期待感だった。
お金もかからずプレッシャーもない。
ただ、自分の言葉と心で、誰かと繋がり直してみる。

「もしかしたら、ここにこそ、私が本当に求めていた出会いがあるのかもしれない」

そう思った時、私の指はごく自然にタイムラインをスクロールし、
興味を惹かれた投稿に対し、初めて心からのリプライを打ち込み始めていた。
それは、終わらないスワイプの果てにたどり着いた、
新しい挑戦の始まりだった。

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