悪魔は三度微笑む(第五夜)中編
前回までの話
moonlight shadow~悪魔の誤算~
「彼女、どうなってもいいの…?」
コバヤシは携帯で撮った秋の写真を見せて来た
どこで、どういう状態で撮ったかはわからないが
画面の中の秋は笑顔で、何かの瞬間をシャッターで切り取った後
ぞっとした
そこまでするこいつの執着と
姑息さと
執念に
「俺の友達チンパンばっかだから、何するかわかんないかもー」
コバヤシの仲間の一人が半笑いで言った
こういう場合、金を渡しても、根本的な解決にはならない
相手は何度も何度もそれを繰り返してくるだけだ
その度につけあがってくるのがオチ
けれど
俺の事情で、秋にまで危害が加わるのは何としても避けなきゃならないし
秋だけは守らないとならない
死ぬつもりはなかった
その日俺は
パソコンで、学生寮や、賃貸アパートを調べていた
親元を離れて学生寮で生活は出来るのかとか
高校中退で、家を出て、一人暮らしでどのくらいお金がかかるのか
どのくらいお金があれば生活していけるのかとか
そういうことを調べていた
はずだった
「へ~…佐伯…
新しい彼女いたんだ」
コバヤシの言葉が、耳にこびりついて離れない
そんなんじゃダメだ
そんなんじゃ…
秋を守れない
俺はどうしょうもなく
非力で
人望もなく
人生経験も浅くて
社会で生きていくのが下手くそだ
二の腕の、丁度半袖を着ると隠れるくらいの場所に
カッターに力を入れて、肉をプチプチと裂いていった
でも、これでは暫く血が出て、やがて止まる
致死量ではない
人間が大量出血で死ぬには、身体の三分の一の血液が一気に減らないとならない
だから、リストカットで死のうとするのは、確実性が薄く効率性が悪い
でも、死ねない事はない
浴槽に水を張り、血液が凝固しないように切った腕を沈めるんだ
普段使ってる、細いカッターじゃなくて
大きな幅広のカッターで、太い血管を切断するように、一気に腕を切る
そんな…
止めて…
待って…
浩司…!!!!!
どのくらい経ったかわからない
ベッドから飛び起きた
涙が頬を伝って落ちた
これは、夢じゃない…
夢なのかもしれないけど、夢じゃない
現実だ
多分、浩司が経験した事…なのかもしれない…
そう、私は直感的に思った
だとしたら
と言うか、だとしないと合点がいかない
だって…
「弟さんが亡くなったのは本当なんですか?」
「ええ、そうですね、こちらもバタバタしていてようやく落ち着いてきたんですが」
浩司の死因は自殺だった
電話で兄弟の死を淡々と語っていたお兄さん
「原因は…なんだったんですか?」
「弟の遺品整理をしていた時、数枚の紙切れにランダムに数字が書かれていたんですよね」
「数字?」
「はい、最初なんかの暗号かと思ったんですが、桁が同じものが多く、はっと気付きまして、お金の数字だと思ったんです
紙切れには”コバヤシ”と書かれていて…
多分そのコバヤシもストレスの原因だったんだと思います」
「ストレス?その人のせいじゃないんですか?
きっと浩司は!
…浩司さんは、そのコバヤシって人に脅されて金を巻き上げられていたのが原因で!」
「わかりません
紙切れだけの証拠じゃなんとも…
弟はそうじゃなくてもメンタル病んでいたので…
色々なことが複合的に絡んでしまったんだと思います」
コバヤシ…
夢に出てきたヤツ…
高校二年生の時に浩司のお兄さんに聞いた話と、さっきの夢の中の話がやっと繋がる
そして浩司は
「そんなヤツから、私を守るために
死んだんだ…」
そんなヤツから
そんな人間から
でも
そんな事実
今まで知らなかった
「何で…
浩司…
今更…」
だって浩司はそんな事、一つもメッセージを私に残して逝かなかったから
もっと早くにこの事実を
いや、事実かもわからないが
仮に事実を知っていたら
いや…
そんなタラレバ論、考えたところでもう遅い…
遅すぎる…
何もかも…
当時、私は浩司のお葬式には行けなかった
と言うか、お葬式をどういう風にしたのかも知らない
ただ、お葬式には行っていない
だって私は佐伯家の親族でもないし、学校の関係者でも、クラスメイトでもない
他校生の…
浩司の恋人って言うだけで…
でも彼氏彼女なんて、私たち二人で呼び合っている名称であって
公的な証明や証拠は何一つない
そんな恋人が
浩司のお葬式に入る隙間なんて、一つもなかった
私は
浩司にとって、何だったんだろう
ふと、窓の外に気配を感じて振り向いた
「…あなたは…」
そこには大きな翼を広げた、犬歯が長く、毛深い肌をした
悪魔がいた
「薬を、一つ忘れてしまってね…
今日はそれを届けに来たんだ
…そうしないと、君は悪魔に成れないから」
悪魔は窓からひらりと病室に入ると、長いかぎ爪から薬を手渡した
「悪魔さん…
悪魔さんに聞きたいことがあるの…
私その薬を飲んでから、意識もずっとはっきりしているし、何故か身体が病気の時より回復していって…
今は普通に会話もできるし、ご飯も、一般の人が食べるようなご飯を食べたいと思えるの
今の病院食じゃ物足りなくて…
病院の売店にある、あのチョコ味のバウムクーヘンが食べたい、なんて思うのよ
ねえ、その薬は一体何で出来てるの…?」
「…何…?
さあ…薬が出来る構造なんて知らないし、興味もないな
ただ、念じれば薬が現れる、それだけだ
まあ、強いて言えば、悪魔の身体の一部が薬になっている、と言う感じなんじゃないか?」
「身体の一部…
悪魔って何を食べてるの?」
「悪魔は食事をしない
人間と違って食べなくても生きていけるからだよ
…あ、そうだなあ…
たまに…
花を食べるな」
「花…?」
「そう
ケシの花
悪魔の世界に唯一咲いている花だ
食べなくても生きていけるが、なんとなく、たまに食べたりする」
花を食べるなんて、ハチドリやミツバチみたいだ
あれ?でもそれは花の蜜を食べるんだっけ…?
悪魔が水を入れたグラスを差し出してきた
私は薬を飲みながら、そのグラスを手渡してくれた悪魔の腕を見て、ふと昔の記憶を思い出した
「ねえ、悪魔さん…その身体に付いた傷、自分で付けたんでしょう…?」
「え…?」
俺は間の抜けた返事をした
「昔の…恋人もね…
身体や腕に、同じ傷があったの…」
俺の身体には、悪魔になる前、自分で自分を傷つけた傷が沢山ある
人間の時に付いた外傷は、悪魔の姿になっても、例え人間の姿に自分を変えても消えないと、最初に悪魔の世界に来た時に悪魔連中に教えてもらった事だ
人間の時の戒めだと言っていたな
「こういうことしなきゃ生きられない人もいるんだよ」
俺がそう吐き捨てるように言うと、女の方からふふ、と笑い声が聞こえた
「…彼も、私の恋人だった彼も、同じこと言ってた
市民プールで…
『こういうことしなきゃ生きられない人もいるんだよ』
って…
何かその傷の感じ…
その言葉…
懐かしいな…
浩司みたい…」
その瞬間、俺の頭の中に断片的なヴィジョンが入り込んできた
邪魔する建物は何もない平地
青い山並みが遠くの方に広がる
近くには一級河川、広瀬川が流れている
タイルの隙間から雑草が伸び、所々茶色く錆びた鉄骨
塩素の、香り
この…
記憶…
「と言うか…
あなた浩司じゃないの…?違う?
あの夢…
あなたが私に見せてくれたあの夢
愛する人の思い出や記憶を見せてくれるって
言ってたよね…?
あの夢、すごく臨場感があって
あなた目線であなたを見ているというか…
夢を俯瞰して見ている状態…というのか…
そう言うの…なんて言ったっけな…
忘れちゃったけど…
…そう、夢を夢と認識出来た
私の愛する人…
それって、つまり…
あなたの…
浩司自身の、記憶や思い出なんでしょ…?」
そうか…
俺は…
その瞬間、俺の心臓が大きく脈を打ったような感覚がした
「あ…
浩司…
なんか…
急に…
眠くなっ…ちゃった」
息が、苦しい…
「寝…ちゃ…だ…め」
声が、出ない…
俺は咄嗟に、相手の腕に鋭い爪を立てた
えぐられた皮膚から血が滴る
寝るな…!
瞼がかすかに動いたが、それでも、彼女の目は開かない
もう…
立っていられない…
「ウウウ…」
獣のような低いうなり声をあげて俺は倒れ込んだ
肩で息をする
なんだ…この鉛のように重たい身体と…滝のように滴る汗は…
まずい…
身体がはち切れそうだ…!
そのまま至る所の壁に身体をぶつけながら、建物の外に飛び出た
ここより、遠くへ…!
しかし、急に役立たずになってしまった己の翼を、木の枝が次々に貫く
俺は飛び立つことを許されず、そのまま建物の近くの茂みに落下していった
目が覚めた時
完全に自覚してしまった
と言うより、思い出したのだ
俺は…さっきの彼女…
いや…三ノ輪橋秋の…
かつての恋人だって
なのに…
俺は…
秋に…薬を飲ませて…
悪魔にさせてしまった…
頭の中には、人間だった時の自分の忘れていた記憶がどんどん蘇ってくる
そして、秋との思い出も…
秋…
思い出したよ
俺は…
俺は、秋に会いたかったんだ
もう一度人間に戻って、秋に会いたかった
でも…人間の時の自分の記憶は戻ったのに…
なんで…
「あっはっは…!傑作傑作!
実に低俗悪魔以下の存在に相応しいよ」
嫌みたらしい声が、また頭上から聞こえて来た
ストライプのスーツを着込んで、スクエアの眼鏡を光らせる
「お前、人間の時の自分の記憶が戻ったんだろう…?
まさか、あの女がトリガーだったなんてね
すごい偶然もあるもんだ
でもお前、残念だよねえ~…
後もう少し、あの女がトリガーだと気付くのが早かったら…
トリガーと出逢うのが早かったら…
人間の身体で、彼女を抱けたのかもしれなかったのに…
っぷ…ぷぷ
お前…そのざまじゃあ~…
ははっ…あははっ!!」
「ふーっ…!」
尾っぽを立てて広げ、牙を剝きだして威嚇をした
「ねえ、可愛い猫ちゃん…?」
「高リスクで重労働…か」
人間を順調にサキュバスにしていく中で、引っかかっている事があった
重労働と呼ばれた部分は、人間をサキュバスにしていく時点で身をもって痛感した
けど、高リスクと言われた意味は、いまいちよくわからなかった
リスクはすなわち危険で、人間を騙すときの危険性の事を言っているのかとも思ったが、いまいち腑に落ちずにいた
もっとこう…何か…後戻りできない何かな気がするんだよな…
それが何かまでが…あと少しで…答えが出そうなんだけど…
そしてその答えが、今
自分が身をもって体験する事ではっきりと分かった
「にゃー…」
猫…
言葉を口にしたのに
完全に人間の言葉が口に出せなくなってしまった
「もう一つ教えてあげる
低俗悪魔の下にも、まだ階級はあってね…
低俗悪魔が、人間を低俗悪魔に変えていく上でのリスクとして
最終的には、犬や猫や虫ケラなど
知能が低く、人間の言葉を喋れない低俗悪魔以下になってしまうんだよ」
低俗悪魔以下…
「試練を積む…と言う言い方がよくなかったかな…?
人間を悪魔にすればするほど、人間と接触する機会が多いから、お前が人間だった時の記憶や思い出を持つ人間、所謂トリガーと出逢うきっかけも広がるわけだけど、その分リスクは上がる
でも、そこまでしても人間に戻ろうと思ったわけだろう?」
それでも
猫の姿になってまでは望んでいなかった
この手で
人間の手で…
秋に、触れたかったのに
これじゃあ…
この姿じゃあ…
俺だと
佐伯浩司(さえきこうじ)だと
秋にはわかってもらえない
あっ…!
能力は?
能力は使えないのか?悪魔の時に薬を出せたり、ちょっとした小細工を出せた…
ダメだ…
身体に力が入らない…
「低俗悪魔以下は、悪魔でもない
悪魔の時のようなちょっとした能力なども持てなくなる
身体が悪魔の姿から人間に変われなかったのは、悪魔としての魔力が、もうお前の中にほとんど残っていなかったってことなんだよ
今のお前は、人間界で飼われている猫と同じ
だから、その姿のお前は悪魔の世界にも戻れなくなる
人間界で猫として生きていく
これからは猫生の始まりってわけだ」
猫…生…
それって
これからは猫として、人生を歩むことになるって事なんだろ…?
人間界に戻れて
人間だった頃の自分の記憶もあって…
だけど、身体は猫で…
秋は悪魔に成ってしまった…
絶望的だ
猫になったところで、俺は何が出来るって言うんだ
「愉快愉快…
なんで…
どうしてこう…馬鹿な人…うーん、悪魔を欺くのは面白いんだろうねえ…
恐怖や絶望に歪む顔、その顔を見るのがたまらなく快感だよ
人間の世界よりも、悪魔の世界の方が俺には向いてるなあ
悪魔の世界は
人を欺いても罪じゃないからねえ…
寧ろ誉だ
欺くほど、上位の悪魔になれる
第二の…いやあ…
第三かな…?の、人生
せいぜい楽しんでね」
男はそう言うと、月の方にまっすぐ飛んで見えなくなった
月が身体を照らす
艶のある漆黒の身体
遠くからでもわかる光る瞳
どこからどうみても、ただの黒猫だ
これからどうしたら…
どうやって…
どうやって生きていけばいいんだろう
尻尾を力なく下げて、とぼとぼと歩いた
その時
何かが身体に当たった
小さな小枝
尻尾を体に巻き付けながら、枝が当たった方向に振り向いた
「浩司」
ハッとした
それは、俺の名前だった
暗闇から聞こえる、枯れた草木を踏み潰す足音
月の光が、下からゆっくりとその人物を照らしていった
…誰だ…?
見たことのない顔
でも
明らかに俺の名前を言っていたし
猫の俺が、浩司だと知る人物、という事だ
「…トリガーは発動しないのか」
トリガー…
「やあ浩司、俺だよ、鬼龍だ」
鬼龍…!
「転生した先の人物の顔に寄ってるから
見た目は鬼龍じゃないんだけどさ」
転…生…?
鬼龍は座ると、俺の頭を撫でた
俺はその手に額を押し付けた
「俺は浩司のお陰で、また、人間の世界に戻る事が出来た」
俺のお陰…?
「悪魔の世界で浩司と会った時、浩司が俺の名を呼んでくれただろう…?
そのきっかけで、俺は、俺自身の記憶を、思い出す事が出来たんだよ
あの頃は…
死んだときは、生きるのが嫌で、この世界が憎かったけど
今はこの世界で精いっぱい、天寿を全うしたいと思っている
俺は浩司に救われた
だから、今度は俺が浩司を助けたい」
え…
「浩司の恋人、置いてきちゃったんでしょう…?
今は…悪魔の世界に」
秋…
「みゃー…」
でも、どうやって秋に逢うのか…
もうわからないよ…
「これは、一つの可能性…なんだけど
猫として
浩司が自殺をするんだ」
え
「そもそも死を認識できるのは人間のみで、知能の低い動物ではそのような現象は起こりえないとされている、らしい
が…
今回は、猫の中身は知性のある人間だ…
そう考えると…
”自殺”と言う方法で死ねない事はない
だって
自殺か、悪魔の薬を飲めば、悪魔の世界に行けるんだから
そうでしょう?」
確かに…
言われてみれば…
でも…色々疑問と不安は残る
その方法で死んだとして、動物である猫が悪魔の世界に行けるのか、とか
低俗悪魔以下の存在があるのだから、さらにそれよりも下の階級があったとして、その世界に堕ちてしまうんではないのか、とか
そしたら今度は、もしかしたら無機物になってしまうんじゃないのか、とか
鬼龍が俺を貶めるための嘘、なんじゃないかとか…
と言うか鬼龍と言ったが、この人物は本当に俺が知る、中学の同級生だった鬼龍なのか、とか…
「悪魔の世界に浩司が戻れれば…
そこにはきっと、悪魔になった浩司の恋人もいるはずだ
彼女を見つけて記憶を取り戻し、一緒に…
神と出逢って…こちらに戻ってくるんだ」
神…?
悪魔の世界に、神なんかが存在するのか…?
「その神は、悪魔にはその姿が見えないと言っていた
悪魔は夢を見れないから、と
俺はそいつに出逢って、人間の身体になったんだよ
自殺する前の自分の身体に…
その神は、俺を人間界に転生することが出来ると言ったんだ
だから俺はその神に魂の姿にしてもらい、人間界に転生した
だから浩司も
こちらの世界に…人間界に転生して、戻ってこれるはずだ」
色々聞きたいのに、人間の言葉が出ない、人間の言葉が書けない…
考えても…どうしようもない
今の俺は
鬼龍の意見や、経験を信じるしか
そうするしか
前に進むしか、道がないんだ
「何かあった時の為に、猫の身体は回収して病院に直ぐ行けるように手配をする」
「みゃー」
俺は鬼龍の足元に頭突きをして、夜道を国道に向かって歩き始めた
車のヘッドライトや、テールランプが行き交う
俺
何回死ぬんだろう
