ふらりと神社へ行ってみた。#15 祐徳稲荷神社。新緑の初夏!神話の源流への旅【その4】 鎮西日光は本当に絢爛豪華で金碧輝煌です。
「ふらりと神社へ行ってみた」の第15回は「祐徳稲荷神社」です。佐賀から熊本を経て宮崎の高千穂へ向かう「新緑の初夏!神話の源流への旅」、前回はハミルトン宇礼志野にチェックインして、温泉食堂で夕食を食べた後、コンビニに行く途中に豊玉姫神社に出会い、ホテルに戻ってゆったりと一晩過ごして、チェックアウトしました。( 前回の記事 ) 第4回の今回は、塩田津の街並み散策から、祐徳稲荷神社に参拝して、ランチするまでです。
(撮影:2026年5月14日)
祐徳稲荷神社は佐賀県鹿島市にある神社で、貞享4年(1687年)肥前鹿島藩主鍋島直朝公の夫人花山院萬子媛が、朝廷の勅願所であった稲荷大神の御分霊を勧請された稲荷神社です。御際神は「倉稲魂大神」(稲荷大神、衣食住を司る神様)、「大宮売大神」(技芸上達の神様)、「猿田彦大神」(進むべき道を導く神様)で、日本三大稲荷の一つに数えられることもあります。日本三大稲荷は京都の「伏見稲荷大社」を筆頭としていますが、残りの二社は数社あります。一般的には、愛知県の「豊川稲荷」、茨城県の「笠間稲荷神社」と佐賀県の「祐徳稲荷神社」から選ばれることが多いようです。近代社格制度の旧社格は県社で、現在は別表神社です。
塩田津の街並み

ハミルトン宇礼志野から15分ほどで「塩田津町並み駐車場」に到着です。塩田川(嬉野川)沿いに作られた未舗装の駐車場ですが、すぐ横は国指定の重要文化財「西岡家住宅」の裏手になっています。西岡家住宅は廻船業(船を使った輸送・交易)や有田焼などの陶器売買で莫大な財を成した豪商の家で、裏手といっても、船からの荷揚げや海運業をスムーズに行うための立派な出入口「裏玄関」です。やきものの原料である「陶石」が埋め込まれた、赤レンガ造りの要素も取り入れた「トンバイ塀」がユニークです。


「塩田津」は、江戸時代の「長崎街道の宿場町」と、有明海の干満差を利用した「川港」の2つの側面を併せ持って発展した歴史的な商家町です。塩田津は有明海の海岸から約6キロメートルほど内陸に入った場所ですが、有明海特有の最大約6メートルに及ぶ大きな干満差を利用して、満ち潮の際に大型荷船を一気に塩田津まで遡上させ、引き潮の際に荷船を一斉に下らせていました。遡上の際には熊本県の天草諸島で採掘された最高品質の磁器の原料(陶石)が運ばれ、下る際には陶磁器や米、和紙などが搭載されていました。塩田川の港跡には昭和39年(1964年)に積み荷の積み下ろしを効率化する大型クレーンが建設されていて、昭和51年(1976年)まで川港として機能していました。クレーンの土台は今も残されています。


塩田津の町並みは、白漆喰の重厚な大邸宅が軒を連ねる国の「重要伝統的建造物群保存地区」です。40軒以上が文化財としての価値を忠実に復元・回復させる修理が施されていて、比較的新しい建物も白漆喰の居蔵造りなど周囲の歴史的な町並みと調和するデザイン(外観の和風化など)に整える工事が進められているため、大通りだけでなく、路地まで調和が取られた街並みです。塩田津の大通りは江戸時代の宿場町としては不自然なほど幅広です。明治時代、近隣の祐徳稲荷神社から塩田津を経て武雄方面を結ぶ「馬車鉄道」が作られました。線路を敷設するため、もともと狭かった街道沿いの家々を後ろへ下げる大規模な「家曳き」工事が行われ、山側に約3.6メートルも道幅が拡張されました。その後、馬車鉄道は蒸気機関車の軽便鉄道に代わり、さらに電車の路面電車に変わり、昭和7年(1932年)に廃線となり、線路が撤去された後に、広々とした道路が残されたわけです。


「旧下村家住宅」は、江戸時代後期に建てられたと推定される、嬉野市指定重要文化財の町家です。塩田津にわずかに残る「草葺きの町家」(現在はトタンで保護)で、上から見るとコの字の形状をした「くど造り」の家です。「間口が広いほど税金が高くなる」という仕組みだったため、入り口をあえて狭くし、奥に向かって細長く伸びる構造になっていて、細長い家でも光がしっかり入るよう、コの字の中央に「小さな中庭」を設けて採光を確保しています。この旧下村家住宅の隣には、車ごと重さをはかる巨大なはかり(地磅・トラックスケール)が残された「塩田検量所跡」があります。この旧下村家住宅を訪れた際、「塩田津町並み保存会」の方から塩田津について丁寧に説明してもらいました。ネットで裏どりしていますが、塩田津の街並みについての記述は、ほとんどがこの時に説明された内容です。


塩田津には、江戸時代後期の庶民の生活を伝える草葺き町家も残されていますが、多くの建物は白漆喰の厚い土壁と雄大な瓦屋根を持つ「居蔵造り」の大型町家です。江戸時代の寛政元年(1789年)、塩田津を大規模な火災が襲い(塩田大火)、町の大半が焼き尽くされました。その後、「お金をいくらかけてもいいから、絶対に燃えない頑丈な家を造ろう」として考えられた建て方が「居蔵造り」です。人間が生活する「居宅」に「土蔵」の頑丈な防火技術をそのまま合体・応用させたもので、京町家などで外側に見えている柱や梁を、厚さ10㎝程度のぶ分厚い土壁と漆喰で完全に覆い隠し、外から火が飛んできても、家を支える大事な骨組みに火が燃え移らない構造です。軒下の丸みを帯びた壁は、迫る火を外側に逃がす形状になっています。
塩田津の寺社

「本應寺」は、塩田津の大通り(旧長崎街道)を挟んで、塩田川とは反対側の高台にある、塩田津の街並みの中で最も規模が大きいお寺で、天正14年(1586年)に創建された浄土宗の古刹です。本堂は延享元年(1744年)建築の古い建物です。境内にある大楠の木の樹形が、まるで「心願成就(願い事が叶った)して、嬉しさのあまり両手をパッと上に挙げている人間の姿」のように見えることから、地元では「本應寺成就楠」とも呼ばれています。青々とした力強い葉を茂らせていて、見応えがあります。


本應寺の山門も享保17年(1732年)に建てられた古い建築物で、その山門の外側に石造りの立派な仁王像が立っています。山門ができてから17年後の寛延2年(1749年)に、地元の有力者たちの寄進によって、お寺と宿場町を災いから守る守護神として建立されたということです。お決まりの「阿吽」の呼吸で、武器(金剛杵)を握って肩をいからせたポーズは力強いのですが、顔をよく見るとどこか大らかで優しく、ユーモラスな表情をしています。地元の子どもたちからは、「電話をしているおっさんに見える」などと親しまれているそうです。

西岡家住宅の反対側にある路地を少し入ると、「上福天神宮」の鳥居が見えてきます。柱が上に向かっていくほど細くなり、下部(根元)がどっしりと太くなっている建築様式、佐賀県(旧・肥前国)とその周辺にしか見られない独特の「肥前鳥居」です。文化13年(1816年)6月吉祥日の銘があるので、かなり古い鳥居のようです。鳥居の奥に階段が見えるように、本殿は丘の上です。


本殿は小さな社です。名前にある通り「天神宮」ですので、平安時代の秀才であり、現代では学問・受験の神様として絶大な信仰を集める「菅原道真公」が祀られています。本殿の横には数多くの石祠や石像が並んでいます。地神や山神・庚申などが祀られたものです。本来は街並みの中にあった石碑も移転されているということです。
1時間ほど散策して、次の目的地「祐徳稲荷神社」に向かいます。車で15分ほどしか離れていません。すぐに到着です。
祐徳稲荷神社についた


祐徳稲荷神社の駐車場に車を止めて神社の方に向かうと、石の鳥居が三つ、ゴチャゴチャと立っています。いわゆる一の鳥居とか二の鳥居というものではなく、それぞれ別の年代に、異なる奉納者によって個別に寄進され、前後に並べて建てられたもののようです。赤い千本鳥居よりも多くの奉納を望んだ寄進者だったんでしょうか。石の鳥居をくぐると、祐徳稲荷神社の拝殿が視線に入ってきて、同じような朱塗りの派手な手水舎があります。手水舎ですが、軒下に鮮やかな色彩や精緻な木彫りの装飾が散りばめられています。


その華麗さから「鎮西日光」(九州の日光東照宮)という異名を持つ祐徳稲荷神社の顔とも言える、とても絢爛豪華な楼門です。祐徳稲荷神社は昭和24年(1949年)5月に起きた大規模な火災によって、江戸時代から続いていた社殿のほとんどを一度焼失してしまいました。現在の多くの社殿はその後の再建で、楼門は昭和37年(1962年)に完成しています。「日光東照宮」の修復工事に携わった一流の職人たちの手によって完成されたもので、東照宮の代名詞である「陽明門」を模して設計されていて、総漆塗りの美しい丹塗りを鮮やかな極彩色の吉祥文様(唐獅子や鳳凰など)が埋め尽くしています。

門の左右の格子内には、お寺の仁王像と同じようにお社を守る役割の「随神」が2体安置されています。この随神像は、佐賀が世界に誇る伝統工芸である「有田焼(磁器)」で丸ごと贅沢に作られていて、磁器特有の美しい輝きを放っています。
ようやく拝殿


山肌の傾斜に沿って建てられた高さ18メートルの舞台作りの上に本殿・拝殿が佇んでいる「懸造り」です。京都の清水寺(約13メートル)よりも高い舞台構造が全て丹塗り装飾されていて、緑豊かな山々を背景にして、工事中にも関わらず華々しい風格を振りまいています。本殿・拝殿に向かう階段は117段で、登りと下りが分けられています(工事中で下り階段は使用できませんでした)。上り階段の横には縁結びで有名な岩崎社があります。

117段の階段を登り切ると、ようやく本殿・拝殿です。華麗です。一般の神社は本殿と拝殿は分けられていますが、祐徳稲荷神社はこれらが回廊で一体となっていて、権現造りのような本殿・回廊・拝殿の合体構造です。楼門と同様に昭和24年(1949年)に消失した後の昭和32年(1957年)に再建されました。懸造りを支える柱や梁はもちろん、舞台の床面のみならず、本殿・回廊・拝殿まで、丸ごと鉄筋コンクリート造りです。いわれなければ気づかないと思います(調べるまで知りませんでした)。コンクリートの表面に直接、職人たちが最高級の「総漆塗り(丹塗り)」を施し、さらにその上に唐獅子や鳳凰などの細かな木彫り風彫刻や豪華な金箔、色鮮やかな吉祥文様をびっしりと貼り付け・描き込んでいて、木造と見まがう建物です。



本殿は漆独特のしっとりとした深い朱色(丹塗り)の上に、まばゆい金箔が張られていて、豪華絢爛な輝きを放っています。内拝殿(昇殿参拝するところ)の天井は太い各木を格子状に組み上げた格天井で、壁面は煌びやかな板絵で埋め尽くされています。賽銭箱前の外側の拝殿の天井には、金箔を背景に、赤や青、緑などの極彩色で「2羽の鳳凰」が優美に羽ばたく姿が描かれています。「鎮西日光」の名に恥じない絢爛豪華さ、金碧輝煌さです。
赤鳥居から下る


本殿・拝殿の右手から赤鳥居が奥の院へと続いています。ところが、5月11~22日の参道工事のため奥の院に参拝できませんでした。残念です。



奥の院へ登る道の途中に「命婦社」があって、ここからもう一本の赤鳥居を通って拝殿方面へ向かうことができます。命婦社は稲荷大神の神令使(お使い)である白狐の霊(命婦大神)を、お祀りしている御社で、社殿は江戸時代(享和4年)から昭和8年まで祐徳稲荷神社の御本殿でした。龍、鳳凰、波などの緻密で立体的で素晴らしい木彫り彫刻がびっしりと施されていて、江戸時代の神社建築の特徴を残しており、佐賀県の重要文化財指定を受けている。その横には数多くの大小の祠が並んでいる。鳥居と同様の「奉納祠」です。


祐徳稲荷神社の赤鳥居は300本ほどあるのですが、来るときとは別の赤鳥居を通って拝殿方面へ向かいます。道々、比較的大きな奉納祠が点在しています。バリアフリー参拝のためのエレベーター前を通って拝殿方向に向かいます。


下まで降りてきて、駐車場に向かう前に門前町方面へ向かいます。赤い大鳥居の向こうに門前町が続いています。神社に近い3,4軒は営業しています。でも、ずっとシャッターを下ろした店が並んでいます。年間参拝者が300万人弱、佐賀県内の神社仏閣では圧倒的な第1位で、九州全体でも福岡県の太宰府天満宮に次ぐ第2位と聞いていましたから、旅行計画では門前町で昼食を食べようと思っていたのです。とてもその気になりません。残念です。次の行き先に向かいながら、ファミレスでも探すことにします。
道の駅しろいし

祐徳稲荷神社の次は、佐賀県を離れて熊本県の「阿蘇神社」です。2時間半ほどのドライブですから、ファミレスの一つや二つは簡単に見つかるだろうとドライブを続けました。ところが、意外に気軽に立ち寄りやすい店が見つかりません。30分ほど走ったところで、「道の駅 しろいし」の看板を見つけました。道の駅であれば、この地の名物を食べられるはずです。


白石町は田んぼを始めとした農地が広がっています。米だけでなく、玉葱、蓮根、アスパラガスが特産の町のようです。ドライブ中も、玉葱の匂いが車内に入ってきていました。「レストランたんなかcafe360°」は、田んぼの中にあって、360°田んぼに囲まれているレストランという意味のようです。窓からのどかな田園風景が見られる席を確保して、特産の一つである蓮根を使った「蓮根スティックうどん」(650円)を食べました。サクッとした揚げ物の蓮根がもっちりとした食感もあり、軽いうどんでも満足できる食べごたえでした。
今回は3日目(観光2日目)のランチを食べたところで終わりです。塩田津の街並み散策で磁器の県「佐賀」の歴史に触れ、メディアの露出も多い祐徳稲荷神社の豪華絢爛さに圧倒され、「たんなか」のレストランの素朴なうどんでほっこりする半日でした。次回は観光2日目の午後、阿蘇神社から始まります。
