ふらりと神社へ行ってみた。#1 尾張国一ノ宮「真清田神社」
昨年まで、花の写真、宿場の写真、旅行記などをアップしてきました。今年は、それらとは別の写真紀行「ふらりと神社へ行ってみた」シリーズを始めようかと思います。事前には観光案内程度でしか調べないで神社へ出掛け、思うままに歩き回って写真を撮って、写真を見ながら文章を書いていこうと思います。第一回は尾張国の一ノ宮「真清田神社」、撮影日は2025年11月28日です。(現在使われている一宮市の名称と、一番目の宮、二番目の宮という意味を分けるために社格の表現としては「ノ」を入れて、「一ノ宮」「二ノ宮」のように表記します。)
真清田神社は愛知県一宮市にある神社で、主際神は天火明命(天照大神の孫神)、社格は尾張国一ノ宮、延喜式神名帳の式内社(名神大社)で、近代社格制度の旧社格は国幣中社です。社格については、この記事の末尾に記しておきます。
真清田神社の境内
楼門


一宮市の中心部は真清田神社の門前町として発展してきた町です。一宮駅の東にある本町通りを抜けると真清田神社の参道があり、大きな鳥居の向こうに立派な二層造りの楼門を見ることができます。旧楼門は1945年の空襲で焼失し、1961年に再建されたもので、門の正面(楼上南側)に掲げられた扁額は聖武天皇の宸筆(天皇自筆)による旧額を模したものです。この扁額の彫刻は人間国宝の平櫛田中氏が手掛けています。


真清田神社の神紋(社紋)は、笹の葉が左右に4枚ずつ、中央に1枚の合計9枚で構成されたデザインの「竹に九枚笹」で、楼門の扉に大きな神紋が掲げられています。楼門から少し右手にふった奥に本殿・拝殿が見えます。真清田神社は尾張地方(現在の愛知県西部)の主要な神社に見られる独特の社殿配置・建築様式である尾張造りが特徴です。正面の門・楼門から、蕃塀、拝殿、祭文殿、渡殿、本殿が一直線に並び、それらが回廊で繋がれた左右対称の、直線的な配置構造が尾張造りです。蕃塀は、 門と拝殿の間に立てられる「不浄除け」の短い塀で、尾張地方特有です。空襲で焼失し再建される際、蕃塀が再建されなかったため、現在の真清田神社では楼門から本殿を直接見ることができます。
拝殿まで


楼門と本殿の間左手に吐水龍の手水舎があります。この手水舎は1945年の一宮空襲での焼失は免れた貴重な建造物で、迫力のある吐水龍が目を引きます。この吐水龍は寛永8年(1631年)初代尾張藩主徳川義直公が奉納したものですが、350年以上にわたって風雨にさらされた結果、損傷が激しくなり、修復が困難となったため、現在ではレプリカに置き換えられています。



手水舎から本殿に向かう途中に授与所があり、その先に親水舎があります。木曽川の伏流水とされる清らかな水は、白河天皇の病を癒したという伝承もあり、「霊水」として信仰されています。専用の容器で持ち帰ることも可能です。1878年(明治11年)に明治天皇が一宮市を訪れた際、この井戸水が「御膳水」として献じられました。親水舎の中の右手にある井戸の中をのぞき込み、水面に自分の顔を映して、健康や家内安全、無病息災を祈る風習があります。すぐ隣には、願いを念じて石を持ち上げ、感じた重さで願いの成否を占う「おもかる石」もあります。
拝殿・本殿


拝殿や本殿などは、1945年(昭和20年)の一宮空襲により焼失し、1957年(昭和32年)に再建されたもので、古い建造物ではないのですが、本殿及び渡殿と祭文殿が国の登録有形文化財に登録されています。拝殿の右手には、1972年(昭和47年)4月、御遷座2600年を記念して「真清田神社農業奉賛会」により奉納されたブロンズの神馬像があります。皇居二重橋の装飾なども手掛けた彫刻家、米治一による作品です。



拝殿の奥に祭文殿があり、祭文殿から東西に翼廊が伸び、西側は神饌所、東側には祭具所があります。正面あるいは正面横からは本殿は見えません。拝殿から参拝する際に奥をのぞき見ると本殿内部を伺うことができます。拝殿は大きな建物で、奥にある本殿は小さくしか望むことができません。中央に鏡のようなものが置かれているようにも見えますし、扉のようにも見えます。
摂社と末社
摂社と末社は、いずれも本社の管理下にある小規模な神社の総称です。摂社は本社の祭神と関係が深い神様(祭神の配偶神、御子神、荒魂など)を祀る神社で、末社はそれ以外の、由緒や関係性が比較的薄い神様を祀る神社です。
服織神社(摂社)


服織神社は、真清田神社の本殿向かって右側に鎮座する重要な摂社で、萬幡豊秋津師比賣命を祀っています。真清田神社の主祭神である天火明命の母神であり、織物の神様です。元々は独立した大きな社殿を持つ尾張造の形式でしたが、戦災を経て1965年(昭和40年)に現在の摂社として再建されました。


萬幡豊秋津師比賣命は織物業の守護神であるほか、七夕伝説の「織姫」と同一視されることから、服織神社は縁結び・安産のパワースポットとして女性に人気があります。「縁むすび守」には2本の赤い糸が付属し、1本を神社に、もう1本を自身で持つことで願いが叶うと言われています。沢山の運命之紅糸が奉納されています。えんむすび絵馬も沢山奉納されていて、多くの女性の願いを垣間見ることができる空間です。
末社


服織神社東側に3社が併祀された三末社があります。社は一つですが、西側から天神社、犬飼社、愛鷹社です。三末社の東にある小山の上に三つの社があります。西(写真手前)から東(写真右手)に須佐之男社、愛宕社、秋葉社です。この辺りは参拝客も少なく、大きな木も茂っていて、静謐で厳かな雰囲気です。



境内の南東に神池があり、そこを回遊する形の参道が作られた八龍神社があります。八龍神社は最も新しい末社です。赤い社の八龍神社の横(写真の手前の社)は厳島社です。境内の南東部は神池もあり、開けているため明るい雰囲気です。朱色の橋や鳥居が目を引き、参拝客もちらほらいます。
二つの稲荷(末社)


真清田神社には2つの稲荷の末社があります。一つが富島稲荷大明神で、境内の南、楼門の東にあって、赤い幟の参道が目に付きます。以前は境外の神社だったのですが、戦後、境内に遷座されたものです。参道から見ると朱色の社に見えるのですが、近づくと小さいですが、木目を生かした落ち着いた社が見えます。社の前には3対6体の可愛い表情の狐像が控えています。



楼門の西側に独自の門を持つ境内末社の三八稲荷社があります。尾張造りに特有の蕃塀があるので、門からは社殿が見えません。小さなお社の稲荷ではなく、しっかりとした社殿があり、社殿の天井には赤い提灯が数多くぶら下げられています。


三八稲荷社の社殿の東側に赤い鳥居が並んでいます。そこをくぐっていくと、三八稲荷社の裏手に出るのですが、そこにも稲荷の社があります。どのような社なのか、真清田神社のHPにも記載がありませんでした。裏手の社の方が霊験あらたかに感じるのはなぜでしょうか。
ふらりと尾張国の一ノ宮「真清田神社」に出かけて、気の向くままに撮影してきました。境内末社の神明社は本殿横の入れない塀の内側にありますから、境内末社11社の内、撮影可能な10社はすべて写真に収められたようです。しかし、2つある摂社は一つしか撮影していませんでした。摂社の三明神社が本殿の裏手にあるそうなのですが、気づきませんでした。撮りこぼしも含めて「ふらりと神社に行ってきた」です。以上、尾張国レベルでは三ノ宮の熱田神宮よりも各上の一ノ宮の真清田神社でした。
神社の序列
一ノ宮、二ノ宮、・・・
各地方に「一ノ宮」「二ノ宮」「三ノ宮」という呼び名がありますが、これは大宝律令(701年)で定められた地方行政区分の「令制国(旧国名:尾張国、武蔵国など)」の中の神社を格式の高い順番に呼んだものです。平安時代、その地域に赴任してきた国司(今の知事のような役人)が、赴任時に参拝すべき神社の順番として定着したといわれています。つまり、「一ノ宮」「二ノ宮」「三ノ宮」という神社の呼び名は「その地域におけるナンバーワン、ツー、スリー」という、地域密着型の格付けを表しています。
愛知県には尾張国と三河国があり、尾張国では一ノ宮が真清田神社(一宮市)、二ノ宮が大縣神社(犬山市)、三ノ宮が熱田神宮(名古屋市)です。三河国では一ノ宮が砥鹿神社(豊川市)、二ノ宮が知立神社(知立市)、三ノ宮が猿投神社(豊田市)です。
このような地域密着の神社の格付けに対して、日本という国の立場での格付けもあります。著名な格付けは「延喜式神名帳」と「近代社格制度」です。
延喜式神名帳
延喜式神名帳は平安時代に作られた(927年完成)神社のリストで、全国の神社2,861社が国・郡(当時の地方行政区分)別に整理されています。記載された神社は「式内社」と呼ばれ、祈年祭などで受ける幣帛(神に奉献する布帛、衣服、武具、神酒、神饌など)に応じて、「官幣」と「国幣」、「大社」と「小社」に区分されます。
官幣神社は国の神祇官から直接幣帛を受ける神社で、国幣神社は各地方の行政官である国司から幣帛を受ける神社です。大社は祈年祭・月次祭・相嘗祭・新嘗祭に幣帛を受ける神社で、小社は祈年祭のみに幣帛を受ける神社です。格付けとしては一般的に「官幣大社 > 国幣大社 > 官幣小社 > 国幣小社」の順とされています。ただし、官幣小社は都(当時の京都)から神祇官が行きやすい畿内(大和国・山城国・河内国・和泉国・摂津国で現代の京都府南部・大阪府・兵庫県南東部・奈良県)にしかなく、官幣大社は畿内に集中していて、国幣大社と国幣小社はすべて畿外にあります。ですから、社格としての重要な区分は大社と小社です。また、「大社」の中でも特に霊験が著しいとされ、国家的な危難の際に特別な祭祀(名神祭)が行われた神社は名神大社と呼ばれました。大社353社中224社が名神大社でした。なお、近代社格制度にも官幣と国幣の区別がありますが、意味が違います。
延喜式神名帳が作製されて時代に存在していて未掲載の神社は「式外社」と呼ばれます。編纂に間に合わなかった新興の神社や、勢力が小さかった神社、あるいは独自の勢力を持っていた神社などです。仏教との結びつきが強かった石清水八幡宮(京都府)や八坂神社(京都府)、金刀比羅宮(香川県)、山岳信仰との結びつきが強かった熊野那智大社(和歌山県)などがあります。
近代社格制度
近代社格制度は、国家による神社の管理・統制を目的として、明治政府が古代の『延喜式』にならって新たに神社を格付けした制度です。第二次世界大戦後の1945年にGHQの神道指令によって廃止されましたが、今でも多くの神社では当時の社格を「旧社格」として格式の目安にしています。社格は大きく「官社」と「諸社(民社)」、「無格社」に分けられました。なお、伊勢神宮は全ての神社の上に位置する特別な存在とされて、社格の対象外でした。
官社は 国(政府)から直接、幣帛を受ける神社です。中央の神祇官(後に内務省)から幣帛を受け、主に皇室や国家に関わりが深い神社が官幣社と、地方官庁である国司(後に府県)から幣帛を受け、国造りなどに貢献した神・人物を祀っていた国幣社に分けられました。さらに、これらはそれぞれ大社、中社、小社に細分化されました。社格は官幣大社>国幣大社>官幣中社>国幣中社>官幣小社>国幣小社>別格官幣社と言われています。愛知県を中心とした東海4県(愛知・岐阜・三重・静岡)の神社では、官幣大社が熱田神宮(愛知)、国幣大社が南宮大社(岐阜)や多度大社(三重)、官幣中社が井伊谷宮(静岡)、国幣中社が大縣神社(愛知)、敢国神社(三重)、富士山本宮浅間大社(静岡)、三嶋大社(静岡)など、国幣小社が真清田神社(愛知)や砥鹿神社(愛知)、津島神社(愛知)、小國神社(静岡)などです。
諸社は 地方政府の管轄下に置かれ、地方政府から幣帛を受ける神社で、上から府社・県社、郷社、村社と格付けされました。全国約11万社のうち最終的な府県社は1,148社、郷社は3,633社、村社は44,934社であったとされます。無格社は 制度上の社格を持たない神社で、中央政府や地方政府から幣帛を受けなかった神社です。無格社でもほとんどは氏子を有する神社で、全国約11万社のうち最終的には59,997社が無格社だったとされています。
別表神社
近代社格制度廃止後に全国の多くの神社を包括する神社本庁が、特に重要な神社として「役職員進退に関する規程」の「別表」に定めた神社のことです。旧官国幣社を中心に、歴史的由緒、規模、経済的実態が一定基準以上で、宮司などの人事面で特別な扱いを必要とする約300社が指定されています。あくまで神社本庁内の人事上の区分であり、神社本庁に属さない神社(伏見稲荷大社、靖国神社など)はたとえ格式の高い神社でも別表神社には含まれません。
社号と社格
神社の名称の最後に付く社号には、祀られている祭神や由緒、歴史的な格式に基づいたいくつかの種類があります。神宮、大社、宮などは社格の高い神社の名称に使われます。
神宮:伊勢神宮を示す正式名称ですが、現在「神宮」の社号を付されている神社は、天皇や皇室の祖先をお祀りするなど、皇室と特にゆかりの深い神社に限られています。
大社:かつては天孫に国譲りを行い、多大な功績をあげた大国主命を祀る出雲大社を示す社号として用いられてきました。しかし、現在は、広く崇敬を集める神社でも使われています。
宮:皇族(親王)を祀る神社や、古くから特別な由緒があると認められた神社(天満宮、東照宮など)に付けられます。
大神宮:伊勢神宮(神宮)から分霊を祀る神社(東京大神宮など)によく見られます。
総社:平安時代の国司がその国の全神社を巡る手間を省くため、国府の近くに国内の諸神を合祀ごうしした神社のことです。
神社:最も一般的かつ包括的な社号で、神を祀る施設全般を指します。
社:「神社」の略称、または大きな神社から分霊を祀る比較的小規模なものに用いられます。
