夢渡る帆船〈三幕:満ちた盃〉
#創作大賞2026 #ミステリー小説部門 応募作品。
全三幕。
前話:夢渡る帆船〈二幕:散在する暗礁〉
⇒https://note.com/ssnstar/n/n6aeb99fac2d3
前々話:夢渡る帆船〈一幕:常夜の海〉
⇒https://note.com/ssnstar/n/nb2bf1813b7c5
すべてを記憶していること。
それは、忘れられないということ。
私にとっての過去とは、いつからか、鋭い痛みそのものだった。
目を背けること、透明になること。
忘れること。……沈め去ること。
そのどれもが、痛みから逃れるための手段だった。
私は、きっと、生きてゆくことから逃げていたのではない。
むしろ、生きてゆくために。
その為だけに、いつしか自分自身からも逃げてしまっていたのかもしれない。
■
夜に沈みきった水底にあって、白砂の地面はぼんやりと光を湛えていた。
この見え方には覚えがある。随分とあたりの様相が異なるけれど、やはり、夜処なのだろう。
汐帆はこちらを見上げる幼子の隣に、そっと腰を下ろした。
「私ね、少し、あなたとお話しがしたいの。いいかな?」
「いいよ。しほ、おはなしすきだよ」
「ありがとう」
屈託のない笑顔で返事をするのが愛おしく、汐帆は柔らかく微笑み返す。
同時に、こんな時期もあったのか、と他人事のようにしか思えない自分に呆れる気持ちもあった。
目の前の、すべてに愛されていることを疑わないきらきらした瞳が直視するには少しだけ眩しい。
「あなたは、この場所にいつからいるのかな」
「ずっとだよ。ずっと、ずーっとまえからここにいるよ」
「一人で、ずっと?」
「うん」
汐帆は思わず辺りを見回す。
シンと静かな場所だ。自分の息遣いや、心臓の鼓動が透き通って聞こえるほどに。
思わず目が泳ぐのを、不思議そうに見つめる視線で気付く。汐帆は居た堪れない気持ちで「ごめんね」とだけ口にした。
余計なことを言ってしまいそうで、ゆるく握った手で口元を覆う。
「だいじょうぶだよ、さみしくないよ」
「……そうなんだ」
そう返すだけで精一杯だった。
汐帆は胸が詰まるのを、なんとか呑み込んでやり過ごす。
息苦しいのはきっと罪悪感だろう。この子を、この場所に追いやったのは私自身だ。
それは確信だった。
汐帆は湊と入れ替わった夜のことを思い出したことで、ひとつ、自分が思い違いをしていた可能性を疑っていた。
すなわち、すべてを記憶しているはずなのに「思い出せること」と「思い出せないこと」とがある理由。
たとえば祖父との思い出。
いつの間にか思い出せなくなっていたほどに、忘れていたことにも気付かないまま、遠くへ押し込めてしまった記憶。
そして、欠落した記憶。
家が滅茶苦茶になる前の夜、湊と入れ替わっていた間の記憶。
一緒くたにしていたこれらは、本当は、別物なのではないか。
思うに、私には私自身で封じ込めた記憶がまずあり、それとは別に、完全に欠落している記憶がある。
手繰り寄せる糸口すらなく、断絶した感覚のみが胸にぽっかりと昏い穴を残している後者の欠落とは、すなわち〝湊の記憶〟なのでは?
一つは既に思い出した。目が覚めたら家が滅茶苦茶だった日の前夜、深夜の暴漢に連なる記憶。
さらに、もう一つあるはずだ。
浴槽に身を沈めた後、夜処への墜落に繋がるまでの記憶が、必ず。
湊は恐らく、この墜落に伴う記憶を意図的に隠している。
そもそも彼が思い出すように仕向けたのは、私自身がしまい込んだ記憶ばかりだからだ。
それに、と汐帆は砂を握りしめる。
追及こそしなかったものの、明らかに歯切れの悪い言動や、曇る表情を誤魔化そうとする様子には思うところがあった。
私への不利益を言い淀んでいるのなら、別にいい。
けれど湊が何か、湊自身を犠牲にしているような事実を隠しているのであれば、話は別だ。
ふと思う。彼の意図は、果たしてどこを目指しているのだろう。
湊の言う通りに鍵を探し、大事な場所へ意識を向けるだけでは、欠落した記憶にはまず辿り着けなかったはずだ。
今ならわかる。湊ははじめから、私の記憶を取り戻そうとはしていない。あくまでも鍵を探し出すための道筋を示していただけだ。
そして、目の前にいる小さな私こそが、きっと。
汐帆は握った手からゆっくりと力を抜く。どこか祈るような気持ちだった。
勇気が、必要だった。
「お願い。あなたにとって、大事なものを聞きたいの。教えてくれるかな」
「……いいの?」
幼い瞳が不安げに揺れる。
その手を取って、柔らかく笑った。
祖父がいつか私に向けてくれた不器用な温かさが、心臓の奥で熾火のように熱を持っている。
「うん。どうしても思い出したいの」
無垢に見つめ返す彼女から汐帆は決して目を逸らさず、ゆらゆら揺れる瞳の奥が落ち着くまで静かに待った。
たとえ日が沈み、夜が明けて、それを幾度となく繰り返すことになったとしても、待ち続ける覚悟があった。
それだけの時間を待たせてしまったのだから、当然だった。
一呼吸分の永遠が二人の間に穏やかな安寧の帳を下ろす。
やがて、ちいちゃな額が汐帆の手に触れた。
「みえる?」
そのまま見上げる視線を追って、そっと上を見る。
蜂蜜色の海。飴色の暖灯。暁の陽光。
それらを思わせる、眩い限りの黄金色の泡が視界いっぱいに広がった。
あまりの燦然たる光景に思わずたじろぐ。
けれども、目は逸らさない。
「これ、は」
「ずっとだよ。はじめから、ここは、あかるくて……あったかいんだよ」
それはうっとりと幸福に満ちた声だった。
汐帆は思う。こんなにも暖かい光が、私には見えていなかった。
見ようとしたから見えたのだ。見ないふりをして、なかったことにしていた、記憶の燈。
闇に沈んだ夜の底を温める最後の光。
目を凝らし、手を伸ばす。
黄金色の泡に触れると柔らかくふくらんで二人を包み込んだ。
覚えのある肌触り。
ハッとする。それは、タオルケットだった。
母のお下がりで、祖父の家にあった、使い古されてくったりとしたクマの柄。
短い手足は思うように動かない。汐帆はやわらかなベッドに横たえられ、タオルケットをかけられているようだった。
視界はおぼろげで、よく見えない。まるでピントを合わせる機能がまだ無いかのように、すべての境界が曖昧な世界。色も白黒でコントラストがわずかにわかる程度だ。
それは赤子の頃の記憶だった。
チリン、と軽やかな音がする。
何もかもが不確かな世界のなかにあって、ハッキリと輪郭を感じるその音に、体をじたばたとさせて手を伸ばそうと足掻く。
けれどもタオルケットが重いのか、うまいこといかない。
じたじたともがいていると泣きたくなってきて、ふあ、と声を上げるのとほとんど同じタイミングで、身体がふわりと抱え上げられた。
あたたかい。大好きな匂いだ。これは、お母さんの。
「泣かないの」
ぎゅうと強く抱きしめられて、埋められた顔がくすぐったい。
チリン、チリンと気になる音がすぐ近くで鳴っている。
手を伸ばせば今度は届いた。
それが嬉しくて何度も握り込み、口に入れようとしては取り上げられ、頭の上で揺らされるのにまた手を伸ばす。
──知っている。
今の私は、この〝船〟の形をしたキーホルダーを、知っている。
母が鍵に付けている、塗装の剥がれたキーホルダーは元々これだったのだ。
チリン、と鳴るとそれは母が構ってくれる合図だった。しばらく後になって色がわかるようになると、私はテレビや写真、イラストに同じものを見かけるたびに「あ!」と反応した。
大好きだったのだ。母を連れてくるその船が。
やがて、船の往く大きな大きな青い海までもが、きらきらと光って見えるようになった。
世界はどこを見ても鮮やかで目新しく、何もかもが心をくすぐるばかりの中でも、船だけは絶対に見逃さなかったように思う。
当時の母からしても、やはり、気まぐれに構っていただけなのかもしれない。
それはきっと、不意に見つけた野良猫を構うときのような、一瞬の愛おしさだったのかもしれない。
けれど、それでも、あの短くも眩い日々の中で受けた愛情は、私にとって嘘偽りなく本物だった。
思い出すたびに手垢がついて、本物(そう)と思えなくなるのがいやで、いつしか思い出さなくなってしまった。
奥へ、奥へとしまいこんだのだ。
祖父の思い出も同じだ。
思い出すたび、あたたかい気持ちに思いを寄せるたび、そうでない今との落差に心がバラバラになってしまうから、思い出さなくなってしまった。
縋るたびに涙で濡れて汚してしまうぐらいならと、奥深くへ、私は、自分で。
赤子の己の視界がぶわっと膨らんで、汐帆の内側へと収束していく。
あたりは黄金色のきらめきが満たしていた。
満天の星空を思わせる景色の中心で、汐帆はひとり膝を抱えていた。
一筋の彗星のように、涙が頬を伝う。
「あなたが、そうなんだね」
語りかけるように呟く。
幼い私は、もういなかった。自分の中に還ったからだ。ふくらんで収束した黄金色の記憶の泡が、きっと、彼女に輪郭を与えていた。
湊の言っていた〝鍵〟とは、私が自分自信でしまい込んだ、かけがえのない記憶そのものだったのだ。
胸に手を当てると、心臓がとくとくと動いているのを感じる。
確信する。私は、もう、思い出せる。
湊が主導権を握る記憶を、私の手元に手繰り寄せることができる。
鍵はもう私の中にある。
湊が隠したまま持っていこうとする記憶は、私が引き受ける。
彼には、どうか、まっさらな状態で──私の命を明け渡したい。
汐帆は胸の前で力強く手を握り込む。
その中には、まだ輪郭の与えられていないだけの〝鍵〟が確かに握りこまれていた。
自分のことは自分で精算する。
そう誓って、立ち上がる。先程まであたりを煌々と照らしていた眩いばかりの光の泡は、方々に散っていく。
身体ががくん、と衝撃を受ける。それは浮上する感覚だった。
さらりと足裏を撫でる砂が、冷たいフローリングに変わる。
一帯を満たしていた水はいつの間にか無くなっていた。自分の体から、ぼたぼたと垂れる冷たい雫がそれを物語る。
窓の外を叩きつけるような豪雨が暴れていた。
水を吸った髪が肌に張り付く。視界は不明瞭で、一歩踏み出すごとに鳴るびちゃりと水っぽい足音も、外の豪雨がほとんど掻き消していた。
汐帆の手には包丁が握られていた。
風呂場で拾ったそれは、母が思い切り床に叩きつけたものだから刃が変に欠けている。
いったい何時間そうしていたのか、気付かぬ間に浴槽の中で眠っていたようだった。芯まで冷えた身体はガタガタと震えて、言うことをきかない。
片付けなくては、と拾った包丁も握っている感覚がしない。不明瞭な視界も手伝って、すべてが曖昧だった。
夢を見ているのかもしれない。
こんなに家がめちゃめちゃなのも、母が私に包丁を向けたのも、冷たい浴槽で眠りこけた愚かな私の悪夢かもしれない。
……冷たい浴槽で眠るなんてこと、あるのかな。
時系列がおかしい気がする。どこからが夢だったんだろう。
よく思い出せない。
思い出せないなんてこと、あるわけないのに。
ぐらぐらと揺れる思考が足元を覚束なくさせるのをそのままに、一歩ずつ、壁に手を付きながらリビングへ向かう。
ヤニでうっすらと黄ばんだ壁に、手から絶えず滴る水滴が崩れた線のように跡を残した。
竜巻でも起きたかのようなリビングと地続きのベッドルームで、母が眠っている。
あちこちに物が散乱していたけれど、ベットの上は綺麗なものだった。周囲の荒れ具合を見るに母自身が投げ落としたようだ。
おかしい。私の、夢なのに。
いつも通り、本物のお母さんみたい。
汐帆は床を埋め尽くす洋服を踏みつけながら、静かに母の近くに寄った。
眠っている。私の夢の中で。
静かに寝息を立てている。彫刻のように美しい寝顔で。
母は、美しかった。
どんなに荒れ狂っていても、そこには誰も彼もが一歩距離を置いてしまう、威圧的な美しさがあった。
だから、どんなに孤立しても母の周りには人が尽きなかった。母の美しさを、暴力という物理的な方法で威圧できる男たちが、尽きなかった。
……ああ、そうだ。
だから、夜に訪れた男もまた、そのうちの一人だったというわけだ。威圧的な母の美しさに敵わず、その附属品である娘(わたし)で妥協しようとしたのだろう。
汐帆は自分の意識が目の前の光景と乖離していくのを感じていた。
記憶の中の自分。その記憶を、見返している自分。
汐帆は母の美しいばかりの寝顔を見ながら、ほんの一瞬だけ思い出す。
赤子の頃、自分に向けられていたおよそ完璧とは言い難い、崩れたような笑顔を。
弾ける。黄金色の泡が。
めちゃくちゃになった部屋が、自分の濡れそぼって真っ黒になった毛先が、ぼたりと垂れた雫のシーツに作った染みが、暗く、昏く、引き摺り込むように重く……深く、意識を引き寄せる。
こんなに綺麗な顔じゃなくていいのに。
汐帆の手から垂れた雫が、包丁の切っ先を濡らす。振り上げたつもりはなかった。
ただ、母の上でフッと力が抜けて、真っ直ぐに落下した包丁がすべてを終わりにしてくれたら、とぼんやりした意識の奥で願っていて、私の理性は確かにこれが現実だと認識していた。
すべての動きが緩慢として、すべての時間がスローモーションに感じられる中で、世界が小さく閉じていく。
私の腕が、切っ先と共に振り下ろされるのに合わせて、真っ暗な夜が帳を降ろすように。
閉じて。閉じて。閉じ切る、寸前。
『──絶対、ダメだ!』
がくん、と身体が後ろに引っ張られた。
それはまるで誰かが腰に抱き着いて、思い切り後ろへ引きずり倒したかのようだった。
包丁は呆気なく壁の方へ転がって、心臓の音がフッと遠くなる。
足場を失ったかのような静寂。
何かが割れて、何かがこぼれて、何かを確かに失った。
それはきっと私自身の魂であり、記憶であり、生きようとする意思だった。
一拍遅れて、すべてを拒むかのように強風が轟く。
すっかり空っぽになった虚ろな意識だけが、投げ出された闇の中で滑稽にも不思議がっている。
そうして、私は墜落した。
思い出した。
きっとこれで、すべてを。
「汐帆」
振り返る。周囲の景色がさらさらと崩れていく。
荒れきった部屋は、もうどこにも無い。
真っ白く巨大な骨を思わせる地面代わりの建造物と、あたり一面を満たす海。大雨だけが、記憶の中と変わらず降り続いている。
雨ざらしのなかで、汐帆と湊は向かい合っていた。
「思い出したよ、湊」
「……思い出しすぎだ」
「ううん。隠しすぎ、だよ」
雨粒があっという間に互いを濡らして、大粒の雫が次々に頬を流れ落ちていく。
汐帆は宙に手を滑らせると大きな傘を引き出した。
湊もまたごく自然に受け取ると二人が入り切るようにしつつも、少しだけ汐帆の側に傾けて差し掛ける。
「少し歩こう」
湊の言葉に、汐帆はこくりと頷いた。
完全に屋根のある場所はほとんど無い。その代わりに階段や、遊歩道の一部が頭上を覆っている箇所を選んで歩いた。
打ち付けるような雨も一度建物に当たってから垂れ落ちると、烈しさも削ぎ落とされるようだった。
足元はどこも薄く水が張っており、どちらかが踏み出すたび小さく波紋が広がる。
「湊は、嘘つきだね」
「……ああ」
汐帆ははにかむように言おうとしたけれど、震える声はどうにもならなかった。
堪えるように言葉を選ぶ。
「私、最低だ。……お母さんを殺そうとした」
「それは違う!」
「違わないよ。湊が止めなければ、本当に」
「違う、違うんだ」
湊の足が止まる。
今にも泣き出しそうなぐしゃぐしゃの顔を隠そうともしない。
「湊……」
汐帆の声にハッとして、湊は慌てて前髪を掴む。
力を入れて崩しかけて、しかし、最後まで完遂できずに脱力した。
「すべてを思い出したんだろ」
「うん」
「あの、忌々しい男のことも?」
「覚えてる。湊が代わって、守ってくれたよね」
「違うんだ。……違うんだよ、汐帆」
「違わないよ」
汐帆は湊からそっと傘を受け取り、そのまま地面に横たえた。
開いたままの透明な膜の上を無数の雫が流れ落ちる。
湊は肩を小さく震わせたまま押し黙っていた。表情は濡れそぼる前髪に隠れて、よく見えない。
見えないけれど、それだけだった。
今さら顔が見えない程度で、わからないはずがない。溢れそうな感情を無理に抑え付けるつらさが、すべてを言葉に押し込める瞬間の苦しさが、汐帆には痛いほど理解できた。
ただ、震えを分かち合うように肩を寄せる。
ぼんやりと湊がタオルケットをかけてくれたときのことを思い出していた。何もわからず、知らないままで、夜処に墜落した愚かなばかりの私に、思えばこちらが心配になるほど寄り添ってくれた。
ほんの一晩前の出来事が、不思議なほど遠く過去に思える。
「俺は、なんにもわかっていなかったんだ」
やがて、湊はぽつりと呟いた。
「あの晩、汐帆はもう限界だった。だからこそ俺は代わることができたのに、その意味がわかっていなかった。……とどめに、なってしまったのに、俺」
「ゆっくりでいいよ。大丈夫だから、聞かせて」
湊は無言で汐帆の肩に顔を埋める。
熱を持った体温に汐帆は一瞬、夜処が夢の中であることを忘れそうになった。感情に温度があるのなら触れたそばから伝わってくる、この熱こそが、そうなのだろう。
汐帆は慣れない手つきで湊の頭を撫でる。湊は何も言わず、されるがままにしていた。
小さく震えていた肩は、いつのまにか落ち着いていた。
湊は顔を埋めたままの姿勢で零すように続ける。
「汐帆の身体で俺がめちゃめちゃに暴れたあと、ヤツは結局萎えて帰ったんだ。その代わり、あの野郎……家中に当たり散らしやがった。汐帆も見たろ?」
うん、と頷く。
「俺さ、今思えば奴を追い払って良い気になってたんだろうな。情けないよ。汐帆の腕も脚も、アザになったよな。沢山、怪我をさせちゃって、ごめん」
「ううん。いちばん痛いのはぜんぶ湊が引き受けてくれたこと、わかってるよ」
湊が返事の代わりに、いやいやをするように首を横に振るのを何も言わずに見守った。
甘えたがりの子供のような仕草が場違いに微笑ましく思える。
彼も、そして私も。こうしてもたれかかれる存在を、きっと、ずっと求めていたのだろう。
「汐帆は、優しすぎる」
そう言って額を強く押し付ける。
宙を泳ぐ湊の手は何かを強く握ろうとして、けれどもフッと止めたかのように寄るべなく項垂れた。
頭上のどこか隙間から垂れ落ちた雨粒が、その手に冷たく追い打ちをかけるのを汐帆は指先で拭う。
そのまま、するりと包み込んだ。
同じ大きさの片手同士は、まるでどちらか一人の両手のように見える。
「優しいって、前にも言っていたよね。でもね、多分、逆なんだよ」
「逆?」
「湊が私のことを想っているから、そのまなざしに優しさがあるから……だから、きっと、私の中にある温かい部分を見つけられるんじゃないかな」
「そ、んなこと」
「湊はね、自分自身には、その優しいまなざしを向けていないだけ。アザのことも家のことも、そして、お母さんのことも……湊からはなんにも触れなかったのは、せっかく忘れている怖い夜のことを、私がね、思い出さないようにしてくれたんだよ」
ハッと顔を上げた湊と目が合う。
潤んだ瞳は相変わらず濡れた犬のようで、無性に愛おしかった。
汐帆が笑いかけると湊もまたはにかんで目元をごしごしと乱暴に擦る。そういう仕草はどこか男の子っぽく、こんなにも似ていても、やはり別人なのだと感じる。
あー、と喉の奥から涙の残滓を吐き出すように声を出すと、やがて観念するように頬をかいた。
「敵わないなあ」
「湊がいるからこそ、だよ」
湊は曖昧に微笑むと、床を撫ぜた。
途端にざあっと水が引く。それを追いかけるように絨毯が敷かれていくと、手馴れた仕草で見覚えのあるソファを引き出した。
祖父の家の居間に置かれていたものだ。
呆気に取られている汐帆に気付くと、ニコッと笑ってすぐ後ろの壁に触れる。
途端にゆらりと景色が揺れて、今度は天井が現れた。ぽたぽたと垂れる雨雫が止み、その代わりにそこかしこから飴色の明かりが無数に垂れ下がる。
それはまるで雨音に包まれた秘密基地のような様相だった。
「わあ……!」
「お気に召して頂けましたか?」
「すごい、すごいね、湊。こんなの、もう、写真に撮れないのが惜しいぐらい」
「目に焼き付けておけない?」
「任せて。得意なの」
どちらからともなく、吹き出すように笑い合う。
隣合ってソファに腰掛けると視界いっぱいが眩いきらめきで満たされて、満天の夜空の中にいるようだった。
私は、今度こそ星になれるのかもしれない。
密かな期待に胸がさざめく。そうして湊を見守れるなら、こんなにも幸せなことはないな、と祈るように思った。
「話をしよう」
「内緒話?」
「ああ。きっと、今夜が最後になる」
チラ、と湊の顔を覗き見る。
綺麗な顔。自分と同じ横顔とは思えないほど、湊の顔つきはどこか鋭利に感じるのが不思議だった。
湊は汐帆の視線に気付くと、さっきまでの鋭さが嘘みたいにくしゃりと破顔する。眉を下げて困り気味の顔で笑うのは彼のクセのようだった。
こうして笑顔を向けられるたび、汐帆はたまらない気持ちになる。
なにとなく彼の表情は祖父によく似て、自分とそっくり同じはずの面差しは、どこか母に似ているのだ。
ふと、彼の言動の一つ一つを心の深いところまで抵抗なく受け入れてしまうのは、どうしようもなく家族の気配がするからだろう、と腑に落ちた。
「朝、汐帆が目を覚まして安心したんだ」
「うん」
「汐帆は何も覚えていないようだったし、母さんの癇癪も……いつものことだったから。きっと空き巣か何かだって、二人で警察に連絡するかな、とか。雨降って地固まるじゃないけど、一緒に片付けたりして、むしろ距離が縮まるかな、なんて、楽観的なこと考えたりしてさ」
「そうだね」
「俺……」
声が窄まり、喉に詰まったように途切れる。
何かに耐えるように背をまるめて深く息を吐き出すのを、汐帆は何も言わずに見守った。
湊は膝の上で組んだ両手を、その奥にある何かを睨めつけるようにして、それから小さく息を吐いた。
「母さんが汐帆に包丁を向けて、汐帆は浴槽に身体を沈めて……冷たい水の中で、どんどん冷えていくのが分かるのに、俺、なんにも出来なかった」
服の端を握り込む。
それどころか、と小さな声で呟く。
「浴室で目を覚ましたあと、汐帆、ぼうっとしてたろ。まるで夢でも見てるみたいに」
「……現実だって、わかってたよ」
「ああ、そうだな。なんとなくはわかってたろうさ」
優しく汐帆の頭を撫でる。
でもな、と続ける声は今にも崩れてしまいそうなほどに弱々しい。
「あの時には、もう、汐帆の魂は砕けていたんだ」
「でも」
「でなきゃ、そもそも止められなかった。何より、俺と入れ替わっても夜処に堕ちることはなかったんだ。ほら、最初は眠っているだけだったろ」
「……」
「でも、それが不味かったんだ。元々ぼろぼろだったのに、あれでヒビが入って」
「それ、で」
汐帆の動揺を受け止めるように、静かに頷く。
「言ったろ。とどめになってしまったって」
「そんなこと」
「嘘ついて、ごめん」
湊は、もう目を逸らさなかった。
意志の手綱を握り込んだように真っ直ぐ見つめる視線が汐帆を射抜く。
雨の気配が遠くなり、低い風音のような耳鳴りがした。己の血潮がゴウゴウと流れる音が直接聞こえているかのようだった。
無数の明かりが無邪気にきらめく。それが、やけに眩しい。
「汐帆は自分で命を絶つなんてこと、はじめっからしてないんだ。お前はずっと……本当にずっと、強かった」
「そんなことない」
「耐えられなかったのは、信じきれなかったのは、俺の方なんだよ」
「それでも!」
汐帆は思わず立ち上がっていた。
自分でも驚くほど大きな声に遅れてたじろぐ。
喉の奥が焼けるように熱かった。迫り上がるものを吐き出すように、言葉が止まらない。
「私は、私は自分で……自分の意思、で。……っ湊が止めなかったら、きっと、そのまま」
汐帆は俯いて、ゾッとする。
握り込んだ手には無意識に包丁を握っていた。
なぜ。どうして。
鈍色の刃が、呆然と見つめる汐帆の瞳を映し返す。今すぐにでも放り投げてしまいたい衝動を抑え込み、己の奥にしまい込まなければときつく、きつく抱きしめた。
これは、私の罪そのものだ。
母に突き付けられ、自ら拾い取り、私もまた母に向けてしまった取り返しのつかない過去の輪郭。
腹に冷たい感覚が滲む。血が滴るかのように、包丁から水滴が垂れていた。
次の瞬間、ごぽり、と音がした。
溢れるように流れ出した水は包丁そのものから湧き出ていた。止めたくとも、止められない。
それはまるで、再び過去を水底に沈めようと足掻く己の姿を見せつけられるかのようだった。
「ごめん、ごめんね、私、全然だめだ」
決壊したように大粒の涙が溢れる。
拭う気にもならない。そんな資格はないと、心がどこか自分自身を突き放していた。
「ここまで来ても、まだ、逃げようとする。……もう、逃げたくないのに。本当なのにっ」
喉が詰まる。
無理に押し出すように息を吐いた。
「……私自身が、私の意志を受け付けない。わかんない、わかんないよ」
気付けば、柄を握る手が白くなるほど力を込めていた。
床は水浸しでソファの脚はすっかり水没している。自分の顔はきっと、涙でぐちゃぐちゃだった。
絶えず胸元から溢れ続ける水が汐帆を中心に小さくも獰猛な波を起こすのを、いっそ拐われてしまいたいと沈み込むような気持ちで眺める。
視界の奥に、湊がいた。
慌てるでも心配するでもなく、ソファに腰掛けたまま、変わらずに真っ直ぐと汐帆を見つめていた。
何故かはわからない。
ただ、寡黙に見つめるその瞳に、汐帆は確かに信頼を見た。
それは全てを穿つような確信だった。
彼は、待っている。私の言葉を。
私の選択を。
「湊、お願い」
私は選び取ることができる。
何もかもを湊に託して、温かな記憶のなかで幸福を揺りかごに眠ることができる。
冷えきった罪の前から逃げ出すことが、できる。
湊もきっとそれを望んでいる。
彼の言う「代わろう」とは、間違いなく、過去を、日々を、まるごと背負うことを意味していた。
けれど、それでは。
汐帆は胸元の刃を、さらに強く握り込む。
「どんなに辛くても……苦しくても。もう、逃げたくない。私は、私のまま、あなたに未来を託したい」
できるかな、とほとんど呟くような掠れた声が零れるのと同時に、ストンと足から力が抜けた。
すばやく駆け寄った湊が汐帆の肩を支えると、そのまま、ゆっくりと座り込んだ。
くず折れた身体が服ごと水に重たく浸かってしまうのが心まで冷え切った朝と重なる、直前。
「大丈夫だよ」
湊が包丁の刃に触れた。
汐帆がアッと思うのと同時、触れたところから光の粒になって崩れていく。
それはどこか、水底で見た黄金色の泡に似ていた。
ぽかんと見つめる汐帆の頭を空いた片手で抱き寄せる。
「これは、汐帆が変わろうとした証だ。一度は忘れ去った痛みも、それを再び手に取る覚悟も、俺は誰よりもようく知ってる」
心臓の音がした。
それが湊のものなのか、自分のものなのか、あまりにも近くで響くためか、混ざりあってわからない。
ただ、規則正しく刻むその音が戸惑うほどに荒れた心を落ち着けていく。
すべてが光の粒になるのを見届けると、湊はそっと体を離した。
光の残滓がきらきらと残る汐帆の手を包み込む。
「──おかしいと思わないか?」
姿勢を正した声にどきりとする。
真っ直ぐなままの瞳が、ガラス玉のように汐帆の顔を映していた。
「汐帆はタオルケットに椅子、そして傘を引き出した。無意識のうちに包丁を取り出したのだってそうだ。夜処の主だからできたんだ」
「……夜処の、主だから…」
そう言ってから息を呑む。
冷や水を差し込まれたような心地がした。
おかしい。
確かに、それでは、辻褄が合わない。
汐帆の動揺を悟ると、湊は頷いた。
「ああそうだ。そのやり方は、俺が教えた。このソファも、頭上の明かりも俺が引き出した。この夜処は汐帆のもので、俺はただの居候なのに」
握られた手が優しく撫でられる。
どこか慈しむように、柔らかく諭そうとするかのように。
「光の粒に変えたのもそうだ。こうして、汐帆の手を取ることができたのも」
湊がグッと力を込めると、汐帆の手の中に何かが握らされる感覚があった。
何も言えず、汐帆は固唾を呑んで次の言葉を待つ。
「そもそも、汐帆と俺が入れ代わることができたこと自体おかしな話だと思わないか? ばらばらになった汐帆が夜処や〝鍵〟や記憶を認識できたのと同じように、俺のことも認識できたのは、どうしてだと思う」
チリン、と音が鳴る。
湊の手が汐帆の手から離れる瞬間、手の中の何かを湊が持っていったのだ。
見れば、ぴかぴかの綺麗な船のキーホルダーが湊の手で揺れている。
「俺たちは最初から、別々の魂だった。これは本当。でも、ずっと、ずっと汐帆のなかにいる日々のなかで……あるとき、夜処の役割をストンと理解したんだ。俺自身、今日まで、その意味をよく分かっていなかった」
「湊、何の話をしているの」
湊はちら、と視線だけを寄越した。
困ったように下げた眉のまま、返事の代わりに話を続ける。
「でも、こうして汐帆と直接話してさ。初めて、一緒に過ごして気付いたんだ」
「何を」
「汐帆、俺の感情が昂ったとき、なんとなくそれを感じなかったか? どうかな、自分の顔見間違えるような瞬間は?」
「それ、は」
湊は不意にしゃがみ込むと、汐帆とピッタリ重なるように目線を合わせた。
不安げな瞳。揺れ動く感情が、黒目がちの瞳の中にくっきりと映り込む。
それが自分の顔であるのか、目の前の湊の表情であるのか、ぐらりと混ざり合うような感覚に襲われた。
いっときはあんなにも嬉しかったその感覚が、今はとにかく空恐ろしかった。
汐帆は気付いていた。
自分の顔が湊の顔と見分けがつかないのではない。湊の顔が、汐帆(じぶん)と見分けがつかないのだ。
目の前に確かに存在しているはずなのに、鏡に話しかけているかのような虚ろな違和感がざわざわと騒ぎ立てる。
瞬きも、呼吸のタイミングも、違うはずなのに。
記憶を浚って過去の自分を眺めるような、ひと呼吸あとには目の前のすべてが消えてしまうような、どうしようもないほどの希薄さに背筋が凍りつく。
「俺は多分、長い時間をかけて少しづつ、汐帆と同化しつつあったんだ」
「……」
「そんな顔するなよ」
寂しそうに湊が笑う。
泣きたいのを無理やり我慢しているような、いびつで優しい笑顔だった。
「汐帆の沈み込むような不安も、花が綻ぶようなよろこびも、全部俺に届いていた。幼いころは、こうして汐帆の中で生き続けるのもいいなって思ってもいた」
湊の言葉は、まるで日記を読み聞かせるかのようだった。
書いてある文字、既に置いてある言葉が、戻ることのない日々を懐かしみながら淡々と続く。
「突き刺さるような凍てつく痛みも、肩代わりしてやれないのがずっと、ずっと心苦しかった。だから汐帆と初めて話せたときは、俺が外側でいくらでも楽しい思い出を作るから、汐帆には内側でそれを見守ってもらうのも悪くないと、本気でそう思っていた」
「湊……?」
チリンと音が鳴る。
彼の手元で揺れる小さな船のキーホルダーから、目が離せない。
「でもダメなんだ。汐帆は、自分に厳しすぎる。辛い記憶を全部背負って、夜処の底まで沈み込むつもりだろ。俺には明るい記憶だけ持たせて、自分は二度と目を覚まさなくたっていいと、考えているだろ」
「そんなこと」
言い淀む。
湊の穿つような瞳を前に、言葉が続かない。
「俺に嘘は通じない。汐帆が何を考えてるかなんて、自分のことのようにわかる。……汐帆も、そうだろ?」
汐帆は涙を滲ませながらブンブンと頭を振る。
わからない。わかりたく、ない。
何も言えない。返す言葉が、どこを探しても見当たらなかった。
「俺は汐帆が厭う過去も抱きしめられる。ずっとそうしてきたから、全然特別なことじゃない。俺が俺としてやってきたことを、今度は俺が汐帆として請け負うだけのことだ」
「やだ、やだよ。返して、それは私の鍵だよ」
「なら、俺の鍵でもあるはずだ」
断言する湊を、真っ赤になった目元で睨みつける。
それは話が違う。そんなの、嘘ばっかりだ。
言いたいことは山のようにあった。けれど、口を開くより先に抱きしめられて、何も言えなくなってしまう。
背中に回された腕は、悲しいぐらいに温かい。
「……頼むよ。俺、汐帆と一緒に未来を生きたいんだ」
鍵は、手を伸ばせば届くところにある。
湊の腕さえ振りほどけば、すぐに取り返せる。
汐帆は癇癪の代わりに、ぼろぼろと涙を零しながら一言だけ問いかけた。
「どうしても、なの?」
うん、と肩越しに頷く。
『俺、ただ汐帆に笑っていて欲しいんだ』
湊はもう口を開いていなかった。
そこにいるのに、頭の中に言葉だけが直接響いて聞こえていた。
汐帆は力の限り抱きしめ返す。
それが、返事だった。
今離してしまえば二度と触れることができない予感がして、耐えがたい寂しさを前にして。
赤子が意志を伝えるのに、まだ、それしか方法を知らないかのように、汐帆は延々と声を上げて泣いていた。
空気が肺を満たして、体温がグンと上がる。悲しくて悲しくて仕方がないのに、全身が溢れんばかりの命を叫んでいるようで、なんだかちぐはぐだった。
腕の中の湊の気配が薄くなっていく。
涙で滲んだ視界を、黄金色の泡が踊るように眩く照らしていく。
『まだ、見える?』
「見えるよ。聞こえるよ」
『あたりを見てごらん。俺が、いちばん好きだった景色だ。……俺の、俺だけの宝物』
汐帆はそっと顔を上げる。
周囲の壁はすっかり取り払われて、水面は遠く下方に離れていた。二人はドーム屋根の下、灯台のような建物の最上階にいるようだった。
夜闇の中、貝殻のように白い建物がそこかしこで淡い光を湛えて身を寄せ合い、水面の上には散歩道のような足場が点々と続いている。
それはまるで、深く遠く果てのない青空に、そのまま夜の星を散らしたような光景だった。
幼子が欲しいものをすべて詰め込んだ絵のようにわがままで、どこか愛おしく、泣きたい気持ちになる。
「きれい……」
ざあっと風が吹いた。
乱れた髪の隙間から、目を奪われた景色が光の粒にまみれて、透明になっていく。
意識が遠のいてゆく刹那、そうだろ、と自慢げな声が聞こえたような気がした。
常夜の海が眩い光のゆらぎに呑み込まれる。
明けない夜が、明ける夢。
満ちた静寂が波と共に引いていく。
瞼の裏の薄暗がりは、埃を被った陽だまりの匂いがした。
汐帆は、ゆっくりと目を開ける。
頬には乾いた涙のあとが残っていた。
軽く目を擦ると、目元でぱりぱりと小さく音が鳴った。
シンと透き通るような意識が、ひとつずつ確かめるように隅々まで行き渡る。
心は不思議と凪いでいた。
自分の呼吸音も、とくとくと鳴る心臓も、なにでもないすべてがどこか特別に感じられた。
しばらく耳を澄ましてジッとしていると、やがて汐帆は自分の中に湊を探しているのだと自覚した。
無意識に彼の気配を探していたのだ。
ゆるゆると首を横に振ると、横に流したままの前髪を耳にかける。
声はもう聞こえなかった。
あまりに長い夢を見ていたような心地がして、頭が重たく、ぼうっとする。
レースのカーテンが網戸越しの風に揺れていた。やわらかく差し込む朝陽が、遠い記憶の中で見知った和室をぼんやりと明るく照らしている。
改めて、ゆっくりと辺りを見回す。
温かな敷布団。頭上では、漆喰の塗り込められた高い天井を濃色の梁がしなやかに引き締めている。
深く息を吸い込めば井草の匂いがした。布団の下はよく手入れされた畳が何畳も並んでいる。
和ダンスには何でもかんでも貼り付けられた色とりどりのシールが、随分と色褪せながらもそのまま残されていた。
間違いない。祖父の家だった。
海辺で絡まれて、湊と入れ替わった後に続く現実の記憶がおぼろげだった。どうやってここまで来たのか、恐らく出迎えてくれたのであろう祖父とは、一体どんな話をしたのか。
思い出そうとしても、映画館のいちばん後ろの席から見知らぬ映像を薄目で眺めているかのようで、他人事な景色はどうやっても引き寄せることが出来ない。
きっと、これは湊の記憶で、感情だった。
祖父とは一言、二言、言葉を交わしただけのように思うのに、堪えがたいほどの懐かしさと愛おしさとが込み上げていた。寡黙なばかりの優しさは、相変わらずだなあと、ぼんやり思う。
シャワーを浴びて、慌ただしく髪を乾かして、用意された寝床に潜ると泥のように眠り込む。
急いでいるのに妙に丁寧な様子は、傍目に思い返してみるとなんだかおかしかった。
そうして、「湊」は私の……私たちの夜処へ戻ってきたのだ。
敷布団を畳むと、ふと枕に目が奪われる。見覚えのあるクマの柄。あんなに大きかったタオルケットは、こじんまりと縫われて枕カバーになっていた。
まだ、取ってあるんだ。
くすぐったいような心地がして、すっかりごわついた表面を撫でる。
ポシェットは丁寧にまとめられて枕元に置いてあった。ハッとして中を探る。化粧ポーチ、お財布、インスタントカメラ。
写真の現像をしなくちゃ。
不意に胸を衝かれたような心地がして、汐帆はおずおずと手に取った。
現像した全部を額に入れて、色んな場所に飾ろう。
もっと写真を撮りたい。海を、街を、船を、朝焼けを──。
いや、その前に、お腹が空いた。喉も乾いた。
ぐったりと疲れの残った身体が、何故だか心地よかった。
何から話そう。
何から始めよう。
栓の抜けたように意欲が次々と湧いてくるのが不思議だった。
うんと伸びをすると、節々が恨めしげに音を立てる。
汐帆は、はたとすべてが可笑しくなって声をあげて笑った。
息が上がるほど笑って、笑って、すっかり止まらなくなった涙を拭い続ける。
すべてを諦めた夜を、私はきっと忘れないだろう。
痛みは今もなお鮮烈な熱を持って心の奥で疼いている。
けれど、逃げ出したいほどの恐怖や焦燥は伴わない。代わりに深い海のような安心が、汐帆を内側から満たしていた。
立ち上がり、襖に手をかける。
湊が過去を引き受けてくれるのなら、私は、彼の望んだ未来を生まれた直したつもりで生きてみよう。
まずは、彼がいつか羨んだ蜂蜜色の海を飲み干す日まで。
