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「最悪のシナリオ―― 巨大リスクにどこまで備えるのか」キャス・サンスティーン

12月、近くに、でっかい蔦屋がオープンした。狙った本を購入するのであればAmazonでこと足りるのだけれど、自分の知らない本に出会い、手にとって確かめられるのが本屋さんのよいところ。むかし、京都駅で新幹線を降りると、「100万冊の引力」なる垂れ幕が目に飛び込んできたものだけれど、今回近くにオープンした蔦屋は70万冊の引力とのことである。このほかにもCD、ゲーム、喫茶スペース(タリーズ)も併設されていて楽しい空間だ。一つだけ難点を述べると、周囲にホームセンターやら、電気屋やらが立ち並んでおり、郊外立地型のショッピングセンターの様相を呈しているので、休日になると尋常じゃなく混雑する。

混雑を避け、平日の夜中(といっても仕事帰りの10時くらい)に訪れる。文庫・新書、コミック、専門書、それぞれが適度な規模で配列されている。一分野を穿つよりも広くそろえる方針のようだ。自然科学、哲学、社会学と見て回る。東京の丸善、紀伊国屋、ジュンクなんかと比べるとどうしても見劣りするけれど、この辺でこの品ぞろえは頑張ったんだなあと思う。近くに重機メーカーや研究所なんかも多いので、自然科学系の書籍には興味をもつ人も多そうだけれど、哲学・社会学は・・・。どうなんだろ。今後も廃れないように頑張ってほしいものだ。と、そんなこんなで、面白そうな本を探していたところ、ぱっと目に飛び込んできたのが「キャス・サンスティーン著, 最悪のシナリオ-巨大リスクにどこまで備えるのか-」である。自然科学コーナーの福島原発事故関連書籍の中に紛れ込んでいた。「予防原則と費用便益分析を緩やかに両立させた法学/経済学の成果」という帯文句につられ、ぱらぱらめくって購入決定。

チェルノブイリ原子力発電所事故や福島第一原子力発電所事故の結果からも明らかなように、原子力発電所の事故は人の健康と環境だけでなく、社会的・経済的にも大きな影響を引きおこす。それはまさに、大惨事と呼ぶにふさわしいものだ。原子力発電所での事故だけでなく、低確率で発生し、かつ、壊滅的な影響をもたらす大惨事が世の中には多々存在している。2011年3月11日に東日本で発生した巨大地震・津波や2005年8月末に米国南東部を襲ったハリケーン・カトリーナのような自然災害、2002年9月11日に米国に対して行われたテロ、1969年にインド・ボパールで発生した化学工場での事故など、自然か人為か、故意か否かに係らず、これまでに世界は多くの大惨事を経験してきた。

ボクたちは、このような大惨事のリスクとどのように向き合っていったらよいのだろう。

大惨事をもたらす原因をこの社会から排除してしまえがよいのか。あるいは、数百年や数千年に一度という蓋然性であれば、それを受け入れて生活していくのがよいのか。はたまた、ただ指をくわえて受け入れるのではなく、壊滅的な影響に備え、いつ何どき、そのような事態が発生しても一人の犠牲者、経済的損害を生じることなく乗り切れるように準備をしておくべきなのか。多くの場合、そのような備えには極めて莫大な人的・経済的資源が必要となるので、ボクたちに大きな負担を強いることになるだろう。壊滅的な大惨事への対応は、予防と効率という2つの価値が衝突する状況下での意思決定となる。

このような意思決定に関して、本書は次の点で興味深い。
(1)人々のリスクへの反応を決める要因の分類
(2)予防原則の精緻化
(3)費用便益分析の論点整理(特に、結果の解釈)
(4)経験と分析を融合させた決定のあり方

以下、この4点に着目して本書の議論をまとめておきたい。

(1)人々のリスクへの反応を決める要因について、サンスティーンは(正確に述べるなら、彼が引用した文献によれば)、リスクや最悪シナリオに対する人々の反応が、2種類の経路で生じていると主張する。第一の経路は直感的で、第二の経路は分析的である。この論点は4つ目の論点、経験と分析の融合とも絡んでいて、サンスティーン自身はどちらかというと分析的経路に寄りながらも、経験的経路の重要性も認識しているように感じられる。そのような立場を反映してか、本書の導入部となる第一章では、気候変動、オゾン層破壊、テロという大惨事を引き起こしうる3つの事例について検討しながら、経験的経路の論点を、やや批判的に整理している。

経験的経路による反応は、本人の経験をもとにリスクを過大/過小評価してしまう傾向がみられ、主観的で感情の影響を受けやすい。例えば、過去に深刻な健康不安、交通事故を経験したばかりの人は同様の状況に対して悪い結果を想定してしまう傾向が多くて、反対に、同じ状況でも悪い結果を経験したことのない人は、その状況を軽視してしまう傾向がみられるようだ。このような反応に寄与する要因としてサンスティーンは、(i)最悪の結果を自身の経験に基づいて想像できるか否か(想起性)、(ii)加害者と被害者を具体的に特定することで反感や共感のような感情的インセンティブが芽生える(感情)、(iii)自身の経験の有無に応じて発生するか否かを判断してしまう(確率無視)を挙げている。

サンスティーンの議論において大惨事に対する国民の姿勢は、経験的経路に係る3要因、すなわち、想起性、感情(被害者と加害者の具体性の有無)、確率無視/考慮によって説明できる。つまり、(i)大惨事を容易に想像することができて、(ii)加害者と被害者が具体的であり、(iii)一度経験したことのある事例に対して、人々は予防的な措置を要求する傾向があるのだ。一方で、予防的な措置をとるのか、効率的な措置をとるのかに対して、当局の姿勢は費用便益分析等によって定められる。国民と当局のリスク削減に応じて規制がどのように分類されるか、下のようなマトリクスにまとめてみるとわかりやすい(本書に記載されたものを一部修正)。


(Sunstein, 2007, Table 1一部改)

気候変動による影響は、(i)米国民はこれまで気候変動によって大きな影響を受けてこなかったし、予測の結果ではこれからも受けるとは考えられていない(本書に拠れば)。しかし京都議定書を支持するとなると、(ii)国民一人ひとりが経済的な負担を強いられる。自分たちに影響のない危険源に対して高額な負担を強いられるので、国民は、気候変動に対するリスク削減を積極的には要求しない姿勢をとる。また、このような状況は定量的にも明らかで、費用便益分析の結果も温室効果ガスに対する規制の費用は便益を上回る。したがって、当局も気候変動に対するリスク削減を支持しない。人々の経験、政府の分析、これらの結果はいずれも気候変動に対して米国が温暖化対策を推進することに対して何らのインセンティブも持たないことで一致している。

一方で、クロロフルオロカーボン(CFC)によるオゾン層破壊の影響は、(i)皮膚がんという身近な影響であること、(ii)地球の保護シールドが危険にさらされているという分かりやすい原因であったことから、その影響を人々が容易に想起することができた。また、(iii)代替資源が確保されたためCFCの不使用が消費者にとって格別負担とならないという条件が重なったこともあって、オゾン層破壊に対する規制は、国民にも受け入れやすいものだったのである。また、1987年、CFCの製造禁止と使用削減に関するモントリオール会議が開かれた際に、米国政府が行った費用便益分析によれば、議定書を加盟国が一致して採択することで得られる純便益は3,554億円に達する。米国が単独で議定書を施行した場合でさえ、純便益は1,342億円と見積もられている。したがって、当局は費用便益分析の結果をもとに、このような規制を推進するインセンティブを持つのであって、国民の反応とも整合性があるわけで、米国は議定書に対して積極的な姿勢を示すこととなる。

オゾン層破壊に対する事例をもっと極端にしたのが、テロに対する反応である。9.11を経験することによって、(i)テロが現実に行われる可能性やその影響の甚大さは、極めて具体的なイメージをもって人々に受け止められている。そして、この経験は、(ii)確率をまったく無視して、予防的措置の導入、すなわちアフガニスタンとイラクでの戦争へと人々と政府を導いた。当時、チェイニー副大統領が発表したように、テロによる最悪の事態を引き起こす可能性があるのであれば、それがたとえ1パーセントであっても確実に対応できるようにしておく必要があるという主張からも明らかなように、テロに対する戦いは明確に確率を無視して、想起性と感情の後押しを受けてなされた決定に基づいている。

「このような新しいタイプの脅威には、今までに定義されたことのない方法で対処する必要がある…。今回のような、起きる確率は低くてもインパクトの強い事象について…、パキスタンの科学者がアルカイダによる核兵器の製造や開発を支援している可能性が1パーセントでもあるなら、われわれはそれを確実な事柄として扱い、対応しなくてはならない」

このように予防を最優先する決定方法に対して、サンスティーンの方法は条件付きで予防原則を許容し、予防と効率を両立させた折衷案である。予防原則を許容するために求められる条件とは何か。これを熟慮することで、(2)予防原則の精緻化に議論が移る。そもそも、本書を通じて随所に書かれているように、サンスティーンが予防原則をそのまま受け入れない大きな理由の一つに、実効性の欠如が上げられる。つまり、抽象的過ぎて、現実の対応に指針を与えることができない点を危惧しているのである。一つの例として1992年にリオ宣言の中で採用された表現をみてみよう。

「重大または不可逆的な損害の脅威がある場合、十分な科学的確実性の欠如を理由として、環境悪化を防ぐ費用対効果の高い措置を先送りすべきではない。」

サンスティーンの提案する折衷案は、「重大な(サンスティーンは「壊滅的な」という言葉を使う)」損害に対する予防原則と、「不可逆的な」損害に対する予防原則のそれぞれについて精緻化されたものだ。

(a)壊滅的な損害に対する予防原則を適用する際に検討すべき項目
-期待値の算定を必要とする
-リスクの社会的増幅を考慮する
-セーフティー・マージンを設ける

上記の項目に対して、ぱっと思い浮かぶ批判。すなわち、大惨事を引き起こす可能性があることはわかっており、その影響の程度も特定できているにもかかわらず、どの程度の確率で発生するかを特定できない場合がある。このように不確実な状況に対してサンスティーンは、マキシミン原則をベースとした、次のような予防原則を提案する。

(a')不確実な状況下における壊滅的な損害に対する予防原則
-最悪シナリオと他の代替案との影響の差を評価すべきである
-最悪シナリオの影響が著しく有害で、そのシナリオを排除するために必要な負担を明らかにすべきである

また、不可逆な損害に対する予防原則については、以下のような状況において予防的な措置が必要となる可能性があると考えているようだ。ただし、サンスティーンは「(不可逆的な予防)原則を実行するためのいかなるアルゴリズムも存在しない(p199 l.3)」と明確に述べていることから、これらの損害への予防原則の適用はあくまで留保つきである。

(b)予防原則を適用すべき不可逆的な損害とは何か
-回復がきわめて高費用または不可能という意味で損害が不可逆な場合
-将来の柔軟な対応のために選択肢を残しうる場合
-貴重で独特な性質を持つ財の損失を伴う場合

以上のようにサンスティーンは、予防原則を精緻化することによって、実際の状況への対応において有用な指針を提供しようとしている。リスクに対する反応が、すでに述べた2つの経路をたどるとすると、予防原則は第一の直感的な経路に親和性をもつ。しかし、そこに第二の分析的な経路を付け加えることで、現実的で効果的な対応が可能となるとサンスティーンは考えているようである。

しかし、その分析プロセスに必要なツールがすべて整備されているかといえば、そうではない。この点を考察すると、(3)費用便益分析の論点に着目することになる。サンスティーンは費用便益分析に係る明白な問題点として、(i)保護を求めている人がその保護から得る便益の大きさが、支払意思額ではとらえられない可能性があること、(ii)費用の負担者と便益の享受者が異なることを挙げる。

1つ目の問題点は、死亡リスク削減の便益計測に用いる原単位、すなわち確率的生命の価値(VSL)による金銭価値化のプロセスに係る問題である。本書では第5章がこの話題に割り当てられて(ずばり「金銭的価値」という章立てである)、VSLの有用性と正統性を述べるとともに、VSLとそれに基づく費用便益分析の限界についても触れている。

(c)VSLの論点
-限定合理性
→VSLの算定に用いられる支払い意思額(WTP)の評価において、評価対象者は大惨事のリスクに対して情報を十分に持っていない可能性がある。また、個人的なリスク管理は個々の生活を反映したものであり限定された合理性を構成するのみである。

-適応選好
→ひとは社会的剥奪、機会の制限、差別などに適応するものである。不利な状況に適応した人のWTPから導かれるVSLを費用便益分析に用いるのは不当である。

(d)費用便益分析の手法に係る論点
-分配
→費用便益分析では補償原理を前提としているので、だれが便益を享受し、だれが損害を被っているのか明確にして、損害を被っている人に対して便益享受者から再分配が行われなければならない。

-国家を跨いだ評価の難しさ
→上記のような再分配に際して、国を跨いで再分配を行う制度がない。また、VSLはその国の経済状況を反映しているので、国によって人命の価値がてんでばらばら。極端なことをいうと、数字上、貧困国の人命は富裕国の人命よりも価値が低いことになってしまう。

費用便益分析の結果が不確実さをはらまず、再分配に係る制度的背景が十分に整えられているのであれば、費用より便益の方が大きい選択肢、または、複数の選択肢で便益の方が大きい場合には純便益が最大となる選択肢を選ぶべきである。しかし、これらの条件は明らかに満たされていないので、そのような判断には慎重になるべきだというのがサンスティーンの立場のようだ。費用便益分析の結果を解釈する場合には、(i)貧困者が大きな便益を得る選択肢を選ぶか、さらに慎重なアプローチとして、(ii)費用便益分析の結果を単に関連情報の一つとして検討する方法を示している。(ii)の立場は放射線防護の意思決定に対して最近の国際的な潮流と類似の立場だけれど、予防原則と費用便益分析を絡めながら、ズバッズバッと要点を押さえながら我慢強く展開された議論はとても刺激的だった。(ii)の立場での意思決定については、そのプロセスが満たすべき基準を、今後、突き詰める必要がありそうだ。

その点が最後の(4)経験的経路と分析的経路の融合にひっかかってくるのだけれども、サンスティーンの論調だと、経験的経路=予防=国民、分析的経路=効率=政府・当局という流れになっていて、予防と効率の落とし所が「直感や限られた経験、そして偏った知識に頼るしかない」国民と、「最悪のシナリオとそれに対処する方法を熟慮することを職務の中心とする」当局者・専門家との関係という形で単純化して受け取られてしまいかねない感じがしないでもない。しかしこの点については、本書の最後のさいご、結論の最終段落にサンスティーンの考え方がまとめられている。

「人間の弱さとそれに立ち向かう最善の方法を理解しない限り、この職務(註:最悪のシナリオとそれに対処する適切な方法を熟慮するという職務のこと)をきちんと遂行することはできない。ほとんどの人にとって、絶えず注意を払うに値する最悪のシナリオはめったにあるものではない。人生は短いのだから、楽しんだほうがよい。しかし起こりうる最悪の事態にたまには注意を払うと、人生をずっと長く楽しむことができるはずだ。」とサンスティーンは言う。

福島第一原子力発電所事故を経験した今、原子力発電所の事故というのが発生しうるものだとわかったし、加害者は明確で、国と事業者だ。網羅的に被害者を特定することは難しい。だけれども確実なこともある。いまなお自分たちが暮らしていた自宅へもどることができず、仮設住宅での生活を強いられている避難地域の人たち。放射性物質によって汚染され、明らかに自然放射線レベルよりも線量の高い汚染地域で生活している人たち。この人たちは具体的で明確な被害者だ。

本書の議論と、このような現状とを照らし合わせてみる。経験的経路を通じて反応するならば、約50基設置されている原子力発電所での地震や津波による過酷事故の発生を想像し、巨大な防波堤の設置や発電所の運転停止を支持する住民は、確かに多いかもしれない。しかし一方で、エネルギー問題や経済効果を分析して原子力発電の再開と継続を支持する住民がいることだって確かなのだ。逆に、汚染地域の復旧と原子力発電の今後について、技術的かつ効率的な分析を粛々とすすめながらも、事故の影響と人々の感情に配慮して、予防的な措置を推進する専門家、官僚、政治家だっているわけで、経験と分析は、様々な主体の中に同時に両立して宿りうるように感じる。そのような個人の眼差しが、細く、長く関心を払いつつ、我慢強く、経験と分析の間を行ったり来たりしながら一つひとつの困難と向き合っていくことに期待したい。

2013-01-17 00:40の日記を再掲。


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