13. Thinking about 「1985」 in 2025
1985 国籍不明の
1985 飛行機が飛んだ
風を砕くのは銀色のボディ
謎のイニシャルは誰かの名前
僕達がまだ生まれてなかった
40年前戦争に負けた
そしてこの島は歴史に残った
放射能に汚染された島
1985 求めちゃいけない
1985 甘い口づけは
黒い雨が降る死にかけた街で
何をかけようかジュークボックスで
1985 今この空は
神様も住めないそして
海まで山分けにするのか
誰が作った物でもないのに
1985 クリスマスまでに
サンタクロースのおじいさんの命が危ない
1985 選挙ポスターも
1985 あてにはならない
僕たちを縛りつけて
独りぼっちにさせようとした
全ての大人に感謝します
1985年 日本代表ブルーハーツ
1985 1985
僕達がまだ生まれてなかった40年前、この曲は書かれた。
1985年は、伝説のバンド THE BLUE HEARTS が結成された年であり、1985年12月24日にはこの曲が収録されたレコードがライブハウスで配布された。
この楽曲が書かれた時点からさらに40年遡った1945年は、アメリカ合衆国による広島・長崎への原爆投下の年であり、そして太平洋戦争が幕を閉じた年である。
終戦から40年間の軌跡と、激動の1985年を、皮肉たっぷりに歌い上げた詩であるように僕には聞こえる。
楽曲の歌詞の解釈について踏み込む意図はない。
2025年のクリスマスイヴである今日は、「1985」に思いを馳せつつ、1985年という年と、2025年という年を、少し振り返ってみようと思う。
1985年
冷戦(1945年〜1989年)
戦後40年という時代は、そのまま、冷戦の時代であると言ってもいいでしょう。
1945年2月に米国・英国・ソ連の3カ国で行われたヤルタ会談は、ファシズムの根絶を目的とした第二次世界大戦終盤の戦局を決めるものであり、そして戦後の世界体制を定めるものでもあった。
ヤルタ会談に基づく世界体制はヤルタ体制と呼ばれ、連合国(United Nations)による世界平和を目指した国際連合(United Nations)の成立や、東西陣営の対立に結びつく。
1947年3月のトルーマン宣言により、資本主義の「自由主義世界」と、共産主義の「全体主義世界」とに分断した。
ここから本格的に、40年もの長期間にわたる「冷たい戦争」と呼ばれる対立状態が始まることになる。
この戦争が「冷たい戦争」(Cold War)と呼ばれたのは、結果として戦火が上がらなかったからだとされている。
しかし、戦火がなかったのはソヴィエト連邦とアメリカ合衆国での話であり、両国以外の土地では実際に衝突している。朝鮮戦争やベトナム戦争などがこれにあたり、ソビエト連邦とアメリカ合衆国の対立を当事者同士ではなく別の土地で別の国家や勢力として争わせる性格の戦争であり、これらの戦争は代理戦争と呼ばれることもある。
なお、朝鮮戦争はいまもまだ終結していない。
あくまで一時休戦中であり、2025年現在も戦争状態は続いている。
ソヴィエト連邦とアメリカ合衆国がなぜ直接衝突することがなかったかというと、諸説あるが、お互いが核兵器により威嚇し牽制していたことで抑止力が働いていたとする考え方がある。
これは、あくまでひとつの考え方を提示したに過ぎない。
抑止力が働いたから、冷戦で直接衝突が生じなかったと断定して良いかどうかは議論が必要である。他にも考慮に含めなくてはならない要素が多すぎる。
そして、仮に「抑止力が働いたから、冷戦で直接衝突が生じなかった」が真であったとしても。保有している兵器の威力と数があるラインを上回り、軍事力が拮抗した状態になると、抑止力が働くかどうかも議論が必要である。ただ実際に冷戦ではそうであったからといって、それが普遍の効力を持つわけではないのだから。
とにかく、世界で力を持っていた国々が東西陣営にわかれて、互いに強大な軍事力を見せながら睨み合っていた期間が40年近く続いていたのだ。
いつ世界大戦が勃発するかわからない。
いつ核戦争が起こるかわからない。
そんな不安を抱えていた期間であったに違いない。
冷戦は1980年代後半になってから終結に向かった。
1985年時点では、冷戦終結の兆しは感じられなかっただろう。
戦後40年間。
戦争は終わったと言われながら、すぐ隣では朝鮮民主主義人民共和国と大韓民国が戦争状態にあり、ソヴィエト連邦とアメリカ合衆国という世界をリードする強大な2か国が対立し続けていた時代。
不安が少しずつ高まり続けて飽和寸前の極度の緊張状態にありながらも、それがもはや日常と化していた時代。そんな時代だったのではないかと想像する。
日航ジャンボ機墜落事故
1985年8月12日、東京から大阪に向かう途中の日本航空123便が墜落し、520名が死亡する事故が起こった。史上最悪の航空事故とも言われている。
同便には著名人も多く搭乗していた。
世界的な歌手である坂本九も搭乗していたひとりであり、この事故の犠牲になった。
米国では「SUKIYAKI」として親しまれてきた、坂本九の代表作である「上を向いて歩こう」が発表されたのは1961年のことである。
上を向いて歩こう
涙がこぼれないように
思い出す 春の日
一人ぽっちの夜
上を向いて歩こう
にじんだ星をかぞえて
思い出す 夏の日
一人ぽっちの夜
幸せは雲の上に
幸せは空の上に
上を向いて歩こう
涙がこぼれないように
泣きながら歩く
一人ぽっちの夜
思い出す 秋の日
一人ぽっちの夜
悲しみは星のかげに
悲しみは月のかげに
上を向いて歩こう
涙がこぼれないように
泣きながら歩く
一人ぽっちの夜
1973年のオイルショックまで続いたとされる高度経済成長期の真っ只中に発表されたこの曲は、まもなく1964年の東京オリンピック、そして1970年の大阪万博を迎え、日本が技術力を身につけて経済的に大きく成長しており世界と渡り合えるようになっている実感がある、前途洋々とした希望に満ちた明るい雰囲気とともにあった。
世界トップクラスの国内総生産(1968年〜)
高度経済成長を果たした日本は、経済活動の指標の一つである国内総生産(Gross Domestic Product)の数値も大きく成長した。
現在、日本の国内総生産は米国、中国、ドイツに次ぐ世界第4位であるが、1985年の時点では世界第2位であった。
1968年に西ドイツを抜いて、アメリカ合衆国に次ぐ経済大国に成長し、その地位は2010年まで続いた。
太平洋戦争での降伏から20年余りで、生活は大きく変化したはずだ。
「三種の神器」と呼ばれたテレビ・電気洗濯機・電気冷蔵庫が生活に入り込んできたと思ったら、わずか10年程度のうちにカラーテレビ・クーラー・自動車が世に現れた(「新三種の神器」)。
新幹線の開通、オリンピック、万国博覧会と、わくわくする期待感のなかで経済活動が世界で2番目に活発な大国になったという知らせを聞いた当時の日本人は、敗戦で打ち砕かれたプライドも回復したことだろう。
1985年は、戦争の傷跡など感じさせず、もはや経済で世界に勝利した高揚感と自尊心すら落ち着いてきた、そんな安定した時代だったのだろうと想像する。
プラザ合意
日本の高度経済成長期が終わったのは1973年とされている。
1973年に起こったふたつの出来事が要因となった。
要因のひとつが、先ほども言及したオイルショックだった。
そしてもうひとつの要因が、変動相場制の導入である。
1973年頃の日本円は、1ドル=300円前後であった。
現在と比べるとはるかに円安の時代だったのだ。
石油を用いて工業製品を作り、それを海外に輸出する。
もちろん時代が異なるので単純に比較することはできないが、円安であるというのは輸出が有利に働く状態である。
現在のレートである1ドル=150円ほどの場合と比較してみると、米国に100ドルの製品を売ると現在では15,000円程度であるのに対し、1ドル=300円であれば30,000円であったということになる。
工業製品を生産することで成長した日本は、安定した石油の供給と、円安に支えられていたのだ。
高度経済成長期以降の日本は、2回に分けて打撃を受ける。
1回目が1970年代である。
1973年と1979年のオイルショックにより石油の供給が不安定になり、石油価格も高騰した。
そして、変動相場制の導入に伴って1973年から5年ほどで1ドル=200円近くまで価格が落ちる、急速な円高が進んだ。
2回目が1985年のプラザ合意である。
財政赤字と貿易赤字に苦しむアメリカ合衆国の経済的な救済のため、ドル高の是正を目的とされた会議が1985年9月にニューヨークのプラザホテルで行われた。
経済的な影響力が世界的に大きい5カ国で行われ、世界トップクラスの国内総生産を誇っていた日本もこれに参加した(米、英、西独、仏、日の5カ国)。
1985年時点で1ドル=250円ほどだったが、3年も経たないうちに1ドル=125円ほどまで価格が落ちた。
1970年代と比較にならないほどの急激な円高となったのである。
プラザ合意により日本の輸出産業が大打撃をうけるのは明らかなことだった。これは、会議に参加した他の国(特に工業生産が盛んだった西ドイツ)においても同様である。
しかし日本の成長はアメリカ合衆国の経済力に依存している部分も大いにあり、日本が打撃を受けることになったとしても、アメリカ合衆国が経済的に破綻するより救済した方が良いと判断した。
日本は円高による不況を打開するために、さまざまな対策を講じることになる。
バブル経済の兆し
円高不況を打開するために取られた対策のひとつが、低金利政策である。
低金利政策と聞くと、バブル崩壊後のゼロ金利政策、また2016年に導入されたマイナス金利政策などを経験しているため、いまとなってはどうってことない政策のように思えるかもしれないが、当時としてはあまりに新鮮な政策だったに違いない。
低金利政策は、企業や個人が銀行から借入するハードルを下げて国内の経済活動を活発にする目的で取られた政策であり、消費活動や設備投資等に充てられて内需拡大が期待されたものだった。
「お金を借りたいなら金利を払う」という常識が、「お金を借りても金利をほとんど払わなくていい」という斬新な価値観に取って代わられたのだから、手元にキャッシュがなくても機会を得ることができる。支払うべき僅かな金利以上にキャッシュを増やすことさえできればいいのだから、いろんなことにチャレンジしてみたくなる。
政策自体はうまく機能した。むしろ、機能しすぎたのかもしれない。
実際にはどんな現象が起こったかというと、投資のための資金として大量に流れて、株価や不動産価格の高騰に繋がってしまった。いわゆるバブル景気である。
バブル経済と、バブル崩壊後の失われた30年のきかっけは、実は1985年のプラザ合意にまで遡ることができるのだ。
テレクラの流行
経済的な側面ではなく、日常生活の変化にも注目してみよう。
テレクラ、と聞いてどのような印象を受けるだろう。
あまり馴染みがない言葉であるという人も多いのではないだろうか。
かくいうわたしもドラマなどで聞いたことがある程度で、ぜんぜん馴染みのない言葉である。
テレクラは、テレフォンクラブの略称であり、1985年に誕生した男女の出会いの機会を提供する店舗形態の名称である。具体的には、出会いを目的とした男女それぞれに専用の電話番号を共有して、通話の機会を提供する斡旋事業だ。
現代ではインターネットやスマートフォンが普及しており、出会い系サイトやマッチングアプリなどさまざまな代替手段があるためテレクラはすっかり衰退してしまったが、しばらくの間出会いの機会として主流であった。
見ず知らずの男女が出会うため、もちろん危険も伴う。
売春などの犯罪行為に利用されたり、風紀の乱れを訴える声もあった。
男女が自由に恋愛できる時代は、ある日突然現れたわけではない。
そして、自由とは名ばかりの、提供された選択肢からもっともステータスが高い相手を選ぶ形態を「自由恋愛」と呼ぶ時代が続く。
2025年現在でも自由恋愛は相応しい恋愛のあり方だと思われているのだろうか。
仮にそうだとして、はたして現代は、お互いの尊厳と意思が尊重された形で自由に恋愛することができる時代になっているのだろうか。
排他的経済水域の制度化(1982年〜1994年)
「排他的経済水域」は、1982年に採択され、1994年に発効された国連海洋法条約によって定義された。
日本は1983年2月に署名し、1996年の海の日、7月20日に同条約を締結した。
排他的経済水域(exclusive economic zone)とは、領土から200海里の水域を指す。
すでに定められていた領海(国家領域である領土・領海・領空のうちのひとつ)である領土から12海里の水域に加えて、領土から200海里の水域において経済的な権利が与えられるとするもの(経済水域)であり、これはいずれかの国家にのみ属するもの(排他的)であると定めた。
排他的であるため、複数の国家から200海里以内であるような水域については、どの国家が経済的な権利を得るか、国家間で都度話し合う必要がある。
まだ誰の(どの国家の)ものでもない海洋を、自国の利益のための海洋であると主張することができるのだから、しかも交渉次第でその大きさが変動する可能性があるものだから、当然どの国も自国に有利になるような境界線を要求する。スムーズに解決するはずもなく、話し合いが難航するのはもはや自明のことである。
まだ誰の場所でもなかった場所を、誰かの場所にする。
極めて平和的に、建設的に定められた制度であるが、かつて列強によって世界を植民地化することで奪い合った構図とよく似ているようにも思える。
なぜ平和的な制度であると納得できるかと言われたら、かつての植民地には「人間」が住んでいたにも関わらず彼ら彼女らの主権は尊重されず列強の秩序が持ち込まれたのに対して、海洋は、「人間」が住んでいないからなのではないだろうか。
考慮に入れるべき「人権」が存在しないのだから、平和的である、と。
あまりにも合理的に、人間によって、海が切り取られていく。
見方を変えるとそんなふうにも考えられる営為なのではないだろうか。
公社の民営化
1985年頃は、国家が運営していた公共企業体(公社)が民営化した年でもあった。
1985年には日本専売公社が民営化してJTとなり、
また日本電信電話公社が民営化してNTTとなった。
1987年には日本国有鉄道が分割民営化してJRとなった。
公共企業体が民営化することで、民間企業として競争原理に晒すことで効率が向上し、営利団体として最適化されていく。
もちろん、効率的であることがすべてではない。
利益や効率を優先するならば誰も手を出さない領域であるのなら、あるいは、利益や効率を優先することで不健全になってしまう性質の事業であるのなら、それは公共事業であることに意義がある。
そうでないのなら、国家が経済活動に過度に介入していることを意味してしまう場合もある。
国家が干渉せずとも、国民が自由に生産活動を行うことで、経済が正常に機能する状態は、資本主義経済が目指す世界としては理想に近いのだろう。
少しずつ時間をかけて、さまざまな公共企業体が民営化してきた。
なかでも1985年と1987年の三公社の民営化は、特に大きなものである。
戦後40年。
終戦から、GHQ統治を経て、高度経済成長期を経て、世界的な経済大国としての地位を築いたタイミングで、改めて資本主義国としての歩みを進める日本における、象徴的な出来事だと捉えてもいいのかもしれない。
2025年
今年起こった出来事については、読者のみなさんもリアルタイムで体感してきたものなので、細かく言及することはしません。
簡単な紹介とコメントにとどめますので、2025年を振り返りつつ、みなさんが感じたところと比較しながらお読みいただけるといいのではないかと思います。
トランプ大統領再就任
2017年から1期をつとめたトランプは、次期大統領選でバイデンに敗れて再選を果たせなかった。
その次の大統領選で民主党のカラマ・ハリスに勝利し、返り咲くこととなった。
少なくともアメリカ合衆国において保守的な政策が受け入れられていることを意味するのだろう。
そして間違いなく、アメリカに限らず、世界のあり方は短い時間で大きく動いた。
政策の良し悪しをどのように考えるかは置いておいて少なくとも、トランプ大統領の実行力と、アメリカ合衆国の影響力を、再確認できた年初だったのではないだろうか。
高市早苗首相就任
国内では、自由民主党総裁に高市早苗が選ばれた。
そして、自由民主党は第27回参議院議員選挙で過半数を確保できず、衆議院・参議院の両方で少数与党となっていたなかで、内閣総理大臣指名選挙で勝利して首相に就任した。
先に就任していたトランプ大統領とも相性が良く、経済的なパートナーシップも強固になっている。
そして円安が進み、特に輸出産業が有利になることで、国際的な競争力も高まっている。
「失われた30年」から脱却する兆しさえ見せている。
政治思想として共感できるかできないかと、政治家として相応しい動きができるかできないかは、別の尺度として評価しないと変な擁護や偏見が生まれてしまうのだと想像する。
やはり、間違いなく、高市首相の政治手腕は評価されるべきもののように思える。
そして、アメリカ合衆国だけでなく日本においても、リベラルに対する反発が強まっている風潮を感じる。
これまでタブーとされてきた圧力に抗うような形で、過激な発言に歓喜する大衆思想が形成される雰囲気が感じられるのだ。
「右傾化した発言であればあるほど共感が得られる」というところまで進んでしまうとすると、極端なナショナリズムを煽ることで多数派が形成される流れが常態化してしまう。
そんな未来に一抹の不安を抱えつつ、高市早苗首相には引き続き大いに期待したい。
中居正広・フジテレビ問題
2025年のゴシップニュースで最も世間を騒がせたのではないかと思うものをひとつ取り上げる。
アイドルとして、またバラエティ番組の司会者として、芸能界で大きな影響力を持っていた中居正広氏に関する性加害問題だ。
性加害問題であるだけでも許されるものではないが、テレビ局の関与によって組織的に手配されていた可能性を示唆する点が驚くべきものである。
人間として生まれてきた者がみな、尊厳を持って思考し、行動し、活躍できる社会はいつになったら実現されるのだろうか。
あるいはそもそも、実現されるのだろうか。
世界の醜さに絶望してしまい、こんな汚れた世の中であってもどうにかして生き抜く術を考えるのもひとつのあり方。
どれだけ難しくても、すべての個人が尊厳を持って生きられる世界の実現を目指し続けるのもまた、ひとつのあり方。
この汚い世界で、あなたはどのように生きていくだろうか。
不快に思われる人もいるだろうと思うので、この話題はこの程度にとどめようと思う。
大阪・関西万博
2025年は万国博覧会が日本で開催された年でもある。
そして、大成功を収めたと言っていいだろう。
世界的なパンデミックのなかで行われた2020東京オリンピックは様々な課題に直面し、1年延期することで2021年になんとか開催することができた。
オリンピックの開催から約4年が経ち、感染対策として特別な措置を講じることなく世界中の人々が一様に介するイベントを開催できるようになったのだ。
2025年の大阪・関西万博の成功は、高度経済成長期とはまた違った安定感を世界にアピールできる機会だけでなく、パンデミック終息の祝福も意味していたのかもしれない。
内閣総理大臣所感 戦後80年に寄せて
最後に、石破首相が所感として表明した「戦後80年に寄せて」を紹介したい。
僕の個人的な政治思想が含まれるが、まるで中立であるかのように書くよりかは、かえって偏った意見であるものとして書いた方が公正な意見表明になるのではないかと考えた。
あくまで一意見であるものとしてお読みいただけるとありがたい。
所感を表明した時点の石破首相はというと、すでに総裁選で高市早苗氏が自民党総裁に選ばれており、「首相の座を降りることが確定しているけど、でもまだ首相という立場にある」という奇妙なタイミングだった。
「首相が語る言葉」は「日本国としての意思表示」になるし、歴史として残されてしまうものだから、近いうちに首相の座を降りる人間がいろいろ語るのは困るとして、「所感」の表明には批判があった。
そのため高市早苗氏は「総裁」という立場から「首相」である石破茂氏に、所感を語るのをやめてほしいと指示していたなかでの強行突破だったのだ。
この行為の是非は大いに議論されるべきだし、どんな意見だって見方によっては正しくなるはずだ。
そのうえで個人的にはいい判断だったと思っている。
首相就任前の長年の活動は個人的に好きだったけれど、首相になった瞬間にぴたりとなにもできなくなったように見える。それは、「やりたいこと」と「やらなきゃいけないこと」で板挟みだったのだろうと想像する。
このタイミングであれば、アメリカを怒らせたとしても日本との関係が悪化する可能性は低いし、非難されても攻撃されても総裁ではないから責任を逃れられるし、最悪暗殺されても構わない、だからこそ言いたいことを全部言える、それくらいの覚悟がありそうだなと、過去の石破茂氏の言動を踏まえたら想像できてしまった。
「首相という座にいるうちになんかかっこいいことをしたい」というわけではなく、そのちょうど反対の立場なのではないかと。
つまり、どれだけ恥を晒しても批判されても「後世に残すべき言葉」を記録できる絶好の機会であると考えていたのではないかと。
聞いていて、そんなメッセージを感じた。
所感の全文を読めるリンクを貼付しておくのでよかったら読んでみていただきたい。
さいごに
1985年と2025年について僕なりにまとめてみました。
代表的なニュースとしてなにを取り上げるか。
それぞれのニュースについてどのように評価するか。
あなたなりの観点で、2025年を振り返ってみてはいかがでしょうか。
それでは、よいお年をお迎えください。
総合学府ステアウェイ
代表 酒井 暖
出典
甲本ヒロト「1985」『SUPER BEST』 メルダック,1995.
坂本九「上を向いて歩こう」『上を向いて歩こう/あの娘の名前はなんてんかな』EMI MUSIC JAPAN INC.,1994.
参考文献
木谷勤『もういちど読む山川世界現代史』山川出版社,2015.
藤井剛『「なぜ!?」からはじめる政治・経済-世の中のしくみがわかる50のギモン』山川出版社,2024.
https://www8.cao.go.jp/ocean/info/annual/h22_annual/pdf/h22_annual_1_3.pdf
