初めて『採用担当』になってみて思うこと
会社にしても何にしても
今までは「声かけてもらっていた側」だったが
2025年になって「声をかける側」になった、
というのを実感として思う。
そんな私が「声をかける側」になって初めてわかった。
2025年になって初めてのことだが
私が採用する側に立って、色んな人に声をかけているわけだが
「一緒にやりたい」と思わなきゃ声かけねーよなって思った。
会社に志望動機出して行く時は
言い方がアレなんだが、「押しかけ女房」に近いものがある。
「なぜやるのか」という答えを探すための旅
2025年になって、「なぜやるのか?」
私に信念を求められるような事件がいくつもあった。
私に突きつけられる出来事が「やる理由が見えてこない」ことばかりで
どうにも自分の中での霧やモヤがはれなかったのだ。
その霧やモヤというのがイヤになって
私は一度「外でのワークから離れる」という結論を出した。
なにしろずーっと
「何を理由でやっているのか分からない」まま
やっているんだからさ。
何のためにやっているのか分からなくなったその現状に、
そんなカオスに私はサジを投げて、
活動全般から一旦離れることにしたのだ。
たまにあるんだが、
いろんな活動があって、それを何のためにやっているのか?
それが全然分からなくなって「迷い」が生じる時がある。
一度全てを捨ててゼロに帰すー
そのことで「なぜやるのか」という自分だけの理由を探す旅に出た。
「なぜやるのか」
これが分からないと、結局迷った時に
「戻ってこれる場所」がないからだ。
迷った私に「戻ってこれる場所」というものがないことに気づいた。
だから一度何もかもから離れる必要があったんだ、私には。
俗世から離れて「なぜやるのか」を探すことに全力を費やすー
ーそう宣言したのが2025年の1月中頃だったのを覚えている。
今でももちろんその考えに変わりはない。
「人は弱い」
私が迷った時というのは、誰か助けてくれる人というのがいた。
かつてはそれがコーチングで私のことを導いてくれた元同僚だったり
あるいは仙人のように全てを悟った賢人のような人物だったり。
迷ってどうしようもない時は誰かを頼った。
だが今の私にそういう人はいない。
皆、私が切り捨ててしまったからだ。
今の私は「自分で内省する」しかなかった。
「なぜやるのか?」
それを私の中で答えを探すことにした。
メソメソしたって、迷ったって誰も助けてくれない。
助けてくれた人がいた頃と、今の私はもう違うのである。
「答えは自分で見つけるしかない」
というのが分かっているからだ。
2025年1月中頃に外向けの活動を休止して、
時に、答えが見つかるんじゃないかって期待して、
かつてお世話になった場所に訪れてみたこともあった。
結局、何も見つからなかったわけだが。
「答えは自分で見つけるしかない」わけなのに
誰かが答えを教えてくれるもんだって期待して、
何かしら理由をつけて、私は色んな人に会いに行った。
だけど、私が欲しい答えは「もらえなかった」。
それは私が会いに行った人が答えを教えてくれなかったんじゃなくて
かつて私が迷いに迷って人に会いに行きまくった時のように
「助けを乞われた」からだった。
ある人は、会社の部署異動があって、上司や同僚がガラリと変わってしまって
今までの常識が通用しなくなって、会社でまずい立場に追い込まれた、
という。
今までなら私が「慰めてもらう側」だったのだが
立場がガラリと変わってしまって
私が「慰める側」になってしまった。
そのことによって「答えを教えてもらう」どころの話ではなくなったのだ。
ただ、そうした人たちの悩みを聞いて思うことがあった。
「放っておいてもなんとかなってしまう人」と
「放っておいたらなんともならない人」
がいるのだと。
判官贔屓(ほうがんびいき)な自分になっていたことに気づいた。
追い込まれてしまって、どうにもならないが、
それでもなお足掻かねばならない人の有り様というのに、
私は心を打たれた。
本来であれば、私が「なぜやるのか」と迷っていたから
私が慰めてもらうつもりだったのだが
そのことがあって私は「儚き者の影になれ」ということを覚えたのかもしれない。
私がお世話になった人はよく「人は弱い」と言っていた。
それをよく思い知らされる出来事であったし、
それは同時に私に「なぜやるのか」という理由のヒントを与えてくれたような気がした。
ある人は仕事で追い詰められて切羽詰まっていることを打ち明けていたし
ある人は自分の想いを大人に否定されて、悔しさのあまりに泣いていたし
そうした人たちが「人としての弱さ」を私に見せていた。
私の中で「なぜやるのか」という答えは、何も見えていない。
ただ「私から見たら、ほっとけない人間がいたから」行動を起こしただけで。
「誰とやるのか」
私はそうして長いんだか短いんだか分からない自分探しから帰ってきた。
判官贔屓で「儚き者の影になる」と決めた私は
流れで巡り巡って、イベントを立ち上げたり、人を呼ぶ側になった。
これまで会社に使われてばかりだった私が採用担当のような側に立った。
会社の採用担当になったことはないが、初めて採用担当の気持ちが分かったような気がした。
人は能力がある人間とリレーションシップを組みたいのではない、
自分のところのメンバーと一緒にやりたい人間と一緒にリレーションシップを組むのだと。
私が声をかけた人というのは、なんらかの形で私がその人の弱さを見た、
ということが共通項として挙げられる。
それは私の経験上で、会社の権威とかに追い詰められり
ヒエラルキーの上の人に叩かれた人をたくさん見てきた経験則からか
「弱さを見せた人間に、迷いはあってもウソがない」
ということなのかもしれない。
総括
素晴らしいダイヤが多くの人に見向きもされるのは当たり前。
ダイヤになれる優れた素養があっても、見てくれが悪い石ころだと見向きもされない。
見向きもされなかったものに対して、本来の価値を見出すー
汚い石ころも磨き上げればダイヤになる。
というのはなんとも素晴らしいことなのではないだろうか。
共に原石を磨いてダイヤにまで成長させる過程を歩めるー
そういう人たちを求めているのかもしれない、私は。
