わずか10年ほどでランニングシューズ市場を席巻した「On」の物語
わずか10年ほどでランニングシューズ市場を席巻し、いまや世界的な注目を集めるスイス発ブランド「On(オン)」。その背景には、トライアスロン世界王者の経験を持つオリビエ・ベルンハルドが、ランナー視点で革新的な履き心地を追求し続けた物語がある。本記事では、Onの創業から現在に至るまでの軌跡を追いながら、独自構造「クラウド(Cloud)」をはじめとする製品の特長、トップアスリートとの連携方法、さらには持続可能性(サステナビリティ)に向けた最新の取り組みまで、専門的な要素を分かりやすく掘り下げていく。具体例やアスリートの発言、フェデラー参画の裏話などを交えながら、多角的にOnの世界を解説することで、“より楽しく、より自由に走る”ためのヒントをお届けしたい。
1. 「On」の誕生と背景
1-1. 創業者の原体験とランニングへの情熱
スイス出身のオリビエ・ベルンハルド(Olivier Bernhard)は、かつて世界トップレベルのトライアスリートとして活躍し、6度のアイアンマン優勝、世界選手権でのタイトルなど数々の輝かしい実績を残している。幼少期からランニングに熱中していた彼は、「走ることが純粋に楽しい」という感覚に強く魅せられたという。
「5、6歳の頃、地元の小さなレースに初めて出場したときの、あの自由で無我夢中な感覚。息づかいや足音が混ざり合う集団の中で、ひたすらゴールを目指す――そんな“ランナー同士の一体感”にワクワクしたんだ。」
彼は、トップアスリートとして長年活動する中で、様々なブランドのシューズを試しては、「もっと心地よいランニングフィールを作りたい」という思いを募らせていった。競技生活を終えた後もその思いは途切れず、「自分が理想とするシューズを形にして、多くのランナーに新しい走りの感覚を届けたい」と考えるようになる。
1-2. “庭用ホース”から始まった試作品
独自のランニングシューズを開発するにあたって、ベルンハルドは、最初大手メーカー数社に提案を持ち込んだ。しかし、いずれも「そのアイデアは実用化が難しい」、「研究開発チームが着目していない=大きな可能性はないのでは」と断られてしまう。
それでも諦めなかった彼の下に、「庭用ホースの一部を貼り付けたシューズを試してほしい」という奇妙な試作品が届く。外見はまるで、“フランケンシュタイン”のように見える粗削りなものだったが、実際に走ってみると予想外の心地よさがあったという。
「『見た目はひどかったけど、走った瞬間に、“これは面白い”と直感した。垂直方向だけじゃなく、水平方向の衝撃をもうまくコントロールできるかもしれない』」
そうした体感的な手応えを確信に変えるため、ベルンハルドは、ビジネスパートナーとしてコンサルティング業界出身のカスパー・コペッティ(Caspar Coppetti)とダヴィド・アレマン(David Allemann)を招き、2010年にスイスのチューリッヒで「On(オン)」を正式に立ち上げた。
2. 「On」の哲学と製品づくり
2-1. “着地の柔らかさ”と“蹴り出しの推進力”の両立
Onシューズの最大の特徴は、空洞を持つクラウド(Cloud)構造だ。着地時には、やわらかく沈み込み、次の一歩を踏み出すときには、剛性を保ち、強い反発力を生み出す。それによりランナーが「まるで雲の上を走っているかのような感覚」と、「地面をしっかり蹴り出すパワー」の両立を目指した。
開発初期には、工場やエンジニアにも、「これは製造が難しい」、「量産は不可能では」と散々言われたが、ベルンハルドは、「不可能と言われると、やりたくなるんだ」とあくまで推し進め、クラウド構造を完成させたのだ。
2-2. 体験を重視したマーケティング戦略
Onは創業当初から、ただシューズを説明するだけでなく「実際に履いて走ってもらう」体験マーケティングを強く打ち出している。単に小売店でプレゼンをするのではなく、試走会やイベントを開き、その場で製品の性能を体感してもらうのだ。
「言葉で“これが最高だ”と伝えるのではなく、まず走ってもらう。そして自然に“何だこの着地感、推進力は?”と気づいてもらう方が早いんだ」
この戦略が当たり、シューズの性能をいち早く理解した専門店やコアなランナーたちが熱心に支持を広めていった。
3. アスリート支援とプロチーム「OAC」
3-1. 世界トップ選手とのパートナーシップ
Onは、トップレベルのアスリートが実際に求めるシューズを作るため、選手との二人三脚を重視してきた。創業初期には、トライアスロン界のオリンピックメダリストや名だたるプロランナーがOnを履き始め、実戦でのフィードバックを製品開発に還元した。
「僕自身がかつてエリートアスリートとして“こういうサポートがあったらいいのに”と感じたことを、すべてOnで実現したい」
ベルンハルドは、こう語り、選手契約に際しても単に資金提供だけを行うのではなく、栄養面やメンタルトレーニング、契約手続きや保険、税務などの周辺サポートも充実させている。
3-2. On Athletics Club (OAC)の立ち上げ
中でも象徴的なのが、On Athletics Club(OAC)だ。2019年前後にアメリカ・コロラド州ボルダーを拠点としたOAC USAを発足し、トラック&フィールドのエリート陣をサポート。オーストラリアの中距離ランナーや、スイス国籍を持ち難民経験をもつマラソン選手など、多国籍かつ多種目のランナーを受け入れている。
さらに、2023年には、若手選手育成にフォーカスしたOAC Europeを立ち上げた。アメリカとヨーロッパ、そして将来的には、アジアやアフリカへも広がる構想があり、地域や種目を超えて選手が行き来できる環境を整えようとしている。
4. ロジャー・フェデラーとの出会い
4-1. 思わぬ“逆オファー”とテニス界への進出
Onを語る上で外せないのが、テニスの世界的スター選手ロジャー・フェデラーとのパートナーシップだ。ブランドが無名に近かった頃、インスタグラムでOnのシューズを履くフェデラーの姿が目撃される。実は彼自身が履き心地を気に入り、On社にアプローチしてきたのだ。
「彼のほうから“何か一緒にできない?”と連絡が来たときは本当に驚いたよ。僕たちはフェデラーをスポンサーする予算なんてないと思っていたからね」
結果的にフェデラーは、出資者としてOnに参加し、シグニチャーモデルのテニスシューズ開発にも協力。ランニング分野だけでなく、テニスシーンにもテクノロジーを拡大し始めている。
5. 成長とIPO、そして未来へ
5-1. 目覚ましい成長と株式上場
2010年の創業からわずか数年で、Onは、ヨーロッパや北米を中心に急拡大。2021年には、ニューヨーク証券取引所で株式を上場し、約7億4,600万ドル(約746億円)を調達した。評価額は70億ドル(約7,000億円)を超えたとも報じられている。
「IPOによって得られる資金は、さらなる革新やアスリート支援に投資するための“燃料”。僕たちはまだまだ夢を追いかけたいからね」
上場後も、創業メンバーと主要投資家が議決権を多く保有するデュアルクラスを採用し、創業時からの理念をブレずに追求できる体制を維持している。
5-2. 持続可能性への取り組み
ベルンハルドは、プロ選手時代から「シューズ産業の環境負荷」に懸念を抱いていた。大量生産・大量廃棄の構造を変えたいとの思いから、リサイクル可能な素材で製造し、シューズを買い取り・再利用する仕組み「Cyclon」プログラムなどを始動。
製品のパフォーマンス向上だけでなく、サステナビリティ(持続可能性)を軸にしたイノベーションを積極的に進めることで、他ブランドへの波及効果も狙っている。
5-3. 「人々を動かし、健康にする」ビジョン
Onは、ランニングだけでなく、テニスや日常生活にも使えるシューズ・アパレルを展開し始めている。ベルンハルドは、「動きを通じて人々の心を解き放つ(ignite the human spirit through movement)」を掲げ、さらに幅広いスポーツ領域やライフスタイルへアプローチを拡大していくつもりだ。
「人は本来、座っているのではなく動くようにできている。歩くこと、走ること、スポーツを楽しむことで心も体も健康になれる。僕らはその可能性をもっと広げたい」
Onが、ここまで急成長を遂げた要因には、「トップアスリートが実感する革新的な履き心地」、「体験を軸にしたマーケティング」、「多様な選手への総合的サポート」、「ロジャー・フェデラーの参加」というトピックが挙げられる。さらにサステナビリティへの注力や、地域・年齢・競技の垣根を超えたチームづくりによって、“世界中の人々に新たなランニングとスポーツの未来”を提示し続けている。
ベルンハルド本人は、「これはまだ始まり」と語り、さらなる可能性を信じてやまない。夢の続きを描きながら、新たな製品やスポーツカルチャーをつくりだすOnの姿から、今後も目が離せないだろう。
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