「父の設計図」から生まれた起業家 ― Fireworks AI創業者Lin Qiao氏、PyTorchの申し子が語る野望
投資系ポッドキャスト「20VC」に、Fireworks AI創業者兼CEOのLin Qiao(リン・チャオ)氏が出演した。番組ホストは開口一番、Qiao氏との出会いをこう振り返っている。「これは私の10年の投資家キャリアの中で、最も簡単な投資判断の一つだった」。わずか15分間の面談の後、1000万ドルの小切手を切ったというエピソードから対談は始まる。しかもこの投資家が師事するEric Vishria氏には「ビッグテック出身の役員には投資しない」という自らのルールがあったにもかかわらず、そのルールを破ってまで賭けた相手がQiao氏だった。今回はこの対談をもとに、AIインフラの世界で今もっとも注目される企業の一つ、Fireworks AIの素顔に迫る。
1. 「父の設計図」を眺めていた少女が見た未来
Index Venturesが公開したインタビューによれば、Qiao氏は、中国で機械エンジニアの父を持つ家庭に育った。父親は、大型貨物船を設計する仕事をしており、幼いQiao氏は、父のオフィスで何時間もブループリントを眺め、一本一本の線がどんな問題を解決しているのかを追いかけていたという。数十年の時を経て、Qiao氏は、父とは全く異なる媒体で、同じことをしている。父が物理的な経済を動かすインフラを作ったのに対し、Qiao氏は知能そのものを動かすインフラを作っているのだ。
2. 48歳での起業、そして「人を学ぶ」ための7年間
Qiao氏は、復旦大学で計算機科学の学士・修士を取得後、カリフォルニア大学サンタバーバラ校で博士号を取得。IBMでの研究職を皮切りに、LinkedInでデータ基盤の実務を経験した。2015年時点ですでに起業のアイデア、事業計画、創業メンバー候補まで揃っていたというが、同氏は、「製品や技術だけでなく、人をまとめるスキルセットが自分に足りない」と判断し、あえて起業を先送りした。学びの場として選んだのが、当時シリコンバレーで急成長していたMetaだった。「密かに1〜2年で学んで辞めるつもりだった」というが、結局7年間在籍することになる。実際にFireworksを創業したのは48歳の時。スタートアップ業界が10代・20代の起業を持て囃す風潮の中で、決して「早い」デビューではなかった。
3. Metaで築いた金字塔 ― PyTorchと「1日5兆推論」
Qiao氏がMetaで率いたのは、単なる一プロジェクトではない。Sequoia Capitalのポッドキャストでの証言によれば、同氏は、300人超のエンジニアを率い、AIフレームワーク「PyTorch」の開発・展開を主導した。当初は、既存フレームワークをPyTorchに置き換えるだけの「6カ月プロジェクト」だと考えていたというが、実際にはMeta全社のAIワークロードを支えるために推論・訓練スタック全体をゼロから作り直す必要があり、完成までに5年を要したという。Qiao氏が、Metaを去る頃、このシステムは1日5兆回を超える推論を処理する規模にまで成長していた。この経験こそが、Fireworksの存在意義そのものになっている。「Fireworksの使命は、業界全体の市場投入までの時間を劇的に短縮すること。5年かかっていたものを、5週間、いや5日間にまで圧縮する」とQiao氏は語っている。
4. 「炎(Fire)を灯すトーチ(Torch)」― 7人のPyTorch出身者が選んだ社名
2022年後半、Qiao氏は、Meta出身のPyTorchコア開発者7人とともにFireworks AIをカリフォルニア州レッドウッドシティで創業した。共同創業者には、PyTorchのコアメンテナーであるDmytro Dzhulgakov氏、ランキングシステム向けPyTorch開発を率いたDmytro Ivchenko氏、PyTorchコンパイラを手がけたJames Reed氏、Google Vertex AIを率いたChenyu Zhao氏、Meta広告インフラを統括したBenny Chen氏らが名を連ねる。7人の共同創業者のうち5人がPyTorchのコア開発に直接関わっていたという事実は、社名の由来にも表れている。「PyTorch」の「Torch(たいまつ)」には、既に炎(Fire)が宿っている ― その炎をより多くの人に届けるという思いを込め、社名を「Fireworks」としたとQiao氏自身がLinkedIn上で説明している。
5. 「専門特化型知能」という賭け ― Anthropicとの哲学の違い
5-1. データの大半は「使われていない」
Qiao氏は、Fireworksが、推論(インファレンス)領域に賭けた理由をこう説明する。汎用知能モデルの学習データの大半は、公開インターネットとラベル付きデータに由来するが、実際に存在する言葉のデータ全体で見れば、その大部分は、企業内にプライベートな形でロックされており、外部に共有されることは決してないという。この未活用のデータを引き出す「専門特化型知能」こそが、これからのフロンティアになるというのがQiao氏の一貫した信念だ。
5-2. 「我々はロボットの軍隊になる」
番組ホストが、Anthropicのエンタープライズ戦略との違いを問うと、Qiao氏は、踏み込んだ答えを返した。「Anthropicは、完全にAGIを信じる企業だと私は見ている」。同氏の定義では、AGIとは、「あらゆる問題を最善の形で解決できる単一のモデル」であり、それが実現するなら専門特化は不要になるはずだという。しかし、実際には、地域ごとに異なる価値観や政策、生活様式が存在する「多様化した世界」に我々は生きている。もし将来が一社の定める単一の基準・嗜好によって支配されるなら、「我々は、自分自身をロボットの軍隊に変えてしまう。それは私にとって、とても気の滅入ることだ」とQiao氏は語る。人間を人間たらしめる創造性や、新しい生き方を追求する欲求は、決してコピーできないというのが同氏の根本的な信念だ。
5-3. Jensen Huang氏との即興の対話
この考えを裏付けるエピソードとして、Qiao氏は、NVIDIAのJensen Huang氏との対話を紹介した。GTCの基調講演後、Huang氏は録画が始まっていることに気づかないまま自然と会話を始めたという。その中でHuang氏はこう語ったそうだ。「専門特化しない汎用企業など存在しない。もし存在しなければ、その企業が存在する理由がない」。Qiao氏は、この言葉を「一見当たり前に聞こえるが、深く考えると実に的を射ている」と評し、あらゆる企業が独自の設計思想・顧客理解・データを土台に存在意義を持っているという原則の裏付けとして捉えている。
6. オープンモデルという「大きな賭け」
Fireworksは、創業時、独自モデルを構築するか、オープンモデルの上に構築するかを巡って共同創業者間で激しい議論を交わしたという。当時オープンモデルは、まだ黎明期にあり、その方向に賭けることは「大きな賭け」だった。それでも、同社は、オープン性が利用者に「モデルの重みへの完全な支配権」を与えるという原則に賭けた。この賭けは、オープンモデルとクローズドモデルの双方が過去2年で品質のしきい値を超えたことで報われたとQiao氏は振り返る。現在Fireworks自身も、採用活動の候補者ソーシングや社内の財務プロセス、コーディング業務の一部にオープンモデルを活用しているという。
中国製オープンモデルへの国家安全保障上の懸念についても議論が及んだ。Qiao氏は、モデルがオープンであれクローズドであれ、提供企業は自らの判断や嗜好を学習プロセスに反映させる以上、企業は自社のガードレールを自ら構築すべきだと指摘する。同氏は将来、少数の大規模AGIモデルが支配する世界ではなく、用途ごとに数百万の専門特化モデルが存在する世界になるとの見方を示した。
7. Cursorとの二人三脚 ― 「単月数百万ドル」から1000倍成長
Qiao氏は、コーディングツールのCursorとの提携についても具体的な数字を挙げて語った。提携当初、Cursorの売上は一桁台の数百万ドル規模だったが、それはわずか2年前のことで、その後1000倍に成長したという。両社は強化学習ベースの大規模なポストトレーニングにおいて、モデルの重みを調整する「トレーナー」と、それを合成・実環境でテストする「ロールアウト」の工程を分離し、世界5〜6のデータセンターリージョンにまたがる完全分散型システムを構築した。ハイパースケーラーが通常、数万〜数十万個のチップをInfiniBandで密結合させて処理する工程を、Fireworksはあえて分散させることで、コストを抑えながら鮮度の高いモデルの重みを各リージョンに届ける独自の技術を編み出したという。
8. トークンコストは今後3年で10分の1、利用量は100倍に
Qiao氏は現在、Fireworksが1日あたり40兆トークン以上を処理しており、その大半が既製モデルではなくカスタマイズされたモデル由来だと明かした。来年末までにこのトークン処理量は20倍から100倍に増加する可能性があるという。同氏は、供給制約下にあるインフラコストが今後低下することで、今後3年間でトークンコストが10分の1になり、この10倍のコスト削減が利用量の100倍増加を促すとの見通しを示した。ただし、トークン単価だけで比較するのは適切ではなく、モデルによって出力の冗長性が異なるため、タスクごとの「トークン経済性」で評価すべきだとも付け加えている。
9. 粗利益率30〜40%は「新常態」ではない
同社の粗利益率が従来型SaaS企業の80%水準と比べて30〜40%程度である点について、Qiao氏は、これを「新常態」ではなく、ハイパーグロース期における意図的な選択だと説明した。「粗利益率の最適化は、成長速度を犠牲にする制約条件になりうる」というのが同氏の持論だ。ただし「アプリケーション層には絶対に進出しない」という方針は明確にしている一方、データセンター層への進出については「常にテーブルの上にある」選択肢だとし、タイミングの問題だと述べている。
10. チップは作らない、しかしデータセンターは検討する
OpenAI、Anthropic、Meta、DeepSeekなど主要プレイヤーが軒並み自社チップ開発に動く中、Qiao氏は明確に一線を引く。「チップを作ることが極めて難しいと分かっているからだ」。Metaが5年以上かけて自社チップMTIAを開発してきた例を挙げつつ、ワークロードが十分に成熟し安定した企業だけが、その投資判断を正当化できると指摘した。AIモデルのカスタマイズは依然として極めて動的なワークロードであり、Fireworksとしては現時点でチップという「後戻りの効かない」投資には踏み込まない考えを示している。
12. 「マーケティングを後回しにした」経営の反省
対談終盤のクイックファイアラウンドでは、率直な反省も語られた。過去1年で最も考えを変えたことを問われたQiao氏は「どれだけ速く成長するか」だと答え、以前は組織の急拡大による俊敏性の喪失を強く懸念していたと明かした。また、これまでの経営で「後回しにして後悔していること」として、「マーケティング」を即答している。同社は創業当初、製品がすべてを物語ると信じ、顧客との協働や製品市場適合の検証に全リソースを注ぎ込み、マーケティングにはほとんど時間を割いてこなかったという。今ではその考えを改め、マーケティングとは「宣伝」ではなく「教育」であり「明確さ」を届けることだと捉え直しているとした。
12. George Hu氏の招聘 ― 「あなたにはまだ早い」から始まった関係
Salesforce元プレジデントのGeorge Hu氏をプレジデントとして迎え入れた経緯も印象的だ。Qiao氏は1年前にHu氏と初めて会った際、当時従業員50人ほどだった自社について「あなたにはまだ我々は小さすぎる」と正直に伝えたという。それでも「何らかの形で一緒に仕事がしたい」と申し出て、Hu氏は幹部採用の面接支援などで関わり続けた。会社が急成長を続ける中で両者の関係は深まり、正式にプレジデントとして参画するに至ったという。現在Fireworksの従業員数は200人。Qiao氏はHu氏について「経験豊富でありながら、想定に頼らず好奇心旺盛」という、一見矛盾する資質を併せ持つ人物だと評している。
