「エンジニアがコードを書かない会社」——2026年、AIファースト企業の構築論
Open Doorの共同創業者であり、現在は、保険テックスタートアップ「With Coverage」を率いるJD Rossが、AIを軸にした会社づくりの現在地を語った。エンジニアリングの変質、SaaS市場の再編、そして「発明の時代」という楽観論——2026年のスタートアップ構築の実態を整理する。
1. With Coverageとは何か——保険ブローカーをAIで置き換える
1-1. 狙う市場の規模
With Coverageは、企業向け保険の販売を担う従来型の保険ブローカーをAIと専門チームで代替するサービスだ。一般賠償責任、製品リコール、サイバー保険、役員賠償責任(D&O)など企業向け保険全般を対象とする。
世界の保険取引額は、年間数兆ドル規模に上り、そのうちブローカーが得る手数料は10〜15%、つまり、200〜4,000億ドルに相当するという。「保険の外側から攻めるのではなく、より優れた保険ブローカーになることで攻めている」とRossは述べた。
1-2. Open Doorとの違い——「既存の枠組みを改善する」戦略
Rossは、起業の方法論として「既存のフレームワークを大きく変えず、その中で大幅に優れた体験を提供する」アプローチを重視する。Open Doorは、不動産売買のデジタル化という新しい概念の普及に苦労したが、With Coverageは、「保険ブローカーという既存の概念はそのまま使い、中身だけを大幅に改善する」ことで摩擦を減らしている。
顧客であるCFOやGC(法務責任者)はすでに保険の重要性を理解しており、「何が分からないかが分かっている」状態にある。この「分からないことがあると知っている領域」への専門的サポートが、With Coverageの価値提案の核心だ。
1-3. 成長の現在地
現在の顧客数は、700社超で、Chomps、Bombas、Eight Sleepなどの消費者ブランドを皮切りに、ホスピタリティ、建設、テクノロジーなど複数の業種に展開を広げている。投資家には、Sequoiaとキースラボイ(Khosla Ventures)が名を連ねる。「過去2年間、成長しながら黒字を維持している数少ない会社の一つだと思う」とRossは述べた。
2. AIがエンジニアリングを変えた——「コードを書かない」チームの実態
2-1. 全員がエージェントを管理する時代
With Coverageのエンジニアリングチームの現状は象徴的だ。「今、フルタイムのエンジニアで自分でコードを書いている人は一人もいない。全員がCodex、Claude Code、Cursorを通じて作業している」とRossは述べた。
エンジニアリングリードのColeは、常時6つのAIエージェントを並列稼働させ、異なるプロジェクトに取り組ませているという。Linearでチケットを起票すると自動的に開発環境が立ち上がり、解決策を試み、レビュー用のPRを生成するまでの一連のフローが自動化されている。
2-2. ソフトウェア開発コストの「漸近的ゼロ」
Rossは、ソフトウェア開発コストが漸近的にゼロへと向かっていると表現した。この変化がもたらすのは開発者の不要化ではなく、「作れるものの量と速度の爆発的拡大」だ。
「以前は10万ドルかけて作りたかった機能が2万ドルで作れるようになった。だから、エンジニアを減らすのではなく、10倍の機能を作りたいと思っている」と述べた。これはジェヴォンズのパラドックスと同じ原理で、コストが下がるほど需要が拡大するという逆説だ。
2-3. プロダクト・エンジニアリング・デザインの役割変容
従来の製品開発の3つの役割——「プロダクト(なぜ作るか)」「デザイン(何を作るか)」「エンジニアリング(どう作るか)」——は今も概念として存在するが、そのループの性質が変わりつつある。
「ライターだったのが、エディターになった感覚」とRossは表現する。仮説を立てて構築して学ぶサイクルが加速するだけでなく、「会社全体の誰もが自分の必要なものを伝え、それをAIの自己学習ループに入力し、何を作るべきかを判断していく方向に向かっている」という。
3. SaaS市場の再編——「バーベル型」崩壊の予兆
3-1. 大手AIラボがSaaSを狙う
Rossは、大手AIラボ(Anthropic、OpenAI、Google)が高付加価値のSaaS領域を自ら攻略しにいくという見方を示した。「トークンがどこで多く使われているかを見て、その領域を攻める。Googleがメッセージアプリを飲み込んだのと同じ構図だ」という論点だ。
この見方は「低価格帯SaaSが危ない」という通説を超えて、「低端と高付加価値の両方が狙われる」バーベル型のリスク構造を示唆する。
3-2. 中間層の消滅と「5年後の大学生」
中間に位置するSaaS企業は今後コモディティ化するという見方だ。さらに5年後の視点として、「今大学生の子が建設会社に入って、使っているソフトウェアを見たとき、『これ自分のニーズに合っていない、自分でもっと良いものを1日で作れる』と気づく。そのSaaS企業は価値を失う」と述べた。
3-3. With Coverageが狙う「モート」
こうした環境の中でWith Coverageが差別化の源泉とするのは、「知らないことを知っている領域への深い専門性」だ。CFOやGCは、保険が重要であることは理解しているが、専門知識はない。この「わかっている人間が必要な非自明な問題」こそが、大手AIラボが簡単には攻略しにくい領域だとRossは考えている。
4. AIが生む新リスク——スパムとなりすましの時代
4-1. コミュニケーションチャネルの崩壊懸念
Rossと対談相手が共有した懸念の一つが、AI生成コンテンツによるスパムの爆発的増加だ。「ElevenLabsが出した音声エージェントが人間そっくりで、声のトーンにも適応する。全員がこれを使ったなりすまし詐欺をやり始める」という見通しだ。
自分の声で家族に電話をかけてくる詐欺への対策として、家族間での「合言葉」を用意しているというエピソードも紹介された。
4-2. 信頼のチェーンとしての紹介モデル
スパム問題への現実的な解として浮かぶのは、「友人の紹介」という旧来の信頼構造だ。With Coverageのビジネスの90%が、リファラル経由という事実は、AIスパム時代においてむしろ優位性になりうる。「ダブルオプトイン」や「既知の人からの紹介でなければ届かない受信箱」という仕組みが、今後のコミュニケーションインフラの方向性になるとRossは見ている。
5. 若い世代へのメッセージ——「発明の時代」の再来
5-1. 経験者と新人が同じ出発点に立つ
Rossはキャリアを通じて2度目の「発明の時代」を体感していると述べた。最初はスマートフォン黎明期のAdapar創業時で、既存のパラダイムがなくモバイル上の「プル・トゥ・リフレッシュ」すらまだ発明されていなかった時代だ。
「今、また同じことが起きている。AIによって、長年の経験者も、これからキャリアを始める人も、同じスタートラインに立っている。全てが新しい。これほど大きな産業を、ゼロから創出できるチャンスは10〜15年ぶりだ」とRossは語った。
5-2. 変化の中での普遍的な基盤
急速な変化の中で何を子どもに教えるかという問いには、「良い価値観を持つこと、他者との関係に投資すること、好奇心を持ち続けること、健康であること——基本的なことが難しいほど大切」と述べた。複雑な世界ほど、シンプルな土台が重要だという逆説だ。
5-3. 「AIが全ての人にコンシェルジュをもたらす」
かつては富裕層だけが持てた「すぐに電話できる専門家のリスト」——弁護士、会計士、各種専門家——が、AIによって誰でも持てる時代になりつつある。「それが最大の楽観の根拠だ」とRossは締めくくった。
まとめ
JD Rossのインタビューが示すのは、AIが単に業務を効率化するツールではなく、「会社の作り方そのものを変える」という構造的な転換だ。エンジニアがコードを書かずにエージェントを管理し、開発コストが漸近的にゼロへ向かう環境では、何を作るかよりも「誰のどんな問題を解くか」という問いが一層重要になる。SaaSの中間層が圧迫される一方で、深い専門性と信頼関係が差別化の源泉になるという構図は、今後の投資判断においても参考になる視点だ。

