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傘を持って迎えにいく。【雨恋3.】

雨はな、嫌いじゃないんだよ。
雨が降っていれば、
傘を持って婆さんを迎えにいけるから。
婆さんが漬物屋での仕事から帰ってくる頃を
見計らって、迎えにいく。
ボクみたいな頼りない爺さんでも
役に立ってる気がするんだ。

目がよう見えなくなってからは
雨の匂いを頼りに歩くんだけれども、
それもだいぶ板についてきたわけで。
匂いというものは
いろんなことを教えてくれる。
畑の脇に差し掛かれば湿った土の匂いがするし、
商店街のアーケードを歩く時に
八百屋の店先の葉物の匂いがしてきたら、
そろそろ右へ曲がって駅へ出る、とか。

駅の改札口に立って婆さんを待っている間、
ボクは雨と会話をしてるんだ。
降りすぎて電車を遅らせるなよとか、
婆さんの足元をあんまり煩わせるなよとか、
大抵は文句ばかりでな。
雨は知ってか知らずか、ただまっすぐにさあさあと
駅舎の屋根を叩きよる。

改札口が賑やかになって、
学校の生徒さんの笑い声やら
疲れた親父さん方のワイシャツの匂いやらが
ドッと吐き出されてくると、
婆さんももうすぐ帰ってくるということだ。
婆さんの足音はすぐに分かる。
長年馴染んだ音は、
人混みのなかでもボクにはちゃんとわかる。
傘を持ったボクを見つけた時の、
婆さんの足音が好きなんだ。
ずるずる引きずる重たい足取りに、
急に少女みたいな、
ぱたぱたした音が加わるんだよ。
それで、ああ、ボクのこと見つけたのかって。
慌てなくたっていい、
あとはもう二人のあばら屋に帰るだけなんだから。
でもな、その道すがらがまた、いいのさ。

「あなた、今日は和菓子屋さんで
餡蜜を買って帰りましょ」
「そんな贅沢しなくてもいい」
「でも、ほら、今日くらいは」
今日はお給料日なのよって婆さんが
嬉しそうに言うものだから。
ボクたちは並んで傘をさして、
駅から家へ行くのとは反対の方へ歩いて行った。
通りが違うと、街の匂いも変わる。
そこに住む人や建物や空気は別ものだからだ。
ボクには見えない雨の街並みを婆さんと歩くと、
若い頃を思い出す。
不思議なもんだ。
「餡蜜、あるといいですね」
「そうだな」

結局、和菓子屋の餡蜜はひとつしかなかった。
夕方の五時を過ぎても
まだたっぷり菓子が残っているような店ではないのだから、仕方のないことだ。
「ひとつでも買いましょう。
あなた、食べてくださいね」
「お前が稼いできた金で買うんだろうが。
お前が食べればいい」
「では、ふたりで分けましょうね。
一緒にあまいの食べましょう。
でも、さくらんぼはわたしがいただきますよ」
あたりの空気が
輪を描くようにやわらかくふるえて、
婆さんが微笑むのがわかった。
もちろんボクの目はなんにも映しやしないのだけれど、洞穴みたいなこの目では見えなくても、
笑った顔を心で見る瞬間がたまにあるようだ。

「餡蜜のあとは、濃いお茶がいいですね」
「そうだな」
ボクに話しかけながら、
いつのまにか婆さんは車道側を歩き、
ボクに歩道を譲っていた。
車が水たまりを蹴散らす、
シャーっという音が近づいてくる。
思わずボクは杖を持つ方の手で婆さんをかばう。
「お前は内側を歩きなさい」
「大丈夫ですよ」
「雨の日は足元が危ないから。
いいからこっちへきなさい」
「はいはい」
婆さんが微笑んでいる。
返事をしたくせに、
婆さんはまだ車道側を行くのだから。
困ったもんだ。


突然大きな雷鳴が轟いた。
それがあんまり近くて
地面が揺れたものだから、
思わず声をあげてしゃがみこんだ。
すっかり夜の匂いが満ちた通りに、
嫌な静けさが広がった。
できるだけ早く帰ったほうがいい。
「雷さんが暴れてる。さあ、早く帰ろう」
立ち上がり踏み出したボクの足に何かが当たり、
よろめいた。
その拍子に杖を離してしまった。
手探りで杖を見つけ、
とっさに婆さんを掴もうとしたボクの手は
空を切った。
婆さんがいない。

「婆さん、どうした」
身を屈めてあたりへ手を伸ばす。
婆さんがこの手を握り返すのを待つのだけれど、
その感覚がちっともしない。
悪いことの起きた匂いがあたりに漂った。
ボクは大きな声で婆さんを呼んだ。
「婆さん、どこにいる」
返事はない。
杖を小刻みに動かすと、
中身の詰まった重さのある物に当たった。
カシャカシャというビニール袋と
プラスチックの器のようだ。
餡蜜だ。
雨が餡蜜の容器を強く叩いて、
甲高い音を立てていた。

餡蜜の袋のそばに、婆さんが倒れていた。
慌てて婆さんの体に触れる。
「婆さん、どうした。転んだのか、なあ」
婆さんの濡れた手をつかみ、引きあげる。
力無い婆さんの手はボクの手をすり抜け、
だらりと垂れて水たまりの中に落ちた。
「婆さん」
婆さんの頬を体を、
冷たい雨が幕みたいに覆っていく。
雨はじわじわと婆さんをボクから隠そうとする。
「婆さん」
「婆さん」
雷は何度も轟いて、ボクの声を飲み込んだ。
陽だまりみたいないつもの婆さんの匂いが、
激しい雨にかき消されていった。


雨は嫌いじゃなかった。
傘を持って婆さんを迎えにいけたから。
だが今はもう、胸を締め付ける雨の日が
ただ、恨めしい。

今夜も雨が降っている。
雨音は強くなるばかりだ。
雨は何もかもを
跡形もなく流していってしまおうとするんだ。
雨の匂いに嫌気がさして、雨戸をきつく閉ざした。

婆さんの笑った顔はどこだ。
こんなに雨の降る日には、
婆さんをどこへ迎えに行けばいいのやら、
ボクは途方に暮れている。



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