行くなよ。【雨恋2.】
あのさ。
岩田にだけ、教えるね。
わたし、推しと会うんだよ。
美沙の突然の打ち明け話に、まるで興味がないふりをしながら放課後の机に突っ伏している俺。
「なんだよそれ」
いかにも退屈そうに欠伸までしたりなんかして、俺は美沙が切り出すのを待った。
「推しがね、会おうよってメッセージくれたの」
「お前がずっと追っかけてたバンドのボーカルの
鷺宮ケンジ?」
「そう」
鷺宮のバンドはインディーズながらすごく人気がある。来週の音楽番組への出演予告が、テレビで繰り返し流れていた。
「鷺宮ケンジだよ?すごくない?」
「たしかに。すげーわ」
テレビに出るような有名人が、今目の前にいるクラスメイトの美沙に声をかけてくるというミラクルに、俺の頭はショート寸前。
「どういうキッカケ?」
「インスタ。わたしのDMの画像みたんだって」
美沙は一瞬悪魔っぽい顔をして、笑った。いかにもやわらかそうな白い頬がぷりっと盛り上がった。
甘ったるいリップクリームの匂いが俺の鼻をかすめ、思わずくしゃみをした。
「ねえ、どうしよう。会ったら何話せばいい?」
「知らねえよそんなの」
「緊張して顔も見らんないかも」
「じゃあ行くのやめれば」
「何言ってんの、こんなチャンス二度とないよ。
これをキャンセルしたらもう絶対会えないよ」
「相手は有名人だろ。
他の女にも声かけてるんじゃないの」
さすがに美沙は言葉につまって黙り込み、形のいいピンク色の爪の先を噛んだ。
「たった一度の思い出でもいいんだ。
たった一度でも最高の思い出をもらえるなら、
何も無いより全然いいよ。
わたし、お婆ちゃんになっても、その思い出をちゅうちゅう吸いながら生きていけると思うの」
長い髪を人差し指に巻きつける美沙のクセ。
植物の蔓みたいにくるくると螺旋を描く髪は、
美沙が指を放すとさらりとほどけて風に揺れた。
俺は鷺宮ケンジの顔を思い浮かべた。いかにも軽薄そうな男。チャラい。チャラすぎる。
「いつ会うんだよ」
「今週の土曜日」
「会ってどうするんだよ」
「わかんない」
「こんにちは。はじめまして。まずはお友達からよろしくお願いします。お茶でも飲んで話しましょう、なんてことあるかよ」
「岩田はケンジのことを何も知らないでしょ。そんな風に言わないで。ケンジは絶対ファン想いの、良い人に決まってる」
「はあ、そうですかね」
ファン想いの良い人が、インスタで見かけた可愛い女子高校生にメッセージを送ったりするだろうか。
すっかり鷺宮の魔法にかかってしまった美沙は、
潤んだ瞳を俺に向けた。
いや、俺を見てるんじゃない。
俺の向こう側にあるときめきの瞬間の夢を見ているんだ。
俺はなぜだか痛む胸に、そっと手を当てた。
・
美沙と鷺宮が会うことになった土曜日は、ひどい雨だった。
たまたま用事があって新宿へ行ったら、ファッションビルの入り口で雨宿りする美沙をみかけた。
あくまでも偶然。
決して様子を見にきたわけじゃない。
誓ってもいい、とまでは言わないけれど。
俺は人混みに紛れて美沙を観察した。
柄にもなく赤いミニのワンピースを着た美沙は、
陸上部の練習でフィールドを走っている時とは
違う顔をしていた。化粧のせいだろうか。
やまない雨を見上げる美沙が髪をかきあげると親に内緒で開けたというピアスの穴に、金色の蝶がとまっているのが見えた。
目の前をせわしなく通り過ぎる人のなかに鷺宮の姿を見つけようと、美沙の目は絶えずきょろきょろしていた。
美沙の雪肌は高まる気持ちを映したように赤みがさしてきて、俺はそんな美沙をまっすぐ見ていられなくて、思わず目を伏せた。
激しい雨音が美沙の心臓の鼓動も、俺のため息も隠す。
ビルの壁にかかる大時計が九時を告げた。
あれから二時間経っても鷺宮は現れない。雨で立ち往生していた人の顔が全て入れ替わっても、美沙だけは永遠みたいにそこに立ち続けていた。
雨は止む気配もなく、美沙の瞳から少しずつ星がこぼれ落ち、煌めきが消えていった。
やっぱり鷺宮は来ないんだ。
どうせからかわれていたのだろう。面白半分で女子高生を誘い出したりして、たちの悪い奴だ。なぜ美沙だけがそれに気づかないのか。
俺は偶然をよそおって美沙の方へ歩いていった。
「よお」
不意打ちを喰らった美沙は三秒だけ泣きそうな顔をしたけれど、すぐにおちゃらけて舌を出した。
「なんで岩田がここにいるのよ」
美沙はひとつため息をついて、ショーウィンドウにもたれて座り込んだ。
チョコレートの包みを美沙に向かって放る。キャッチした美沙はぼそりと
「これ、わたしの好きなやつ」
と呟いた。
それから乱暴にフィルムを破り、ひとくち齧った。
「チョコ食ったら帰るぞ」
美沙は大人しく頷いた。
珍しいこともあるもんだ。
俺たちは黙ったまま並んで雨を見ていた。
「わたし、ケンジの素顔なんて本当は知りたくないのかも。裏側は見たくないんだ、きっと」
「ん」
「ライブやネットで見せてくれるケンジのオモテだけ見ていられればそれでいいんだ、ってことに
いま気づいた。ケンジは憧れ。現実世界には
いない人なんだ」
「別にそいつが悪いわけじゃなくても、だいたい幻滅する。良いこと言って輝いてるとこしかいつも見てないから」
「そうなの」
「お前だけをっ!愛してるぜーーっ!だもんな」
美沙がやっと笑ってくれた。
その時。
夜の中から背の高い男が速足に美沙に近づいてきて声をかけた。
「美沙ちゃん?」
男は黒いパーカーを頭からすっぽりかぶっているから、顔は見えない。パーカーのふちからくるくるパーマの金髪がのぞいている。細身の黒いパンツが長い脚にぴったりとはりついていて、それがよけいに男をスリムに見せていた。
鷺宮だ。
鷺宮が、きた。
美沙はといえば、口を両手で覆い隠して、悲鳴をあげそうになるのを必死にこらえていた。
「待たせてごめんね。疲れた?大丈夫?」
鷺宮は長身をふたつに折るようにして美沙に顔を近づけ、瞳を覗き込む。
こくりと頷く美沙は、見たことのない女の顔をした。
「ここじゃ目立つから、移動しない?
ハイアット予約してあるからそこで話そう」
鷺宮が美沙の肩に手をまわす。
美沙が体を硬くしたのが俺にもわかった。
二人が歩いて行く。
美沙の傘を鷺宮が差し、ふたりでひとつの傘のなかにいる。俺の立ち入ることのできないふたりの世界が、傘の中に出来ている。
「ところでさっきから僕たちの後ろをずっとついてきてる男の子がいるんだけど。彼、君の知り合い?」
鷺宮が美沙の耳元で囁く。
美沙は前を向いたまま頷いた。
「ただのクラスメイトです」
「そう。でも彼は君のことが好きなんだね」
美沙が振り向いて俺を見た。目と目が合った。
「こんな雨のなか、君が心配でここまで来たくせに、行くなって君に言えないんだね。純情なんだ」
鷺宮はくすくす笑って俺をみた。
微笑ましく子どもを見つめる大人の目をして。
俺は傘の柄をぐっと握りしめた。バキッと折れてしまいそうなくらいのちからで。
それから、その場に反響する大声で言った。
「美沙!」
ふたりが立ち止まる。
「そいつ、鷺宮ケンジには気をつけろよ。
エッチの時に変なクセがあるらしいから!」
雨宿りをしていた街の人たちは、俺と鷺宮と美沙をかわるがわる見た。鷺宮の存在に気づいた人たちが、小声でざわめき始める。
少しずつ近寄る人の輪。
スマホを取り出して鷺宮の写真を撮る人。
鷺宮は、おいおいというように天を仰ぎ、美沙の肩に置いていた手を離した。美沙は俺の方を見ようともしない。
俺はチョコレートの包み紙を丸めてふたりの足元に投げつけた。濡れたタイルの上に転がる紙を、美沙は見つめている。
美沙の目はうさぎみたいに赤かった。俺がふたりのデートを駄目にした怒りなのか。それとも、鷺宮の『本当』を知ってしまいそうで怖かったからなのか。
どちらにしても俺は美沙の白くてほっそりしたさかなのような手を掴んで、連れて帰ることはできないだろう。
「岩田のばか」
誰にも聞こえないような震えるつぶやきが雨音をぬって届いた。美沙の声だけは俺の耳は絶対に捉える。
岩田のばか。
俺のばか。
行くなよって、言えよ。俺。
なにもできないままの俺は、不穏な人混みを裂いて遠ざかるふたつの背中をずっとずっと睨んでいる。
意気地なしを罵る雨が俺をずぶ濡れにしても、俺はその場から一歩も動かずに、雨の夜に消えゆく影を目で追いかけていたのだ。
了
