【恐怖郵便No:8931】ある夏の近道
薄暗いスタジオに、蝋燭の炎がゆらめいている。
司会の男の手には、一通の封筒があった。膝のうえには、まだ幼さの残る少年が、ちょこんと座っている。
「今夜もね、『恐怖郵便』のなかから、一通を選んできたよ」
司会の男は、膝のうえの少年に、古びた封筒をかざしてみせた。
「全国のみんなが、本当に体験した怖い話。それが、この番組に、こうして届くんだ」
男は、封を、ゆっくりと切った。
中から出てきたのは、一枚の便箋と――赤い和服の切れ端のような、布。
「……おや。今夜のは、少し、変わっているね」
少年が、こくりとうなずく。
「今夜、読むのはこの一通。ある男の子がね、小学三年生の、夏に体験した話なんだ」

これは、私が小学三年生の夏に体験した、本当にあった話です。
作り話だと思ってもらってかまいません。ただ――もし最後まで読んで、あなたの背中がぞくりとしたなら。
それは、たぶん、私のせいではありません。
夏休みのことでした。
幼稚園のころからの友達の家に、遊びに行くことになっていました。歩いて十五分ほどの、いつもの道。何度も通った、なんてことのない道を通るはずでした。
その日に限って、私は近道を選んでしまった。
家と家のあいだに一本、細い道がありました。両側からブロック塀が迫っていて、昼だというのに薄暗い。人の姿はなく、遠くで鳴く蝉の声だけが、やけに大きく聞こえていました。
近道を通れば、五分は早く着く。それだけの理由でした。
塀の影がアスファルトを黒く染めていて、自分の足音がぺたぺたと妙にはっきり返ってくる。すれ違う人もいない。あとから思えば、あんなに人通りのない道を、なぜあの日だけ選んだのか。
いまでもわかりません。
細道のちょうど真ん中あたりに来たときでした。
背中に、何かの気配を感じたのです。
うなじのあたりが、すっと冷たくなりました。
誰かが、後ろにいる。そんな感じでした。夏の午後だというのに、腕にぶつぶつと鳥肌が立っていく。
私は思いきって振り返りました。
――誰もいない。
細い道が、まっすぐ後ろに伸びているだけ。人影も、動物も、なんにもない。気のせいだ、と自分に言い聞かせて、また歩きだそうとしました。
でも、消えないんです。あの、見られている感じが。
一歩、また一歩と進むほどに、背中の冷たさは濃くなっていく。もう一度、今度はゆっくり振り返りました。
やっぱり、何もいない。
ほっとして、詰めていた息を吐きました。子どもながらに、自分で自分を怖がらせているんだと、笑おうとしたくらいです。
安心したのも、束の間でした。
なんの気なしに、私は視線を上へあげたのです。
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塀のうえ、私の背丈のずっと高いところ。青い空を背にして――
赤い和服を着た、おかっぱ頭の人形。糸で吊るされているわけでも、誰かが持っているわけでもない。ただ、そこに、浮いていました。
そして、前髪の下の二つの目が、まっすぐ、私を見おろしていました。
その口の端が。――笑ったのです。
体が動きませんでした。声も出ない。
ただ、頭のなかに、ひとつの言葉だけが浮かんだのを覚えています。
――捕まったら、連れていかれる。
理由なんてありません。でも、確信していました。あれに捕まったら、私はもう、家に帰れなくなる。
人形の口が、ゆっくりと、開きはじめました。
気づいたときには、走りだしていました。
残りは五分ほどの道のり。ランドセルもリュックもなにも持っていなかったのが幸いでした。腕を振って、地面を蹴って、生まれてはじめてというくらい、全力で走った。
後ろは、一度も見ませんでした。見たら、終わりだと思ったから。
塀と塀のあいだを抜け、見慣れた通りに飛び出したときも、足はゆるめませんでした。友達の家は、すぐそこのアパートの四階。
そのアパートが見えたとき、ようやく助かると思いました。
アパートの階段を、私は二段飛ばしで駆けあがりました。一段、また二段。早く、早く、四階まで。心臓が喉から飛び出しそうでした。
それが、いけなかった。
三階と四階のあいだ。飛ばした足が、段を踏み違えたのです。
体が、宙に浮きました。あの人形と同じように、一瞬だけ。
そして、右手から――落ちました。
かたい音がして、私は階段の踊り場に叩きつけられました。
ふつうなら、泣くほど痛かったはずです。でも、そのときは不思議と、痛みをまったく感じませんでした。
いま思えば、命の危険を感じた興奮というのでしょうか。頭の芯がしびれたみたいになっていて、痛いより先に、早く上へ行かなくちゃ、という気持ちだけがありました。
右手はだらんとして、小指が変な方を向いていました。爪が一枚、めくれて血がにじんでいる。それを見ても、まだ痛くない。
私は立ちあがりました。もう、二段飛ばしはできません。一段、一段、手すりにすがって、のぼりました。
そのとき、ふと下を見てしまったのです。
階段の下、一階の暗がりに――赤いものが、立っていました。
首だけを、ぐるりと上に向けて。四階の私を、じっと見あげている。
震える左手で、ピンポンを押しました。
ピンポン。
ドアが開いて、友達が顔を出し、私を見て固まりました。血だらけの右手。真っ青な顔。友達は、すぐに家の奥へ向かって「お母さん!」と叫んでくれました。
「どうしたの、その手!」
友達のお母さんの声で、ようやく、私は少しだけ泣きそうになりました。
すぐに病院へ連れていってもらいました。
診断は、右手の小指の骨折。それと、小指の爪が剥がれていました。あれだけの高さから落ちたのに、それだけで済んだのは、幸運だったと思います。
治療が終わって、友達のお母さんが家まで送ってくれました。
母には、あったことを全部話しました。近道を通ったこと。背中に気配を感じたこと。宙に浮いていた、赤い和服の日本人形のこと。
母は、私の包帯を巻いた手をさすりながら、静かに言いました。
「あの細道はね、人通りが少ないわりに交通事故が多いの。だから、通っちゃだめよ」
はじめて聞く話でした。あの道が、そんな場所だったなんて。でも、人形のことは――信じてもらえませんでした。
「そんなの、いるわけないでしょう。怪我して、混乱してるだけよ」
母は優しく笑って、そう言いました。
私は、それ以上なにも言いませんでした。言っても無駄だと、子どもながらにわかっていたから。
ただ、布団のなかで、私はひとつのことに気づいてしまったのです。
あの日本人形を――私は、どこかで見たことがある。
赤い和服。おかっぱの黒髪。うつむきかげんの、あの顔。考えて、考えて、記憶の底からそれは浮かびあがってきました。
父方の祖父の家。あそこに飾ってある人形に、そっくりだったのです。
このことも、私は母には言いませんでした。どうせ、信じてくれない。それに――口に出したら、本当になってしまう気がして。
その機会は、しばらくして訪れました。
祖父の家に行くことになったのです。
正直、半分は行きたくありませんでした。あの人形が、本当にそこにいたら。考えるだけで、背筋が寒くなる。
でも残りの半分は、確かめたいという気持ちでした。
あれは、本当にあの人形だったのか。それとも、母の言うとおり、私の見まちがいだったのか。確かめてやる。そう思って、私は祖父の家の玄関をくぐりました。
祖父の家には、人形をたくさん飾った戸棚があります。
ガラス戸のなかに、市松人形や、日本人形が、ずらりと並んでいる。子どものころから、あの戸棚の前を通るのは、なんとなく苦手でした。たくさんの目に、見られているような気がして。
私は、こわごわと戸棚の前に立ちました。
――いました。
赤い和服。おかっぱの黒髪。あの日、宙に浮いていた人形が、ガラスの向こうに、何食わぬ顔で立っていたのです。
その瞬間、視線を感じました。
戸棚のなかから、まっすぐに。腕に、ぶわっと鳥肌が立ちました。あの細道で感じたのと、同じ寒気。まちがいない。これだ。
「お母さん……!」
私は、母を呼びました。
「お母さん、あのとき宙に浮いてた人形が、いる」
母は、私の必死な顔を見て、今度は笑いませんでした。
母方の祖母は、霊感がある人でした。
若いころ、そういう修行をしたことがあるらしい、と聞いたことがあります。母は、その祖母に相談してくれました。
祖母の答えは、はっきりしていました。
あの人形を、お寺に預けなさい。きちんと供養して、お祓いをしてもらいなさい、と。
大人たちが動いてくれて、人形はお寺に納められました。お祓いも、してもらったと聞きました。
これで、終わったのだと思っていました。
もう、あの視線を感じることはない。あの寒気も、鳥肌も、二度と来ない。子どもだった私は、そう信じて、少しずつあの夏のことを忘れていきました。
――冬になりました。
冬休みに、また祖父の家に行く機会がありました。もう人形はいないのだからと、今度はなんの不安もなく、私は家にあがりました。
こたつに入って、テレビを見ていました。
みかんの皮をむいて、あたたかいこたつに足を入れて。外は雪が降りそうなくらい寒くて、部屋のなかだけが、ぬくぬくとしていました。
平和な、冬の午後でした。
そのときです。
背中に――何ものかの、気配がしました。
うなじが、すっと冷たくなる。あの、夏の細道で感じたのと、似ている。
テレビの画面が暗い場面になった時、画面がうっすら、鏡のように部屋を映すと、二つの目だけが宙に浮かんでいました。
まだ、いる。
蝋燭の火が、ぱち、と小さく爆ぜた。
司会の男は、ゆっくりと息を吐き、膝のうえの少年を見おろした。少年は、両手でぎゅっと自分の膝をつかんだまま、じっと固まっている。
「……怖かったね」
少年は、こくこくと、何度もうなずいた。
「あのね。この男の子は、いま、大人になってね。ちゃんと元気にしているそうだよ」
男が、やわらかく笑う。少年の肩から、ふっと力が抜けた。
「よかった……」
「うん。よかった。――でもね」
男は、カメラのほうへ、静かに顔を戻した。蝋燭の炎が、その横顔を赤く照らす。
「その人形はね。お寺で供養されたあと、行方がわからなくなったんだ。誰も、どこへ行ったか、知らない」
少年が、ぴくりと肩を震わせる。
「もしかしたらね。いまごろは、どこかの家に。……いや」
男は、ゆっくりと、こちら見た。
「――あなたの、すぐ後ろに」
男は、すっと居住まいを正した。
「――こういう時は、これだね」
蝋燭の炎が、揺れる。男は、低く、はっきりと唱えた。
「イワコデジマ。イワコデジマ。……ほん怖、π切り」
スタジオの子供たちが、ひとつ、またひとつと声を継いでいく。
「皆(かい)」
「祷(とう)」
「胸(きょー)」
「部(ぶ)」
男が、右手を刀のように立て、宙を斬った。
「弱気、退散――!」
「「「喝ッ!」」」
声が、闇を打つ。蝋燭の火が、いっせいに消えた。
真っ暗になったスタジオに、少年の、小さな笑い声が残る。
「……あはは。もう、怖くないね」
「……ねえ。ほんとうに、いなくなった?」
司会の男は、答えなかった。
かわりに、暗闇のどこかで、ぺた、ぺた、と。裸足で床を踏むような、小さな足音が――少年の、すぐ後ろへ、近づいていく。
少年が、ゆっくりと、後ろを振り返る。
その瞬間。
あなたは、どうして――いま、自分の後ろが、気になったのだろう。
読んでいる、あなたの。
すぐ、後ろが。
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――振り返るな
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