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【ちび創作大賞】『こころの在処』|小説「他人の海」

📙カワムラさんの【ちび創作大賞】に参加しています。

📗選択テーマはカケルンさんの『こころの在処』

▼本編


📖【短編小説】他人の海



第一章 借り物の鼓動


夜中の三時に、知らない海の匂いで目が覚める。

潮と、濡れた岩と、少しだけ錆びた鉄のにおい。東京のマンションの寝室に、そんなものがあるはずがない。

朝倉遙は胸に手を当てた。手のひらの下で、心臓が走っていた。誰かに追われているみたいに。

半年前、遙はこの心臓を他人からもらった。拡張型心筋症。三年間、移植の順番を待って、ようやく巡ってきた鼓動だった。手術のあとしばらくは、ただ眠るだけの日々で、夢なんて見なかった。

海があらわれるようになったのは、ここ一月ほどのことだ。はじめは、ぼやけた景色だった。それが夜ごと、輪郭を濃くしていく。

灰色の海。切り立った岩場。遠くに白い灯台。そして、赤い橋。朱色の欄干が、夕日を吸って燃えるように光っている。行ったことのない場所なのに、足の裏がその岩の冷たさを覚えている。

「ストレスですよ」

主治医の谷口はそう言って笑った。カルテから目を上げもしない。

「移植後は精神的に不安定になる方も多い。睡眠導入剤、出しておきましょうか」

遙は首を横に振った。薬の話をしに来たのではなかった。

「先生。移植を受けた人が、提供してくれた人の……記憶みたいなものを感じることって、ありますか」

谷口のペンが止まった。ほんの一瞬。それから、いつもの穏やかな顔で彼は言った。

「細胞記憶、という言葉がネットには出回っていますがね。医学的な根拠はありません」

根拠はない。否定でもなかった。

その夜も、遙は海にいた。誰かの声がした。今度は、はっきりと。

「──やめてくれ」

若い男の声だった。誰かに向かって、必死に伸ばされる手。そして、落ちる感覚。胃の底が持ち上がる、あの浮遊。

遙は自分の悲鳴で目を覚ました。喉が、塩辛かった。


第二章 記憶の海図


自分の身体が、少しずつ他人になっていく。

そう気づいたのは、コンビニのレジ前だった。遙は無意識に、塩鮭のおにぎりと、するめと、塩昆布をかごに入れていた。もともと薄味の人間だった。醤油さえほとんど使わなかったのに。

箸も、いつのまにか左手で持っていた。

「先生、私、左利きでしたっけ」

冗談めかして谷口に聞くと、彼は「利き手が変わることはありませんよ」と真顔で返した。でも変わっていた。ペンを右手に持つと、指がためらう。

翻訳の仕事も手につかなくなり、締め切りを二本落とした。二十年、他人の言葉を日本語に移し替えて生きてきた。

人の想いを預かって、こぼさないように運ぶ。それが遙の仕事だった。なのにいま、預かってもいない誰かの記憶が、勝手に胸に流れ込んでくる。

夜ごとの海が、少しずつ像を結んでいく。

灯台の根元に、赤い橋。橋の向こうに、小さな漁港。そして、あの声。「やめてくれ」。誰かを引き止めようとする手。もみ合う、二つの気配。振りほどかれる。落ちる。

──ただの事故じゃない。誰かがあの橋にいた。

そう思った瞬間、指先が冷たくなった。遙は自分の胸を押さえた。この心臓の持ち主は、あの夜、あそこで何を見たのだろう。

移植コーディネーターに電話をかけた。ドナーの情報は、原則として一切開示できません。事務的な声が、丁寧に壁を築いた。年齢も、性別も、亡くなった経緯も。何ひとつ。

「せめて、事故だったのか、病気だったのかだけでも」

「お答えできません」

受話器を置いて、遙は窓の外を見た。東京の空には、海がない。

けれど彼女は、行き先を知っている気がした。あの朱色の橋が、どこかに実在するなら。

パソコンに「灯台 朱色の橋 漁港」と打ち込む。指は、もう迷わなかった。


第三章 開示されない名前


一枚の写真が、遙の呼吸を止めた。

紀伊半島の南、小さな漁師町。個人ブログに貼られた古い一枚。白い灯台の根元に、朱色の橋が架かっていた。夢で見たままの角度で。

遙はその日のうちに新幹線と特急を乗り継いだ。名古屋で乗り換え、海沿いを南下する。窓の外の景色が、記憶と重なっていく。トンネルを抜けるたびに、胸の鼓動が速くなった。まるでこの心臓が、帰り道を覚えているみたいに。

駅に降りると、潮の匂いがした。あの夜の匂いだった。

町は小さかった。民宿がふたつ、食堂がひとつ。灯台まで歩いて三十分。朱色の橋は、思ったより古びていた。欄干の塗装が剥げ、下では波が岩を舐めている。

遙は橋の真ん中で立ち止まった。

ここだ。この感覚を、心臓が覚えている。手すりに触れると、指先が震えた。「やめてくれ」という声が、耳の奥で反響する。誰かがここで、この海に。

「あんた、観光かい」

振り向くと、日に焼けた老人が立っていた。漁師らしい。遙が言葉に詰まると、老人は橋の下を顎で示した。

「そこでな、半年前、若いのが死んだよ。事故だっていう話だ」

事故。その言葉に、老人の声がわずかに沈んだのを遙は聞き逃さなかった。

「その方、お名前は」

老人はしばらく黙って、それから海を見た。

「要って子だ。かなめ。……あんた、なんでそんなこと聞くの」

遙は答えられなかった。ただ、胸の奥で、借り物の心臓がひとつ、大きく跳ねた。

要。その名前を、この心臓は、たしかに知っていた。


第四章 潮騒の町


要という名前を口にすると、町の人々は一様に口を閉ざした。

民宿の主人は「事故だよ、事故」と、聞いてもいないのに二度繰り返した。まるで、そう自分に言い聞かせるように。

手がかりをくれたのは、食堂の女将だった。味噌汁をよそいながら、遙が要の名を出すと、手を止めて目を伏せた。

「あの子には、姉さんがいてね。和佳さん。両親を早くに亡くして、姉弟ふたりで育ったんよ。要は東京で働いてたけど、亡くなる少し前に、こっちへ戻ってきててね」

女将は、そこまで言って、はっと口をつぐんだ。余計なことを話した、とでもいうように。

「今は町外れの家に、和佳さんが一人きり。……もう、その話はよしとくれ」

遙は一枚ずつ、断片を拾い集めた。

要は二十四歳。左利きで、するめが好きだった。半年前の秋、あの朱色の橋から落ちて死んだ。半年前――遙の胸が締めつけられた。自分の移植と、同じ頃だった。日付を数えるまでもなく、身体が知っていた。この心臓が動きはじめた日と、要がこの世を去った日は、きっと同じなのだと。

「事故」と町は言う。だが遙の記憶は、あの橋にもう一人いたことを告げている。引き止めようとする手。振りほどかれる感触。

これは、いったい何なのか。

その夜、民宿の玄関先に、置き手紙が一枚あった。

『これ以上、詮索するな。要のことは、そっとしておいてくれ』

震える字だった。怒りではなく、懇願のような。

狭い町だ。よそ者が要のことを嗅ぎ回っている。その噂は、夕方には隅々まで届いていたのだろう。遙は、昼間の女将の声を思い出した。町外れに一人きりだという、要の姉。

この、すがるような字は――あの人のものではないか。

遙は手紙を握りしめた。翌朝、町外れの家へ向かった。


第五章 沈黙する町


和佳は、遙が名乗る前から、何かを察しているようだった。

玄関に立った遙を見て、痩せた女は静かに目を伏せた。三十を少し過ぎたくらいか。

「東京から来た方ですね。要のことを、聞いて回っているという」

「勝手なことをして、すみません」

「上がってください。ここじゃ、人目につくから」

家の中は、時間が止まっていた。仏壇に、若い男の写真。笑っている。左手に釣り竿を持って。遙の心臓が、また跳ねた。この顔を、知っている気がした。

「弟は、事故で死にました」和佳は湯呑みを置いた。「橋から落ちて。それだけです」

「本当に、事故だったんですか」

和佳の手が止まった。長い沈黙。壁の時計の音だけが、部屋を刻んだ。

「あなたに、何が分かるんですか」

声が尖った。遙は言葉を選べなかった。あの橋のこと。誰かを引き止める手のこと。ぜんぶ話せば、頭のおかしい女だと思われる。でも、ここまで来て引き返せなかった。

「私……あの橋で、誰かが必死に、誰かを引き止めようとする声を、聞いた気がするんです」

和佳の顔から、色が引いた。湯呑みが畳に転がった。

「帰って。お願いだから、帰ってください」

その反応が、すべてを語っていた。事故ではない。この人は、知っている。そして、それを固く胸に閉じている。遙は、確信ではなく、ただ胸の奥の鼓動に押されるように、言葉を継いだ。

「和佳さん。あなたは、あの夜、そこにいたんですね」

和佳は、泣き出しそうな顔で、遙を見た。そして、絞り出すように言った。

「……ええ。いました。私が、あの子を殺したんです」


第六章 反転する真実


「私が、殺した」

和佳の言葉の意味を、遙は取り違えていた。しばらくの間は。

「夫を、病気で亡くしたのが二年前でした」和佳は畳を見つめたまま話し始めた。「子どもはいません。この町に、身内はもう、要だけ。でも要は東京で、自分の暮らしがある。私はだんだん、何のために生きているのか、分からなくなって」

言葉が、途切れがちになる。

「あの夜、私、橋に行ったんです。もう、終わりにしようと思って。欄干を、越えようとした」

遙の息が止まった。あの浮遊感。落ちる感覚。あれは。

「そこへ、要が来たんです。虫の知らせだったのか、あの子、あの日にかぎって東京から帰ってきていて。私が家にいないのに気づいて、探しに。橋の上で、私を見つけて──『やめてくれ』って、叫んだ」

「やめてくれ」。あの声。加害者に向けた叫びではなかった。海へ身を投げようとする姉を、止めようとした声だった。

「要が、後ろから私を抱きとめて、欄干から引き剥がそうとしたんです。私、暴れました。放してって。もみ合って……私を、内側へ押し戻した、その反動で」

和佳の肩が、大きく震えた。

「あの子が、外側へ。私、手を伸ばした。届かなかった。要は、落ちながら、私を見て、笑ったんです。……姉ちゃん、生きろよって」

引き止める手。振りほどかれる感触。突き飛ばすように押し戻された、あの反動。遙の記憶が見せていたものが、すべて裏返って、意味を結んだ。あれは、加害の光景ではなかった。姉の命を、自分の命と引き換えに掬い上げた、その一部始終だった。

「岩に頭を打って。すぐに引き上げて、私、要の名前を呼び続けました。あの子、一度だけ、目を開けて。『事故に……してくれ。姉ちゃんが飛ぼうとしたなんて、誰にも言うな。俺が足を滑らせた。それでいい』って。私の手を、握って。……それきり、二度と、目を開けませんでした」

遙は、両手で口を覆った。

「病院で、脳死だと。あの子、免許証の裏に、臓器提供のサインをしていたんです。昔から、そういう子でした。だから心臓は、まだ動けるうちに、どこかの誰かのもとへ。その日のうちに。どこの誰かも、知らされないまま」

その日のうちに。半年前の、あの日。すべてが、一本の線でつながった。

町の沈黙の理由も、ようやく解けた。この小さな町は、要の願いを守っていた。事故ということにして、身を投げようとした和佳を、そっとしておくために。

遙の目から、涙がこぼれた。自分のものではないはずの記憶が、いま、意味を持った。この心臓が見せていたのは、告発ではなかった。姉に「生きろ」と手渡した、ひとりの弟の、最後の景色だったのだ。

遙は、胸に手を当てた。鼓動は、静かだった。もう、走っていなかった。

言うべきだろうか。それとも、黙って帰るべきか。膝の上で、遙の手が固く握られていた。


第七章 返せない贈り物


翌朝、遙は和佳を、あの朱色の橋へ誘った。

海は凪いでいた。昨夜の雨が嘘のように、灯台が白く光っている。二人は欄干に並んで、波を見下ろした。和佳の顔は、まだこわばっていた。この場所に立つことが、どれほどの痛みか、遙にも分かった。

言うつもりは、なかった。ドナーのことを明かせば、和佳を過去へ縛りつけてしまう。そう思って、ここまで来た。記憶が教えてくれた要の想いだけを、そっと置いて帰るつもりだった。

「要さんは、あの夜のこと、後悔なんてしていないと思います」

遙は、選んだ言葉を、ゆっくりと差し出した。二十年、他人の想いを預かって運んできた。声にならなかった想いを、届けるべき人へ。これが、自分にできる翻訳なのだと思った。

「落ちていくときも、怖くなかった。ただ、あなたが生きてくれるなら、それでよかった。そう思っていた気がするんです」

和佳が、こちらを見た。

「なんで……なんで、あなたにそんなことが」

その問いに、遙は答えられなかった。ごまかそうとした。けれど、和佳の目から、こらえていたものが一気に溢れた。声を上げて、その場に崩れるように泣いた。半年間、たった一人で抱えてきたものが、堰を切っていた。

「私のせいで、あの子は。私が、あんなところに行かなければ。私さえ、いなければ──」

その言葉を聞いた瞬間、遙のなかで、何かが決まった。

これを黙って持ち帰るのは、翻訳ではない。想いを、こぼしてしまうことだ。要が命をかけて姉に渡そうとしたものを、自分が途中で握りつぶすことに等しい。

「和佳さん」

遙は、和佳の前に膝をついた。そして、震える手を取り、自分の胸へ導いた。

「触れてみてください」

和佳の手のひらが、遙の左胸に触れる。とくん、とくん、と、確かな鼓動が返る。

「これは……あなたの弟さんの心臓です」

和佳が、息を呑んだ。目を見開いたまま、動けない。

「半年前、私は心臓の移植を受けました。あの日、あの町から運ばれてきた心臓を。規則では、誰のものか、知るはずのないものでした。でも、この子が――要さんが、私をここまで連れてきたんです。あの海を、あの橋を、あなたを、ずっと見せ続けて」

和佳の手のひらの下で、鼓動が脈を打つ。とくん、とくん。まるで応えるように。

「あの子は、ちゃんと言ったんです。生きろって。そして、いまも――こうして、生きています」

和佳は、遙の胸に手を当てたまま、崩れ落ちるように泣いた。今度は、悔恨の涙ではなかった。長いあいだ触れられなかったものに、ようやく指先が届いた人の涙だった。

「かなめ……」

彼女は、その名を何度も呼んだ。鼓動に向かって。まるで、返事を聞くように。

風が吹いた。潮の匂いが、二人を包む。遙は、和佳がひとしきり泣くのを、ただ待った。

やがて和佳は、涙の残る顔で、小さく笑った。要と同じ、切れ長の目を細めて。

「あの子、ばかなんです。昔から。自分のことは、いつも後回しで」

その声は、もう震えていなかった。生きろ、と言われた人の声だった。

遙は東京へ帰る電車の中で、胸に手を当てた。とくん、とくん、と、鼓動が返ってくる。この心臓が誰のものか、なんて問いは、もう意味をなさなかった。

心は、臓器に宿るのではない。誰かを想い、誰かに想われた、その関係のなかにこそ、宿るのだ。

要は、姉に生きてほしくて死んだ。その願いが、遙のなかを通り抜けて、和佳へと届いた。言葉を移し替えるように。想いを、こぼさず運ぶように。

借り物だと思っていた鼓動は、いつのまにか、遙自身のものになっていた。そして同時に、これからもずっと、要のものでもあるのだろう。返せない贈り物として、二人ぶんの想いを乗せて、彼女のなかで脈を打ち続ける。

窓の外を、海が流れていく。そこはもう、他人の海ではなかった。


「了」


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