still. 思想|知識は、更新を止めた瞬間から、過去になる
社会保険の会話をしている途中で「厚労省」と言った瞬間、あれ「厚生省だったかな」と一瞬迷ってしまった話です。
社会保険制度
私が初めて意識したのは30年以上も前でその頃はまだ「厚生省」でした。
厚生省とは
かつて医療、保健、社会保障、社会福祉などの行政を担当していた日本の行政機関です。2001年(平成13年)の省庁再編により労働省と統合され、現在は厚生労働省となっています。
何気なくインプットされた名詞。
使う機会が出て来た最近、
正確に言えば、自分がそう言っていることにすら、気づいていませんでした。
誰かに指摘されて、気づいたのです。
厚生省が厚生労働省へ再編されたのは、もうずいぶん前のことです。
それだけの時間が経っているにもかかわらず、ひとつの古い名前が、訂正されることなく、自分の中で息をし続けていました。
不思議なのは、これが単に「知らなかった」という話ではないことです。
むしろ、ちゃんと知っていたはずなのです。
ニュースで耳にし、資料で読み、勉強時にも覚えたはずでした。
自分の中に「事実」としてしまい込んだ。
けれど、問題はそのあとにありました。
しまい込まれた知識は、よほどのきっかけがない限り、もう一度取り出して確かめられることがありません。
世の中がどれだけ変わっても、自分の中の地図だけが、その日のまま止まっていることがあります。
これは、固有名詞だけの話ではないように思います。
制度のこと。
組織のこと。
人との距離感のこと。
働き方や、役割や、当たり前だと思っていた考え方。
一度「こういうものだ」と理解したつもりになると、その理解は、自分の中でひとり歩きを始めます。
現実のほうは少しずつ姿を変えているのに、こちらの地図が自動で更新されるとは限りません。
地図を開き、いま見えている景色と照らし合わせる。
その手間を、自分から取りにいく必要があるのだと思います。
厄介なのは、止まった知識ほど、気づきにくいことです。
明らかに知らないことであれば、人は調べます。
検索もします。
誰かに尋ねることもできます。
けれど、「もう知っている」と思っていることは、確かめる対象にすらなりません。
間違っているかもしれない、古くなっているかもしれない、という疑いそのものが立ち上がってこないからです。
「厚生省」という言葉も、指摘されるまでは、私の中で何の違和感もなく動いていたのだと思います。
考えてみると、制度や仕組みの説明にも、似たようなことがあるのかもしれません。
「対応しています」
「利用できます」
「制度としてはあります」
そうした案内は、上から降りてきます。
けれど、それが現場でどう実装されているのか。
実際に、必要な人へどう伝わっているのか。
案内された内容と、現場で起きていることのあいだに、どれほどの差があるのか。
形になっているものは確認されても、
それが現場でどう伝わり、どこで止まっているのかまでは、見過ごされやすいものです。
案内と実態のあいだに生まれる小さな溝は、誰かが意識して埋めにいかない限り、自然には塞がりません。
そして、その小さな溝が積み重なると、いつのまにか「そういうもの」として扱われるようになります。
人も、組織も、制度も、放っておけば、止まったままの状態が初期設定になっていくのかもしれません。
動き続けるためには、ときどき現在地を確かめる必要があります。
それは、大げさなことではありません。
古い思い込みを誰かにそっと指摘されたとき、
「そうか、それはもう古かったのですね」
と、受け取れるかどうか。
その程度の小さな姿勢の中に、更新の入り口はあるのだと思います。
知識を更新し続けることよりも、
自分のどこが止まっているかに気づくことのほうが、
もしかしたら、ずっと難しいのかもしれません。
だから、ときどき地図を開く。
自分が見ているものは、いまの景色なのか。
それとも、いつかの時代にしまい込んだままの景色なのか。
その確認を怠った瞬間から、
知識は静かに、過去になっていくのだと思います。

