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障害がある私が「聲の形」が見れない理由

コンテンツ作り。

最近、自分でも企画者のようなことをする機会が増えてきた。
それに合わせて、コンテンツ制作や企画に関する本を読むようになった。

その中で印象に残った言葉がある。
「当たるコンテンツを作るコツは、“成功例9割、独自の戦略1割”」という考え方だ。

つまり、過去の成功事例を踏襲しながら、そこに自分なりの独自性を加えると、人の目に留まりやすくなるということ。

言い換えれば、まったく新しいものを作るよりも、“親しみのある革新”の方が受け入れられやすいのだ。

では、障害者発信の「成功例」って何だろう?

ぱっと思い浮かんだのが、『五体不満足』と『バリバラ』だった。特に『バリバラ』は、つい最近まで放送されていた番組だ。

しかし今年の3月、15年という歴史にひっそりと幕を閉じていた。

一時期は、感動ポルノに対抗する存在として注目され、日テレの『24時間テレビ』を皮肉ったことで大きな話題になった。

しかし、それは9年前の話。

それ以降はあまり語られることが少なくなった気がする。

少し調べてみると、近年は視聴率もなかなか取れていなかったらしい。


成功体験ではないけど、なぜ見られなかったを知る必要があるのではないか。私はそう思った。


……というか、まず障害のある自分自身が見ていなかった。
いや、正確に言えば、見る気が起きなかった。敬遠していたのだ。

その理由を考えてみた。
一つの答えは、こうだと思う。

「あまりに“正しすぎる”ものは、自分の黒い部分を浮き彫りにしてしまうから。」

「車椅子の人が、これだけ移動に苦労している」
「知的・精神障害への理解がまだまだ足りない」
「だから、助けてほしい」

――これらを総括すれば、メッセージは「弱者に対して手を差し伸べてあげましょう」というものになる。

もちろん、それはあまりにも正しい。
誰も反論できない。ぐうの音も出ない。

だからこそ、苦しいのだ。

それができない自分。
時間がない、身近に当事者がいない……そんな物理的な制約もある。

けれど本当は、精神的にその“正しさ”を受け止めきれない自分がいる。

心の奥にある差別意識や、「自分だって大変なんだ」という自己中心的な気持ち。

そうした“どろどろとした自分”が、正しさの光に照らされて、あらわになっていく気がするのだ。


自分は、『聲の形』を見ていない。
情けない話だけど、怖いのだ。
自分が目を背けてきた現実を、直視してしまいそうで。

あの物語は、普通級に聴覚障害の少女が転入してくるところから始まる。
その出来事をきっかけに、主人公やクラス全体の関係性が変化していく。

その変化の中には、嫉妬、嫌悪、罪悪感――さまざまなどろどろとした感情が渦巻く。

たった一人、障害のある子が加わるだけで。

自分が一般校にいた頃、教室の中で起こっていたこと。それが、もしかしたら自分の存在がきっかけだったのかもしれない。

……そう思うのが怖いのだ。

自分がいることで起こってしまった部分、そういった黒い部分を、見たくないのだ。


たぶん、障害のある当事者の話というのは、“人の黒い部分”を映し出す魔力のようなものを持っているのだと思う。

だからこそ、あまりにも“正しい”発信ばかりでは、届かないこともある。

必要なのは、人間臭さだ。

失敗もするし、大変だし、でも乗り越えたり、落ち込んだりもする。
そんな不完全な姿の中に、初めて共感が生まれるのではないか。

正しさの上から語るのではなく、
同じ目線で、同じ場所から語り合えるような関係づくり。

自分は、そんな発信をしていきたいと思う。

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