【短編小説】祭りの尻尾を掴む
僕の名前は竹内。特に変わったところのない、ごく普通の28歳...のはずだった。大学で哲学を専攻し、今は IT 企業で働いている。毎日コードを書きながら、プラトンの「洞窟の比喩」を思い出す日々。僕たちは本当の現実を見ているのだろうか、それとも影だけを追いかけているのだろうか。
夏祭りが終わった後の街を歩くのが好きだ。なぜって?さあ、それが分かれば苦労はしない。ただ、何となく心地いいのだ。それはまるで、お気に入りの靴下を履いているときのような安心感。あるいは、図書館で偶然見つけた面白い本を、誰にも邪魔されずに読めることが分かったときのようなワクワク感。そんな気分だ。
でも同時に、どこか切ない。祭りの賑わいが去った後の静寂は、まるで誰かを失った後の心の空虚さのようでもある。それは、日々の仕事に追われ、自分の夢を忘れかけている自分自身への空虚感なのかもしれない。大学時代に抱いていた「哲学で世界を変える」という大それた夢は、今や遠い記憶だ。
祭りの喧騒が遠のいた街に一歩踏み出すと、まず鼻をくすぐるのは線香花火の香り。そして耳に入ってくるのは...静寂。いや、完全な静寂ではない。どこかで誰かが「あー、楽しかった」とため息をついている。それは人間かもしれないし、提灯かもしれない。はたまた、今日一日頑張って働いた地面かもしれない。
ふと足元に目をやると、踏みつぶされた金魚すくいの袋が目に入った。中には水が残っている。そして...おや?小さな金魚が一匹、必死に泳いでいるではないか。
「やあ、こんばんは」と僕は金魚に話しかけた。返事はない。当たり前だ。金魚に「やあ、こんばんは」なんて返す余裕はないだろう。今はただ、生きるか死ぬかの瀬戸際なのだから。
「君は、今日一日をどう思う?」と僕は尋ねてみた。金魚は相変わらず黙々と泳いでいる。が、どうだろう。少し考えているようにも見える。
もし金魚が喋れたとしたら、こんなことを言うかもしれない。「人間さん、今日は大変な一日だったよ。朝からずっとすくわれる恐怖と戦っていたんだ。でも、最後の最後で逃げ切れた。ああ、でも今度は酸素が...それにしても、君は寂しそうだね。誰かを待っているの?それとも、何かから逃げているの?」
僕は驚いて金魚を見つめた。まさか、こんなところで心を見透かされるとは。そう、僕は何かから逃げているのかもしれない。毎日の仕事のストレス、将来への不安、そして...本当の自分自身から。
「君の言う通りだ」と僕は呟いた。「僕は逃げているんだ。でも、何から逃げているのかさえ、よく分からない。ニーチェは『深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだ』と言ったけど、僕の場合は深淵を直視する勇気さえないんだ」
慌てて金魚の入った袋を拾い上げ、近くの植え込みに置いた。「ごめんね、こんなところに放置して。きっと明日の朝には誰かが見つけてくれるよ。君は自由だ。僕よりずっと...」
金魚は黙ってうなずいたように見えた。いや、気のせいだろう。
金魚との奇妙な対話を終えた僕は、再び歩き出した。街灯の明かりが、まるで夜の海に浮かぶ光の魚のように揺らめいている。ふと、耳に聞き覚えのある歌が聞こえてきた。祭りの締めくくりに歌われる「祇園小唄」だ。でも、おかしい。祭りはとっくに終わったはずなのに。
声のする方へ足を向けると、そこには一台の山鉾が佇んでいた。明らかに片付け忘れられたものだ。山鉾の上では、小さな提灯が風に揺られながら歌っている。
「おや、人間さん。祭りはもう終わったよ」提灯が僕に話しかけてきた。驚くべきことに、僕はそれほど驚かなかった。金魚と会話した後では、何が起きても不思議ではない気がしていた。
「ああ、そうだね。でも君はまだ歌っているじゃないか」 「そりゃあそうさ。祭りが終わっても、祭りの心は終わらないからね」
提灯の言葉に、僕は思わずハッとした。そうか、祭りの心か。それは日常の中にある小さな喜び、忘れかけていた夢、大切にしたいものたち。そういったものの総称なのかもしれない。
「人間さん、君も一緒に歌わないかい?」提灯が誘ってくる。普段なら絶対に断るところだが、今夜の僕は違った。
「ああ、いいよ。でも僕、歌、下手なんだ」 「大丈夫さ。下手な歌こそ、心がこもっているんだからね。それに、ソクラテスだって『知らないことを知っている』のが賢者の始まりだって言ってたじゃないか」
僕は思わず噴き出した。まさか、提灯に哲学を説かれるとは。
そうして僕は、片付け忘れられた山鉾の上で、小さな提灯と一緒に「祇園小唄」を歌い始めた。声は確かに酷かった。でも不思議と、心が温かくなっていく。
歌い終わると、提灯が小さくため息をついた。「ありがとう、人間さん。さあ、もう行っていいよ。僕らはこれから片付けられるんだ」
僕は山鉾から降り、歩き出す。すると後ろから提灯の声が聞こえた。「そうそう、忘れちゃいけないよ。祭りの心を。それから、君の哲学の心も」
僕は振り返って手を振った。提灯も、風に揺られながら手を振り返してくれたように見えた。
家路につきながら、僕は考えた。明日からまた忙しい日々が始まる。でも、この祭りの夜に感じた何かを、どこかに置いていかないように気をつけよう。
そうだ。明日から、オフィスの机に小さな金魚鉾を置こう。そして毎日、ちょっとだけ祭りの心を思い出そう。それから、忘れかけていた哲学の心も。
僕は来た道を戻る。夜空を見上げると、星が微かに瞬いていた。まるで、僕の決意に小さくうなずいてくれているかのように。
(了)
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