短編小説 「夏への思い出」
夏の午後、蝉の声がぼやけるように響いていた。
校舎裏の旧体育館の影は、唯一涼しげな空気を保っていた。
その日、高校2年生の田島レンは、その影の中でじっと立っていた。手には白いハンカチ。汗を拭くでもなく、それをただ、じっと見つめていた。
その時、階段を降りてくる足音が聞こえた。
まるでそこに現れることが当然だったかのように、白石ユイが姿を現した。制服の襟を少し外し、首筋には汗が垂れている。髪はポニーテールにまとめられていた。視線は、レンの手元を見つめていた。
「それ、まだ持ってたんだ?」
ユイが言った。
レンは答えず、手の中のハンカチをくしゃりと握りしめた。
「返そうと思ってた。でも、渡せなくて」
ユイはにこりともせず、階段下のコンクリに腰をおろした。
「別に貸したつもりじゃなかったし。使ってくれてよかったよ」
「……ごめん」
その一言に、ユイは首をかしげる。
「なんで謝るの?」
「なんとなく、そういう気がして」
しばらく、蝉の声だけが空を裂くように響いていた。
「好きだったんでしょ」
唐突に、ユイが言った。
レンは息を飲んだ。
「なんで過去形?」
「ちがうの?」
ユイは空を見上げた。まぶしい空がまぶたを透かしていた。
「6月くらいに私、保健室に運ばれたことあったでしょ。あのとき、机の上にあった、ゲータレードを飲んだら、調子が悪くなったの。ちょっと変な臭いがしたの。インスリンみたいな、薬っぽいような……」
レンは一歩、足を引いた。
「……あれは」
「ううん、いいの」
ユイは手を差しだして制した。
「別に怒ってるわけじゃない。ただ、ずっと聞きたかっただけ。私のこと、好きだったんだよね?」
レンは黙っていた。
蝉の声の中に、心音が混ざって聞こえるようだった。
「だとしたら、なんであんなことしたの?」
ユイの声は、柔らかく、しかし真っ直ぐだった。
レンはゆっくりと白いハンカチを差し出した。
「……この中に、手紙が入ってる。あのときのゲータレードのことも、ぜんぶ書いてある。読んでくれたら、全部わかる」
ユイはそれを受け取った。しばらく何も言わず、布の端を指でなぞった。
「私はさ、好きな人には正直でいてもらいたいの。自分を偽ってまで人を好きなるなんて——バカでしょ?」
レンの手が震えた。
「それって、俺のこと——」
ユイは立ち上がり、ハンカチを握った手を制服のポケットにしまい込んだ。
「ありがとう。あのゲータレードは……ちょっとだけ怖かったけど、でも、ちゃんと私、生きてるし」
そう言って、ユイは笑った。
それは、どこまでも優しい笑顔だった。
ユイはスキップしながら去っていった。
レンが一人残された校舎裏。
強い陽射しが旧体育館の影をじわじわと消していく。
彼は、ハンカチを渡してしまった自分の手をじっと見つめた。
そして、ふとつぶやいた。
「好きな気持ちってのは……殺すより怖いこともあるんだな」
その声は、蝉の音にかき消され、夏の空に溶けていった。
数日後。
ユイの部屋。
机の上に置かれた白いハンカチ。
ユイがそっと開くと、一枚の紙が出てきた。
《あのゲータレードにはイソジンしか入れてない。ただ、俺のことを気にしてもらえるなら、それでよかった》
ユイは目を伏せた。
そして、机の引き出しから、別の小さな紙片を取り出す。
《ユイちゃん、いつも教室で飲んでるゲータレード、気をつけた方がいいよ。インスリンが入ってるから》
それは6月、匿名でユイの下駄箱に入れられた警告文だった。
ユイはそれをゆっくり破り、窓の外へ放った。
夏風が紙片をさらっていく。
「レンくん、やっぱり怖いのは——あいまいな気持ちだよ」
ユイは、自分の胸に手を当てて、そっと目を閉じた。
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着色料をたくさん使ったドーナツが食べたい。
テヘペロ。
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