Episode 076 「食べるんかーい」
前回のEpisode(Episode075参照)にて、オーストラリアの小学校における「いい加減」な話に触れた。
いい加減といえば、オーストラリアの小学校やハイスクールではスポーツデーというものがあり、日本で言うところの運動会にあたるものは一応存在するのだが日本のようにキッチリとした開会式があり、アナウンスとともに学年ごとに順番に各種目が行われて、という様な、ちゃんとした内容ではない行事が多く存在する。
ましてや、自分が小学生だった当時(90年代初期〜半ば)放課後やお昼休みに(運動会の為の)行進の練習をして、なんてことはオーストラリアに学校にいる生徒からすると先ずあり得ない。また、恐らくだが、仮に幾ら練習をしてもピシッと揃った行進などオーストラリアの小学生ができるとは到底思えない。ただ、ここで明確にしておきたいのは「では、日本の様にしっかりと練習に練習を重ね行進して・・・」が正しいのか?偉いのか?と言うと、別にそうとも全くもって思わない。

そもそも、あまりにも様々な国籍の子供達が一緒に机を並べているという状態である為、つまり考え方、価値観がお互いに違うのである。通っていたアデレードハイスクール(Episode022参照)には、ヨーロッパからはイタリア、ギリシャの生徒が多く、その他にもドイツや、フランスからきた生徒もいた。アジアからは、圧倒的に中国系、ベトナム、カンボジアが多かった。少数ではあったが、タイや、韓国の生徒もいた。また、中東からはレバノンなどの国の生徒もいた。
この様に、日本の学校では「普通」とされていること、例えば給食、遠足、運動会などはオーストラリアの学校では存在しない場合が多い。あまりにも色々な考え(国によって)が存在する為、何かをやろうとしても反対する者が出たり、宗教上の都合で(例えば行事などが)行えない、などなど、恐らく全ての意見を聞いていては何も決定しない為、最初から実施しない、という結論に至っているのではないかと個人的には感じている。
従って、スポーツデー(つまり日本でいうところの運動会)という日は存在するものの、そのスポーツデー自体そもそもいつ始まって、いつ終わっているのかもよくわからないまま1日が終わった印象がある。広い校庭(もちろん芝生)で様々な種目が適当に、それぞれ勝手に行われている、という印象だった。
何はともあれ、一言でいうならば、多くのモノやコトがオーストラリアではいい加減なのである。ただ、いい加減である事が常に“悪いこと”なのかと言うと、それはまた別軸の話になる。
つまり、しっかりと秩序を持って何かが行われているからと言って、そもそもその行為自体を行う必要性が無い場合なども多く存在するはずである。例えば、日本の小学校では(少なくとも自身が小学生だった90年代は)では全校生徒が「前へ倣え!」と軍隊の様に子供に整列をさせ、黙らせ、話を強制的に聞かせているが、そもそもそんな行為をする必要性があるのか、など、今になって強く思う。もちろん、そんな必要性は全く無い。子供は、被害者である。普通に一言「その場で、どうな体勢でも構いませんので少しの間お話を聞いてくれますか」で済む事なのである。
同じ体操着を来て、軍隊の様に整列させた生徒に向かって「重要なのは、個性を持って・・・」などを説く校長先生やら教頭先生やら。今考えると、素っ頓狂の極みとも思える。こういった大人たちだけが素っ頓狂の極みでいてもらうのは全く問題ないのだが、子供が被害に遭っている、という部分で大いに問題がある。そもそも、「先生」なんていう呼び方もおかしいのである。少なくともオーストラリア(併せて、他の英語圏の国や先進国では)では「先生」なんていう(これまた)、或いは軍事国家の様な呼び方は無い。「ミスター〇〇」(〇〇さん)や「ミセス/ミズ〇〇」(〇〇さん)と、普通に名前で呼ぶ。それが自然、というもとのである。
しかし、オーストラリアでの生活の中で、もちろん(いい加減さでいうと)本当に呆れてしまう事も多々あった。それは学校内でももちろんあったし、また日常生活をしている上でも多々あった。
あれは確か10年生(高校一年生)の時であっただろうか、とある授業が相当長引いてしまいランチタイムに食い込んでしまった。時間も時間であった為、もちろん生徒達はお腹を空かせていたが、みんな我慢をしていた。そんな中、女性の先生(ロシア人だったと記憶する)が自分の鞄からサンドイッチを取り出し、ムシャムシャと生徒の前で食べ始めたのだ。

生徒が呆気にとられていると、その先生は一言、「いやぁ、私お腹空いちゃって、我慢できなくて」。それを聞いた生徒が全員、「こっちも同じだよ!!」や「お前だけ食べるんか〜い!?」と確実に心の中でツッコミを入れたと思われる。この件に関しては人種を問わず全ての生徒がそう感じていたに違いない。
いい加減な事はまだまだある。例えばスーパー。果物が並んでいる棚からヒョイとぶどうを一つつまみ、味見をするのである。日本のスーパーでそんな事をしようものなら店員がすぐに飛んできて注意をされるだろう。寧ろ、日本ではそんな事をする人はそもそもいないと思われるが。
どうやら彼ら彼女ら(消費者)の言い訳としては、買う前に味見をして確かめたい、ということなのだろう。確かに、別にぶどうを一粒くらい食べても、そんなに怒る事でもない、という考え方もできなくはない。同じくスーパー関連だと、例えばペットボトルの飲み物をカゴに入れた人がレジで支払いを済ます前に店内でそのボトルを開けて飲み始めてしまうのである。
恐らく、彼らの見解としては、レジに行った際に中身が半分になっていようが金額はしっかりと支払うのだから文句はないだろう、ということなのだろう。確かに、理屈は通っている。しかし、ここでの論点は金額を支払う支払わないではなく、「喉が渇いた。我慢できないから支払い前だが飲んじゃえ」という、この自制する能力の低さである。

尚、支払いをする前に食べることを正式に問題無い事としてしまった場合、「証拠の残らない場合」が恐らく問題となってくる。つまり、今回のコーラの場合のように空になったペットボトルが残る場合は問題なくレジで支払いができるが、例えばパッケージングがないもの(例えば、りんご、などの果物)だったらどうなるのか、という話になってくる。兎にも角にも、恐らく正解は、レジを済ませるまで(もちろんだが)口にしない、である。
また、レジ打ちをしている店員がお客とよく会話をするのである。しかも、商品をスキャンするその手を止めてまで話しをしたりするのである。これはなかなかイライラした(特に急いでいる時などは)ものである。現在ではセルフレジなどがあるが、当時はその様なシステムはまだなかった。
尚、実際にこの状況が自分の身に起きた事もある。とあるお店(アーンデールショッピングセンターだったと記憶する)に、Green Day(グリーンデイ)というアメリカのバンドのアルバムを買いに行った。そのお店はCDショップではなく、大きなショッピングセンター内にある大型スーパー(確か、BIG Wというお店)であった。

Green Day(グリーンデイ)のWarning(ウォーニング)というアルバムが発売してすぐに購入したので、あれは2000年の事だ(尚、Green Dayは最高のパンクロックバンドである。3作目のアルバムのDookie(ドゥーキー)は1994年に発売され、なんと全世界で約1600万枚のアルバムセールスを記録したとか。このアルバムにおけるオススメの曲は何と言っても7曲目のBasket Case及び10曲目のWhen I come Aroundである。1997年に発売された5作目のアルバムのNimrod(ニムロッド)の一曲目のNice Guy Finish Last、3曲目のThe Grouch、4曲目のRedundant、7曲目のWorry Rock、17曲目のGood Riddance(Time Of Your Life)は完璧である)。


そのアルバムを手にしてレジに並んだ。自分の番になり、そのCDを店員であるレジのオーストラリア人とみられる女の子に渡すと、「このアルバム、私も持ってる!Green Day好きなのね、私も大好き。このアルバムだと特に○○曲目の○○という曲が最高に好き」と話し始めた。もちろん、実際に確認はしなかったが、順番を待っている後ろのお客さんはさぞかしイライラしたに違いない。因みにグリーンデイ(Green Day)のこのウォーニング(Warning)というアルバムでは個人的には特に、10曲目のWaiting及び11曲目のMinorityが特に好きである。約25年経った今でも、このアルバムはよく聴く。

店員のいい加減さでいうと、友達が体験した話だが、とあるアウトレットの靴屋で靴を購入した時の話を教えてくれた。彼はとあるお店で気に入った靴があったので片方だけ試着をし、その履き心地にも満足だったのでそのまま箱ごとレジに持って行った。しかし支払いを行う寸前で、箱に入っている靴のサイズが左右で違っている事に気が付いた。その旨を店員に指摘すると、店員は何かを確認する為に店の奥に行き、そして戻ってくるなり「どうやら他のお客さんも左右のサイズを間違えたまま購入してしまったらし」と彼に伝えた。
もちろん、左右のサイズが違うのであれば、当たり前だが購入はできない(と言うか、したくない)。したがって購入は諦める旨を伝えると、その店員は、「まぁ、左右のサイズが違っても、大丈夫よ、だってほら、夕方になると足もむくむしさ」と言われたそうだ。
あまりにもいい加減であり、また突っ込みどころがあまりにも多い発言である。真顔でこの発言をしている店員の姿が容易に想像できる。オーストラリアとは、この様に、日本では到底考えられない様な珍事が毎日の様に起こる、そんな悍ましい一面も持ち合わせた国なのである。少なくとも、住んでいた当時はそうだったが、まぁ、本質的な事が抜本的に変わっているとも思えないので、今でもきっとそうなのであろう。
ただ、重複するが、「いい加減」である事が常に悪なのか、というと、そうでも無い場合も少なく無い。と、年齢を重ねるに連れ、改めて感じ始めている今日この頃なのであった。
