第29章 待つことだけが残る
眼鏡の係官は、笑顔で言った。
心配しなくていい。
ここで待っていなさい。
その声を聞いた瞬間、私は本当に、もうすぐ終わるのだと思った。
昨日と同じ建物。
昨日と同じ階段。
昨日と同じ廊下。
昨日と同じ係官。
ここまで来れば、あとはパスポートを受け取り、署名をし、外へ出るだけなのではないか。
そう考えた。
しかし、そうはならなかった。
待つことになった。
また、待つ。
椅子に座る。
昨日と同じような場所だった。
ただ、今日は自分の意思でここへ来た。
昨日は連れて来られた。
その違いはある。
だが、椅子に座らされたあとは、あまり変わらなかった。
自分で来たはずなのに、ここに入った瞬間から、自分で決められることがほとんどなくなる。
立つか。
座るか。
移動するか。
電話を持てるか。
時間を知ることができるか。
その一つ一つが、自分の外にある。
朝、建物に入った時点で、スマートフォンはまた預けることになった。
だから時間が分からない。
腕時計を見ればよいのかもしれない。
だが、時計を見るという動作さえ、何となく落ち着かない。
ここでは、時間を確認することが自然な行為ではなくなる。
何時ですか、と誰かに聞く。
それに答えてくれる係官もいる。
答えない係官もいる。
若い係官の一人は、比較的答えてくれた。
それでも、時間を知ったからといって何かが進むわけではない。
九時。
十時。
十一時。
言葉として時間は増える。
だが、状況はほとんど動かない。
廊下の向こうでは、人が出入りしていた。
係官が歩く。
外国人らしい人が呼ばれる。
部屋へ入る。
しばらくして出てくる。
そのまま戻る人もいる。
別の方向へ連れて行かれる人もいる。
書類を持った係官が通る。
誰かが扉のない部屋で話している。
別の部屋から、低い声が聞こえる。
椅子の脚が床をこする音。
紙をめくる音。
靴音。
短い指示。
それらが、建物の中をずっと流れている。
ここでは、何も起きていないわけではない。
むしろ、ずっと何かが起きている。
ただ、それが自分の番ではないだけだ。
自分の名前が呼ばれない限り、それらの動きはすべて背景になる。
背景だけが延々と動く。
自分は、その中で止まっている。
マイケルも、少し離れたところにいた。
時々、姿が見える。
声はかけない。
昨日から、そういう距離感に慣れてしまった。
お互いに見える。
それだけでよい。
この建物の中で、彼の姿が見えることは、小さな支えだった。
もし彼が急に見えなくなったら、私はまた別の不安に入ったと思う。
二人で来た。
二人ともここにいる。
それだけを、視線で確認する。
昼に近づく。
たぶん昼だった。
正確な時間は、誰かに聞かなければ分からない。
私は半分ぼんやりしたまま、廊下と取調室の出入りを見ていた。
自分の頭の中では、まだ朝の門前でのやり取りが残っている。
ここではない。
入国管理は別だ。 どの係官に言われたのか。
名前は何か。
あの時の焦りが、完全には抜けていない。
ようやく中へ入れたと思った。
眼鏡の係官が笑顔で現れた。
大丈夫だと言われた。
それなのに、昼になっても何も終わらない。
その差が、少しずつ心を削っていく。
途中で、トイレへ行った。
トイレの近くに、長い机があった。
そのそばに、折りたたみ椅子が置かれていて、若い係官が一人座っていた。
彼は、他の係官たちより少し話しやすそうに見えた。
顔つきが柔らかいというより、ここに漂う重さから、少しだけ離れた場所にいるように見えた。
小さく話しかけると、軽く返してくれる。
深刻に受け止めるでもなく、冷たく無視するでもない。
ただ、そこに座っている若い職員として、短く返事をする。
それだけで、少し救われる。
この建物の中では、普通の会話がとても貴重になる。
何時ですか。
まだですか。
トイレは使えますか。
そんなことしか聞けない。
それでも、返事があると、人間の場所に少し戻る。
また椅子に戻る。
待つ。
午後に近づくにつれて、刑務所で聞いた言葉が頭の中で回り始めた。
五分と言われたら、五十分。
五十分と言われたら、五時間。
五時間と言われたら、五日。
五日と言われたら、五年。
最初に聞いた時は、笑い話のようにも聞こえた。
しかし、ここで座っていると、その言葉が冗談ではなくなっていく。
五分という言葉は、ここでは時間を示さない。
ただ、待て、という意味に近い。
あと少し。
すぐ。
もうすぐ。
そういう言葉は、人を落ち着かせるために使われる。
しかし、何度も聞くと逆に不安になる。
本当に五分なのか。
五十分なのか。
五時間なのか。
それとも、また夜になるのか。
昨日の刑務所の大部屋で会った若いクルド人の顔が浮かんだ。
二十二歳か二十四歳くらいに見えた。
彼は笑いながら、自分は七年ここにいると言った。
ISISと間違えられた、と言った。
自分たちの敵なのに、とも言った。
拷問されたことも、笑顔で話していた。
あの笑顔が、頭から離れない。
七年。
その数字は、時間ではなく、場所そのもののようだった。
私は、まだ二日程度しかこの流れの中にいない。
それなのに、椅子に座って床を見つめ、自分のことだけで沈んでいる。
彼は七年を話しながら、場所を譲り、マットレスを持ってきてくれた。
そう思うと、自分がひどく小さく感じられた。
それでも、不安は消えない。
他人の長い苦しみを思い出したからといって、自分の今の恐怖がなくなるわけではない。
ただ、自分の恐怖が、少しみっともなく見えるだけだ。
廊下では、声と足音が続いている。
扉の向こうで質問が行われている。
人が移動する。
誰かが戻る。
誰かが消える。
同じ場所に座っていると、それらの音が少しずつ混ざってくる。
最初は一つずつ聞こえていた。
靴音。
声。
紙。
椅子。
扉。
そのうち、全部が一つの低い音になる。
建物が呼吸しているような音になる。
その中で、意識が少しずつぼやけていく。
眠っているわけではない。
起きている。
だが、はっきり起きているわけでもない。
目は開いている。
床が見える。
壁が見える。
廊下が見える。
しかし、頭の中では、時間が少しずつ溶けていく。
朝にここへ来た。
八時に来るはずだった。
8時40分に中へ入った。
係官が笑った。
もうすぐ終わると思った。
昼になった。
まだ終わらない。
その順番だけが残る。
時間は、線ではなく、同じ場所を回る輪のようになる。
何度も同じ不安に戻る。
本当に終わるのか。
また刑務所へ戻されるのか。
パスポートは返ってくるのか。
今日は帰れるのか。
答えはない。
聞いても、返ってくるのは、もう少し、という言葉だけだ。
その言葉の長さは分からない。
私はまた床を見る。
床の汚れ。
壁の色。
椅子の脚。
通り過ぎる靴。
そういうものだけが、妙に細かく見える。
大きなことは分からない。
小さなものだけが見える。
待たされる時間とは、そういうものなのだと思う。
遠くの行き先は見えない。
足元だけが見える。
昼を過ぎても、建物の中の流れは止まらなかった。
ただ、自分の流れは止まったままだった。
