第27章 帰る場所があってよかったこと
タクシーを降りると、夜の空気が少しだけ身体に入ってきた。
車の中では、ずっと何かに包まれているようだった。
警察官の説明。
運転手とのやり取り。
刑務所での持ち物の返却。
マイケルがオーストラリア人の男に礼を言いに戻ったこと。
スマートフォンにSIMカードを差し直したこと。
カナダへ電話するマイケルの声。
それらが、車の中でまだ揺れていた。
だが、タクシーのドアが閉まると、急に一人になった。
マイケルはそのまま自分の滞在先であるHotel Lostへ向かった。
私は、Kevinの家へ向かう細い道に立っていた。
昨日の昼から、どれだけ時間が経ったのか、もうよく分からなかった。
拘束された場所。
最初の小屋。
テレビのある部屋。
深夜の移送。
黒い革のソファ。
コピー機の音。
刑務所。
朝の大部屋。
シリア人の家族。
取調室。
シャワルマの話。
パスポートが返らないという現実。
刑務所に戻って持ち物を受け取る手続き。
一つ一つは覚えている。
しかし、全体としては、すでに自分の経験値の外で起きた出来事のように感じた。
それでも、手の中にはスマホがあった。
財布も戻っている。
現金もある。
パスポートがまだ返してもらっていない。
でも、それだけで、少しだけ自分の輪郭を取り戻した気がした。
Kevinの家の扉の前に立つ。
明かりが漏れていた。
中に人がいる。
そのことが分かるだけで、胸の奥が緩んだ。
この二日間、自分がどこにいるのか分からない場所ばかりにいた。
誰に許可されて座っているのか分からない椅子。
いつ立てばいいのか分からない廊下。
誰が鍵を持っているのか分からない部屋。
どこへ向かっているのか分からない車。
その後で、知っている扉の前に立つことは、それだけで大きかった。
家に入ると、Kevinはリビングにいた。
友人たちと一緒に、プロジェクターで映画を観ていた。
画面には、ハウルの動く城が映っていた。
その光景を見た瞬間、少しおかしくなった。
二日前、私はシャワルマを食べに出ただけだった。
それが、拘束され、尋問され、刑務所で夜を過ごし、そしてようやく戻ってくると、リビングではジブリ映画が流れている。
世界は、こちらの事情など知らずに普通に続いている。
Kevinがこちらに気づいた。
立ち上がる。
近づいてくる。
抱き合った。
そのとき、ようやく少しだけ、自分が帰ってきたのだと思った。
私は、何があったのかを短く話した。
全部を話す力はなかった。
どこで写真を撮ったのか。
どんなふうに囲まれたのか。
どこに連れて行かれたのか分からなかったこと。
夜を刑務所で過ごしたこと。
マイケルというカナダ人ジャーナリストと一緒だったこと。
テロリストでも不法移民でもないと確認されたが、まだパスポートは返されなかったこと。
二日後に、もう一度あの建物へ行かなければならないこと。
言葉にすると、出来事は少しだけ小さくなる。
だが、身体はまだ小さくなっていなかった。
背中のどこかに、硬い床の冷たさが残っている。
手首には、手錠の感覚が薄く残っている。
耳の奥には、コピー機の音がまだある。
Kevinは、静かに聞いていた。
途中で強く驚くというより、少しずつ重さを受け止めているようだった。
私は、昼間の係官の言葉を思い出した。
もし本当にHaret Hreikへ行かなければならないなら、地元のガイドを連れて行った方がいい。
その言葉をKevinに伝えた。
そして、リビングにいたKevinの友人たちに聞いてみた。
誰か、あの地区へ一緒に行ける人はいないか。
返事は鈍かった。
誰も強く乗ってこない。
それは当然だった。
彼らは映画を観ていた。
私は、その場にいきなり刑務所帰りの話を持ち込んでいる。
しかも、次にまたHaret Hreikへ行きたいと言っている。
普通に考えれば、反応が鈍い方が正しい。
私は、少しだけ場違いなことをしていると気づいた。
映画の夜に、危険地帯への再訪計画を持ち込む男。
我ながら、かなり面倒な客である。
その夜の最後に、Kevinの母親がアルメニアの伝統的なデザートを出してくれた。
甘かった。
疲れた身体に、砂糖の味がゆっくり入ってくる。
それまで食べたものは、刑務所の朝のサンドイッチ、誰かにもらったマフィン、デーツやビスケットぐらいだった。
きれいな皿で出される甘いものを食べると、自分が急に普通の場所に戻されたような気がした。
シャワーを浴びた。
熱い湯が出る。
それだけでも、ありがたかった。
刑務所の床の冷たさが、少しずつ流れていくように感じた。
ベッドに入る。
何かを考える前に眠った。
深く眠った。
途中で一度も起きなかった。
翌朝、自然に目が覚めた。
窓から光が入っていた。
静かな朝だった。
あれほど濃かった二日間が、もう遠い出来事のように感じられた。
身体が布団の中にあり、窓があり、机があり、外の明るさがある。
それだけで、前日の出来事が急に現実味を失う。
だが、パスポートはまだ戻っていない。
だから、全部終わったわけではなかった。
机に座り、昨日の建物のことを考えた。
あれは、どこだったのか。
何の機関だったのか。
私は明日、もう一度そこへ行かなければならない。
パスポートなしでは、出国できない。
行きたくないと言っても、選択肢はない。
ノートパソコンを開く。
地図を開く。
昨夜、建物を出るとき、係官に聞いた。
ここはどこですか。
彼は、通りの向こうにある建物を指すようにして言った。
向かいにナショナルミュージアムがある。
それを目印にしなさい。
Google Mapsでナショナルミュージアムを探した。
すぐに見つかった。
その周辺を見る。
広い道路。
交差点。
大学らしき建物。
昨夜、タクシーが建物の前で向きを変え、細い脇道に入ったことを思い出す。
そこにUniversitéと書かれた建物を見た記憶があった。
地図上にも、それに近い建物があった。
位置関係が合う。
ただ、私たちが尋問された建物そのものは、地図上でははっきり出てこない。
そこにあるはずなのに、名前が見えない。
それがかえって、あの場所らしかった。
さらに西へ目を移す。
Hayat Doner Alturkiという店があった。
取調べの時、眼鏡の係官が好きなシャワルマ店として名前を出した場所だ。
あの青い看板の店。
そこがナショナルミュージアムから西へ一キロほどの場所にある。
それを見たとき、だいたいの場所は合っていると感じた。
ただし、刑務所の場所は分からなかった。
昨夜、貴重品を取りに戻った施設。
あの場所がどこにあったのかは、地図上でたどれなかった。
車の中では頭を下げられ、窓の外も見えなかった。
帰りも夜で、方角の感覚は薄かった。
その場所だけは、まだ地図の外にあった。
九時ごろ、Kevinが部屋から出てきた。
私は、昨日までのことを改めて話した。
かなり細かく。
どこで捕まったのか。
誰に囲まれたのか。
どんな部屋に連れて行かれたのか。
刑務所がどうだったのか。
朝に会った人たちのこと。
オーストラリア人の男。
七年いるという若いクルド人。
シリア人の家族。
マイケル。
そして明日、もう一度あの建物へ行かなければならないこと。
Kevinは静かに聞いていた。
それから言った。
心配しなくていい。
もしまた何かあって、戻ってこられなかったら、僕が行く。
君は一人じゃない。
その言葉は、かなり効いた。
昨日まで、自分はずっと誰かに連れて行かれる側だった。
誰かに座らされ、誰かに立たされ、誰かに質問され、誰かに待たされた。
でも、この街には、自分を探しに来ると言ってくれる人がいる。
そのことが、はっきりとした支えになった。
地図を見せた。
明日戻る場所は、たぶんここだと示した。
Kevinは画面をしばらく見た。
そして、ゆっくり言った。
これは、警察ではないと思う。
もっと国家保安に近い。
政府の情報機関のようなものかもしれない。
その言い方で、昨日までの出来事がまた少し重くなった。
普通の警察ではない。
そう聞くと、あの廊下の暗さや、扉のない取調室や、地図に出てこない建物の意味が、少しだけ違って見えた。
その朝、バーレーンの友人からWhatsAppが届いていた。
フランス大統領マクロンがベイルートに来て、Le Chefという小さな地元レストランを訪れたという記事だった。
写真も送られてきた。
Le Chefは、Kevinの家から歩いて十五分ほどの場所にあった。
前に通りかかったとき、いつか食べてみたいと思っていた店でもある。
少し迷った。
まだ体力は戻っていない。
明日のこともある。
だが、家に閉じこもっているより、外を歩いた方がいいように思えた。
服を着替えた。
Gouraud Streetをゆっくり歩いた。
車は一方通行で流れている。
歩く人は多くない。
通りには、ベイルートの古い建物と、修復途中の壁と、新しい店が混ざっている。
昨日までとは違う街だった。
少なくとも、誰かに連れて行かれているわけではない。
自分で歩いている。
それだけで、ずいぶん違った。
Le Chefへ向かう小さなトンネルの手前だった。
右の前方から、誰かが手を振っていた。
最初は誰か分からなかった。
その人は、こちらに向かって何か言っている。
近づいてくる。
それでも、すぐには気づかなかった。
サングラスをかけていたせいもある。
自分の頭がまだぼんやりしていたせいもある。
目の前まで来て、ようやく分かった。
マイケルだった。
昨日の夜、タクシーで別れたばかりのマイケル。
Hotel Lostの近くにいるとは聞いていた。
だが、こんな形で道端で会うとは思わなかった。
私たちは、その場で立ち止まった。
明日のことを確認した。
朝七時半に、私が彼のホテルへ行く。
そこからタクシーを呼び、ナショナルミュージアムを目印にして、あの建物へ向かう。
二人で行く。
それだけを、手短に決めた。
長く話す必要はなかった。
もう互いに、何を言わなくても分かる部分があった。
別れたあと、私はふと気づいた。
彼と会った場所のすぐ近くに、Hotel Lostがあった。
つまり、明日の朝はここへ来ればいい。
場所がはっきりした。
それだけで、少し安心した。
マイケルが近くにいる。
同じ建物へ戻る人が、歩いて行ける距離にいる。
それは、この数日の中で、思った以上に大きかった。
Le Chefへ向かいながら、私は思った。
昨日までの出来事は、まだ終わっていない。
パスポートは戻っていない。
明日また戻る。
けれど、朝の光の中で、Kevinがいて、地図があり、Le Chefがあり、道端でマイケルに会った。
恐怖だけでできていた時間に、少しずつ別のものが混ざり始めていた。
それが、完全な安心ではなくてもよかった。
まだ続いている。
だが、今度は一人で続いているわけではなかった。
