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ピクシーが名古屋に遺した光 ―ドラガン・ストイコビッチ物語―

雨が降りしきる1994年9月17日。 水たまりだらけのピッチで、 一人の男がリフティングを続けながら 約30メートルを独走した。 観客は息を呑み、時が止まったように感じた。

あなたは「天才」という言葉の 本当の意味を知っているだろうか。 名古屋グランパスの歴史において、 ドラガン・ストイコビッチほどその言葉が ふさわしい選手はいない。


生い立ち ― ニシュから世界へ

基本情報

  • 生年月日:1965年3月3日

  • 出生地:ユーゴスラビア連邦(現セルビア共和国)・ニシュ

  • ポジション:攻撃的ミッドフィルダー/フォワード

  • 身長175cm、体重73kg、利き足:右足

ベオグラードから東南へ約200キロ。 ローマ時代の遺跡を残すセルビアの旧都、ニシュ。 1965年3月3日、この歴史ある街で ドラガン・ストイコビッチは生まれた。

家族構成は両親とひとりの姉。 スポーツ万能だった少年時代、 彼はサッカー以上に夢中になっていたものがあった。 それはアニメ「ピクシー&ディクシー」だった。

いつしか、ドラガン少年は 「ピクシー(妖精)」というニックネームで 呼ばれるようになる。 まるで運命が定められていたかのように。

14歳で地元のクラブ、ラドニツキ・ニシュに入団。 18歳の1983年、彼は一気にプロ1部リーグ、 ユーゴスラビアのユース代表、 オリンピック代表、そしてフル代表へと 次々にデビューを果たした。

人々はたちまち彼のプレーに魅了された。 「20年に一人」と言われる天才。 その噂は国境を越えて広がっていった。

キャリアの軌跡 ― 栄光と挫折の狭間で

レッドスター時代(1986-1990)

1986年夏、21歳のストイコビッチは 母国最強のクラブ、レッドスター・ベオグラードへ。 不思議なことに移籍金は支払われず、 代わりにレッドスターは4台のバスを ラドニツキに提供したという逸話がある。

レッドスターでの彼は圧倒的だった。 リーグ優勝3回、カップ戦優勝2回。 ユーゴスラビア代表のキャプテンとして 10番を背負い、1990年ワールドカップでは スペインから2得点を奪う活躍を見せた。

世界が注目する中、次なる舞台が決まった。

マルセイユ時代(1990-1994)― 悲劇の始まり

1990年1月、 フランスの名門オリンピック・マルセイユが 移籍金500万ポンドで彼を獲得。 パパン、カントナ、ワドル、ペレといった スター選手が揃う中、背番号10を託された。

当時の監督フランツ・ベッケンバウアーは こう語った。 「ストイコビッチは世界最高の選手。 数年後にバロンドールを獲らなかったとすれば、 それは何か手違いがあってのことだろう」

しかし、運命は残酷だった。

1990-91シーズン開幕戦のFCメス戦。 相手GKに左膝を踏まれ、全治までに 3度の手術が必要な大怪我を負う。 サッカー人生で何度も膝の負傷に悩まされたが、 この時の怪我は引退を考えるほど深刻だった。

復帰後も本来のフォームを取り戻せず、 1991年のチャンピオンズカップ決勝では 古巣レッドスターと対戦するも、 試合終了間際の数分間しか出場できなかった。 PK戦の末に敗れ、ベンチから 古巣の欧州初制覇を眺める屈辱を味わった。

1991-92シーズンはイタリアの エラス・ヴェローナへレンタル移籍。 しかし膝の負傷は癒えず、 さらに祖国ユーゴスラビアでは クロアチア戦争が勃発していた。 西側諸国から「悪」とされていたセルビア人である彼は、 周囲から冷ややかな目で見られた。

1992-93シーズン、マルセイユに復帰するも 一度も公式戦に出場できず。 チームはチャンピオンズリーグで優勝し、 リーグ5連覇と絶頂期にあったが、 ストイコビッチの居場所はもうなかった。

そして1994年、マルセイユの八百長スキャンダルが発覚。 チームは2部降格処分となり、 主力選手たちは次々と去っていった。

クラブは2年間の契約延長を申し出たが、 ストイコビッチは拒否した。 心身ともに傷ついた彼は、 遠い国でのリフレッシュを求めて 新天地を探していた。

名古屋グランパス時代(1994-2001)― 再生と輝き

1994年6月13日、 Jリーグの名古屋グランパスエイトと 年俸(7ヶ月分)5,000万円で契約。 マルセイユには移籍金9,000万円が支払われた。

当時の日本サッカーは欧州と比べ はるかにレベルが低く、 名古屋は「Jのお荷物」と揶揄されていた。 大物外国人ゲーリー・リネカーが 十分に活躍できなかったこともあり、 ファンやマスコミは懐疑的だった。

デビュー戦は衝撃的だった。 開始わずか18分で主審のイエローカードに 納得できず抗議し、退場処分。 「反抗的で扱いにくい選手」という レッテルが貼られてしまう。

当初は半年限定の契約だったが、 1994年11月、運命が変わる出来事が起きる。 フランスの名将アーセン・ベンゲルが 監督に就任したのだ。

かねてからベンゲルを尊敬していたストイコビッチは、 彼の下でプレーしたいと考え、契約を延長。 念願の背番号10を手に入れ、 中盤の自由を与えられた彼は、 ついに本来の輝きを取り戻す。

1995年シーズン ― イヤー・オブ・ドラガン

開幕からしばらくは審判への苛立ちから 退場を繰り返し、チームの足を引っ張った。 しかし5月の中断期間のキャンプで ベンゲルの戦術がチームに浸透。

2ndステージ開幕戦のジュビロ磐田戦では 1得点3アシストでマン・オブ・ザ・マッチ。 10月4日のジェフ市原戦では、 後にJリーグ30周年ベストゴールの テクニカル部門にノミネートされる ゴールを決めた。

シーズン通算17得点29アシストという 異次元の成績を残し、 得点王の福田正博に大差をつけて Jリーグ最優秀選手に輝く。

そして1996年1月1日、 天皇杯決勝でサンフレッチェ広島を3-0で破り、 グランパスに初のメジャータイトルをもたらした。

ファンの応援コールも変わった。 「ストイコビッチ」から「ピクシー」へ。 妖精は名古屋の空を舞い始めた。

アーセナルへの誘いを断る

1996年9月、ベンゲルがアーセナルへ移籍。 彼はストイコビッチを熱心に誘った。 しかしピクシーは断った。

「当時、アーセナルからのオファーを断ったのは、 世界で私だけではないでしょうか」

彼は後にこう語っている。 日本での生活、名古屋のファン、 そして何より、ここが「マイホーム」だったからだ。

2000年1月1日 ― 伝説の天皇杯決勝

ミレニアムの幕開けとなった2000年元日。 名古屋は4年ぶりの天皇杯決勝で サンフレッチェ広島と対戦した。

後半11分、ストイコビッチが右サイドから放った 絶妙なクロスを呂比須ワグナーが合わせて先制。

そして後半37分、試合を決定づけたのは やはりピクシーだった。

左サイドでボールを受けると、 飛び出してきたGKとDFを キックフェイントで次々にかわし、 右足でゴールネットを揺らした。

三笘薫が後に語っている。 「なんで人が倒れていくんだろうって。 本当にクオリティが高い」

最後の時

2001年シーズン。 36歳を迎えた彼は、 このシーズンを最後に引退することを決めていた。

1stステージ最終節の7月14日、 サンフレッチェ広島戦で試合終了間際に Jリーグラストゴールとなる決勝点を決め、 3-2での勝利に貢献。

最終節7月21日の東京V戦で、 グランパスの選手として最後の公式戦出場を果たした。

名古屋での記録

  • リーグ戦:178試合出場 55得点

  • うち14得点はPK、6得点は直接FK、1得点は直接CK

  • アシスト数:95(非公式記録)

  • 最もアシストした選手:岡山哲也

  • イエローカード:69枚

  • 退場処分:13回(うち一発退場3回) ※2015年に森勇介が更新するまでリーグ最多記録

2001年7月末、 「セブン・イヤーズ・イン・ジャパン」 という7年間の物語に幕を下ろした。

監督としての帰還(2008-2013)

2008年、ストイコビッチは監督として名古屋へ戻ってきた。 選手として最後、監督として最初を迎えた名古屋には、 深い愛着があった。

2010年シーズン ― 悲願の初優勝

就任3年目、ストイコビッチは 田中マルクス闘莉王、玉田圭司、楢崎正剛といった 個性派集団を見事にまとめ上げた。

そして2010年11月20日、 名古屋グランパスはクラブ史上初のJ1優勝を達成。 選手として2度の天皇杯優勝、 監督としてリーグ制覇。

ピクシーは名古屋に、 選手と監督の両方でタイトルをもたらした 唯一の存在となった。

伝説の「革靴ゴール」

2009年10月17日、横浜F・マリノス戦。 相手GKがライン外へボールを蹴り出した時、 フィールド横のベンチから出てきたストイコビッチは、 革靴を履いた右足でダイレクトボレー

ボールは52メートル先の横浜ゴールに突き刺さった。

結局このゴールは遅延行為および 審判への侮辱ととられ、退席処分となったが、 観客は大盛り上がり。

試合後のインタビューで彼はニヤリと笑った。 「こうやれば得点できるという手本を見せた。 素晴らしいゴールでしょ?」

監督時代の成績

  • J1優勝:1回(2010年)

  • FUJI XEROX SUPER CUP:1回(2011年)

  • Jリーグ年間最優秀監督賞:1回(2010年)

  • 旭日小綬章:2015年

2013年シーズンを最後に、 ストイコビッチは名古屋の監督を退任。 選手として約7年、監督として6年。 合計13年間、彼は名古屋とともに歩んだ。

2011年2月、アーセナルFCのアーセン・ベンゲル監督は 英国各紙に対してこう語った。

「自分の後任がストイコビッチであれば嬉しい。 それには100の理由がある。 アイディアが同じ。共に完璧なサッカーを求める」

プレースタイル・特徴 ― 妖精の魔法

武器となる技術

パスワーク 広い視野での大きなサイドチェンジは、 観客がため息をつくほど正確だった。 シンプルなパス回しから、 一瞬で相手守備陣を混乱に陥れる 決定的なパスを繰り出した。

ドリブル 変幻自在のドリブルで相手をかわし、 柔らかなボールタッチは 見る者すべてを魅了した。

シュート・フリーキック 正確なフリーキックと強烈なシュート。 6得点は直接FK、1得点は直接CKという 技術の高さを物語る。

イビチャ・オシムは彼について、 こう評している。

「技術が高いだけでない。 ピクシーは人を動かして、自分も動ける。 彼はセルフィッシュではなく コレクト(正しい)な選手だった」

メンタル面 ― 炎と氷

一方で、頭に血が上りやすく、 審判との口論や警告も日常茶飯事だった。 7年間で69枚のイエローカード、 13回の退場処分がそれを物語る。

しかしそれは、勝利への執念の表れでもあった。

「驚いたことは試合で負けても 悔しがらない選手がいること。 敗戦後に笑っていたり、 帰りのバスの中で眠っていたりするのを見て びっくりしました。 私は試合に負けた日は悔しくて眠れない。 価値観の違いを感じました」

彼は日本サッカーに、 プロフェッショナリズムとは何かを教えた。

人間性 ― 親日家ピクシー

日本食への愛

ストイコビッチは食生活においても 日本食好きを公言していた。

1995年、ホテルのバイキングで 中西哲生が食べていた納豆に初めてトライ。 それ以後は納豆が大好物になり、 海外キャンプに行くときも 納豆を持参するようクラブにリクエストした。

1997年のオーストラリアキャンプで 朝食に納豆が出されなかったことに激怒し、 クラブスタッフを日本食食料品店に 買いに行かせたこともあった。

他にも生卵、うどん、鮎の塩焼き、梅干しが好物。 特に鮎は、故郷ニシュに似ているという 岐阜県飛騨市での約1週間のキャンプ期間中に 30匹の鮎を食べたという。

縄張りを持つ鮎の習性になぞらえて、 選手たちに「鮎のファイティングスピリットを見習え」 というアドバイスを送ったこともある。

家族への愛

レッドスター移籍直後に ファッションデザイナーをしていた 現在の妻と知り合う。

サッカーの試合の都合で 結婚式を3回キャンセルしたため、 1991年6月21日にようやく結婚式を挙げた。

レッドスター時代に長女、 マルセイユ時代に次女と長男が生まれた。

1995年11月15日、 観光のために来日していた義母が 脳内出血により急逝。 それ以後、昭和区にある正教会の教会を 自らの拠り所とした。

監督就任後、長男のマルコ・ストイコビッチは グランパスの下部組織に在籍していたが 2010年に退団。 マルコはパリへ戻ることになり、 ストイコビッチはシーズン中であったが 転校手続きのためチームを一時離れている。

名言集

「才能なんて、その後の生き方次第で変わってしまう」

「10番は完璧でなくてはならない」

「名古屋での冒険はトレジャー(宝)」

「94年に来日した時には、 こんなにも長くグランパスとともに歩むとは 思いもしませんでした。 ただ、年月が経った今は マイホームのように感じています。 素晴らしい人々に囲まれながら、 家族も楽しい時間を過ごせている。 日本の文化に触れ、 いろんな知識を得る機会に恵まれた。 その機会こそまさにトレジャー(宝)であり、 幸せを感じる部分でもあります」

レジェンドたる所以

なぜレジェンドなのか

  1. Jリーグ史上最高の外国人選手 現在でも多くのサッカーファンが Jリーグ最強外国人のトップに挙げる。

  2. 選手と監督の両方でタイトル獲得 選手として天皇杯2回、 監督としてJ1優勝1回。 クラブに計3つのタイトルをもたらした。

  3. 世界レベルの技術を日本に ベッケンバウアーが「世界最高」と評した選手が、 全盛期を過ぎてもなお、 日本でその技術を披露してくれた。

  4. 親日家としての姿勢 アーセナルのオファーを断り、 名古屋に残り続けた。 それは単なる契約ではなく、 愛情だった。

クラブへの貢献度

記録として残したもの

  • 天皇杯優勝:2回(1995年、1999年)

  • J1優勝:1回(2010年/監督として)

  • Jリーグ最優秀選手:1回(1995年)

  • オールスターMVP:3回(1996年、1998年、2000年)

クラブ史における位置づけ

2010年にストイコビッチが監督として チームを初優勝に導いた時、 長谷川健太監督(当時清水エスパルス監督)は こう語った。

「10年にJリーグタイトルを取ったとき、 大きな成功を収めたと思っている。 われわれは、とても良いサッカー、 とても攻撃的なサッカー、 とても魅力的なサッカーを見せたと思っている。 今年のサッカーを見ていると そのスピリットが戻ってきたんじゃないかなと思う」

ストイコビッチのスピリットは、 今も名古屋グランパスのDNAとして 受け継がれている。

記憶に残る名勝負

試合1:1994年9月17日 vs ジェフユナイテッド市原

状況・背景 デビューシーズンの2ndステージ。 まだ本来の輝きを取り戻せずにいた時期。 この日は豪雨で、フィールドは 水たまりだらけという悪条件だった。

ストイコビッチのプレー 後半、ピッチ中央付近でボールを受けると、 リフティングを続けながら約30メートルを独走。 水しぶきを上げながら、 まるで妖精のように舞い、 最後はシュートを放った。

このプレーは観客の度肝を抜き、 一流選手の片鱗を見せた決定的な瞬間となった。

試合後の反応 このプレーがきっかけとなり、 ファンは彼の才能を確信し始めた。 「ピクシー」の愛称が定着するきっかけの一つとなった。

試合2:1996年1月1日 天皇杯決勝 vs サンフレッチェ広島

スコア:3-0

試合の状況・背景 名古屋グランパス初のメジャータイトルをかけた一戦。 1995年シーズンにMVPを獲得したストイコビッチが、 どのようなパフォーマンスを見せるか注目された。

ストイコビッチのプレー 攻撃陣をリードし、 チームの初タイトル獲得に貢献。 パスワーク、ドリブル、シュート、 すべてにおいて圧倒的な存在感を示した。

試合後の反応 グランパスサポーターは歓喜に包まれた。 「お荷物チーム」と呼ばれた名古屋が、 ピクシーとともに 初めてのタイトルを手にした瞬間だった。

試合3:2000年1月1日 天皇杯決勝 vs サンフレッチェ広島

スコア:2-0

試合の状況・背景 ミレニアムの幕開けとなった元日。 4年ぶりの天皇杯決勝で、 35歳を迎えたストイコビッチの 衰えぬ技術が試された。

ストイコビッチのプレー 後半11分、右サイドから放った絶妙なクロスで 呂比須ワグナーの先制点をアシスト。

後半37分、広島からボールを奪うと、 カウンターでボールが左サイドのストイコビッチへ。

飛び出してきたGKと対峙すると、 シュートフェイントで一人かわし、 もう一度シュートフェイントで DFもかわして、右足でゴール。

この伝説のゴールについて

三笘薫は後にこう語っている。 「なんで人が倒れていくんだろうって。 本当にクオリティが高い」

広島サポーターの目には、 ストイコビッチのキックフェイントに 翻弄される姿が、天皇杯決勝における 広島の負の歴史を象徴するように映った。

試合後の反応 MVPを獲得し、 4年ぶり2度目の天皇杯優勝。 ストイコビッチは35歳になっても なお世界レベルのプレーを披露し、 観客を魅了し続けた。

クラブへの遺産

記録として残したもの

  • 退場処分13回(2015年まで歴代最多記録)

  • 直接フリーキック6得点

  • 直接コーナーキック1得点

  • Jリーグ最優秀選手1回(1995年)

  • オールスターMVP3回

次世代への影響

ストイコビッチの美技を見て、 サッカー人生が変わったという選手は多い。

「人生を変えた」 「本物の天才を見た」 「あのプレーを目指してサッカーを続けた」

名古屋の育成組織からも、 彼の影響を受けた選手たちが 次々と輩出されている。

ファンの記憶に残る理由

2023年8月5日、 10年ぶりに名古屋グランパスの試合に 来場したストイコビッチ。

58歳になった彼を見て、 ファンは歓声を上げた。

「スピリットが戻ってきた」

彼はそう語った。 10年の時を経ても、 ピクシーは名古屋のファンにとって 永遠のヒーローであり続けている。

時代背景との関係

在籍時のクラブの状況

1994年、名古屋グランパスは 「Jのお荷物」と揶揄されていた。 リネカーという大物外国人も 活躍できなかった環境。

しかし1995年、ベンゲル監督の就任と ストイコビッチの覚醒により、 クラブは優勝争いをするチームへと変貌した。

リーグ全体の環境

Jリーグ開幕当初は、 技術的にも戦術的にもミスが散見された。 しかしジーコ、リトバルスキー、 そしてストイコビッチといった 世界的なビッグネームが、 日本サッカーに「正しい情報」を与え、 レベルを向上させていった。

ストイコビッチは後にこう語っている。

「率直に言って、日本サッカー界は この20年で飛躍的に発展したと感じています。 リーグやクラブの運営体制、 ピッチ上でのパフォーマンス、 そしてファンの皆さんのサッカーに対する理解、 こういった部分は目覚しい進歩を遂げてきたのではないでしょうか」

サッカー界のトレンド

1990年代、世界のサッカーは 資金力の面で大幅にスケールアップしていた。 年俸5,000万円という当時の相場は、 現在から見れば格安である。

しかしストイコビッチは、 年俸以上に価値のあるスーパープレーを 数多く見せてくれた。

社会情勢との関連

1990年代、ユーゴスラビアは紛争状態にあった。 1992年のEURO予選では、 代表チームがストックホルム入りして 最後の調整に励んでいたが、 内戦への裁定として国連が制裁措置を取り、 出場停止処分を受けた。

1999年のNATO空爆に対しては、 ユニフォームのアンダーシャツに 「NATO Stop Strikes(NATOは空爆を中止せよ)」 のメッセージを見せるパフォーマンスを行った。

しかし彼は言った。 「これは人道的な観点によるメッセージであり、 政治的な意味は持たない」

ストイコビッチは、 スポーツと政治は無関係という立場を貫き通した。

戦争という悲劇と向き合いながらも、 祖国のために戦い、 さらに日本にフットボールを伝道した。

エピローグ ― 妖精が遺した光

引退を決め、名古屋とレッドスターとの 引退親善試合を終えた数日後。

ストイコビッチは家族4人で 名古屋のレストランに出かけた。

レストランに入っても、 誰も振り向かないので、 今日は自分のことを知らない人ばかりなんだろうなと思い、 4人で楽しく会話していた。

ところが、食事を終え、立ち上がったとたん、 一斉にお店中に拍手の音が鳴り響いた。

一瞬何が起こったかわからず呆然としたが、 周りを見回してみると、 皆、笑顔を見せながら、 こちらに向かって拍手しているではないか。

しかも、 「ピクシーありがとう」という 感謝の言葉を口にして――。

なんと、この人たちは私たちを気遣って、 食事が終わるまで、敢えて、 無関心を装ってくれていたのである。

ケガをして、傷心でやってきた私を 助けてくれたのはむしろ日本のほうなのに、 なんという人たちなのだろうか。

私が居た他の国で、 こんなに素晴らしい人たちがいただろうか。

私たちは思わず涙が出そうになった。

本当に日本に来て良かった、と改めて思った。 私はこの日のことは一生忘れないだろう。

私たちのほうこそ言いたい。 「日本の皆さん、ありがとう」と。

現在、ストイコビッチは セルビア代表の監督として活躍している。

しかし彼の心の中には、 今も名古屋での思い出が生き続けている。

2023年、10年ぶりに名古屋の試合を観戦した彼は こう語った。

「10年にJリーグタイトルを取ったとき、 大きな成功を収めたと思っている。 われわれは、とても良いサッカー、 とても攻撃的なサッカー、 とても魅力的なサッカーを見せたと思っている。 今年のサッカーを見ていると そのスピリットが戻ってきたんじゃないかなと思う」

ドラガン・ストイコビッチという名前は、 名古屋グランパスというクラブが 存在し続ける限り、 今後も永久に失われることはないだろう。

妖精は去っても、その光は消えない。 ピクシーが名古屋に遺した光は、 これからも永遠に輝き続ける。

あなたはこの物語を知っているだろうか。 そして、あなたはこの物語を語り継ぐだろうか。

ドラガン・ストイコビッチ。 名古屋グランパスの、そして日本サッカーの、 永遠のレジェンド。