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大宮に残した種は、今も育っている

―ピム・ファーベークという名の開拓者

ピム・ファーベーク(1956年3月12日 – 2019年11月28日) 大宮アルディージャ 初代Jリーグ監督。在任1998〜1999年。

2019年11月。 大宮アルディージャがJ1参入プレーオフに挑んでいたとき、ひとりのオランダ人が亡くなった。 63歳。クラブに在籍していたのは、たった2シーズン。 それでも、クラブは追悼の意を表した。「彼が植え付けた哲学は、今もチームカラーとして受け継がれている」と。 たった2年で去ったオランダ人の名前が、なぜ20年後も語り継がれるのか。


訃報は、11月の夜に届いた

2019年11月28日。

その夜、大宮アルディージャはJ1参入プレーオフの最終局面に差し掛かっていた。 そこへ、訃報が届いた。

名前は、ピム・ファーベーク。63歳。オランダ・ロッテルダム出身。 クラブが追悼の意を表したのは、かつての指揮官を悼むためだった。

森正志代表取締役の言葉は、静かに、しかし確かな重さを持っていた。

「プロ化に向けた一歩を踏み出す礎を築いてくれた指揮官であり、ファーベーク監督が植え付けた組織的なサッカーは現在もチームカラーとして受け継がれている」

20年。 彼が大宮を去って20年が経っていた。 それでもクラブは、彼の「遺産」を語った。

なぜ、たった2年で去ったオランダ人の名前が、今も語り継がれるのか。

ロッテルダムの少年、「ピム」と呼ばれた男

Peter Tim Dirk Verbeek。 1956年3月12日、オランダ第二の都市ロッテルダムに生まれた。

「ピム」という愛称は、本名の「Peter」のP と「Tim」から来ている。 それだけ聞けば、どこにでもいる男の話に思える。

実際、現役選手としてのキャリアは、輝かしいとは言い難かった。 主な所属クラブはスパルタ・ロッテルダム。NACブレダ、ローダJCでもプレーしたが、ポジションはセントラルMF。スパルタでは2度在籍し、控え選手として試合を眺めることも多かった。

でも、ピムには「見る目」があった。

選手として半歩下がった場所から、ゲームの流れを読み、仲間の動きを観察し、「なぜこのプレーは失敗したのか」を考え続けた。 31歳ごろ、引退。その日から、指導者としての人生が始まった。

スパルタ・ロッテルダムで監督デビューを果たし、デ・フラーフスハップ、フェイエノールト、FCフローニンゲンと渡り歩いた。オランダ伝統の「トータルフットボール」を軸に、どのクラブでも組織的なパスサッカーを追求した。

そして1998年。 彼はどこかの強豪クラブへ向かったのではなかった。

日本の、埼玉へ。

「アルディージャ」という名のリスと、オランダ人

1998年、大宮アルディージャはまだプロクラブへの助走段階にあった。

前身はNTT関東サッカー部。1969年に電電関東サッカー部として創設されたアマチュアチームが、プロ化を目指して大宮市へ本拠を移し、「アルディージャ(スペイン語でリス)」という名をつけたばかりだった。

翌1999年のJ2元年を前に、クラブはひとつの賭けに出る。 オランダから指導者を招く、という選択だ。

1998年7月1日、ピム・ファーベークが大宮の監督に就任した。

彼が最初にやったことは、選手たちの「頭」を変えることだった。

4-4-2。ボールを動かして主導権を握る。スペースを共有し、全員が連動する。 アマチュア気質の残るチームに、オランダ仕込みのトータルフットボールを植え付けた。

後に大宮のアカデミーダイレクターとなる中村順は、当時コーチとして薫陶を受けたひとりだ。フットボリスタの取材で、「オランダのサッカーはスペースを使い、全員で動く。それを教えてくれたのがピムだった」と語っている。

1999年:首位から6位へ。悲劇の春

J2元年、1999年。

大宮は開幕から好調だった。 ピムの4-4-2が機能し、序盤は首位争いを演じた。 チームの得点源はオランダ人ストライカー、ヨルン・ブーレ。ピムが連れてきた前線の核が、チームを引っ張っていた。

しかし、5月。 夜の闇の中で、事件が起きた。

ヨルン・ブーレが、暴漢に襲われた。

左眼を失明するほどの重傷。 現役続行は不可能だった。大宮の得点源が、突然、ピッチから消えた。

チームは失速した。首位争いから遠ざかり、勝ち点は伸びなくなった。 最終順位、6位。

J2昇格のない6位。悔しい結末だった。

後になって、誰もが思う。 「もしブーレが倒れなかったら」と。

その問いに答えはない。 けれども、あの春の首位争いは、ピムが大宮に植えたサッカーの「正しさ」を確かに証明していた。

彼が日本を去った後、世界は彼を求めた

1999年シーズン終了とともに、ピム・ファーベークは大宮を退いた。

その後の経歴は、まるで逆説のようだ。 小さなJ2クラブから、世界の舞台へ。 驚くほどの速さで、駆け上がっていった。

2002年FIFAワールドカップ 韓国代表、4強の陰で

フース・ヒディンク率いる韓国代表のアシスタントコーチとして、あの奇跡の準決勝進出を支えた。 「あの韓国」が世界を驚かせた陰に、ピムがいた。

韓国代表監督(2006〜2007年)

2006年ドイツW杯後、韓国代表監督に昇格。 2007年アジアカップで3位入賞を果たした。

オーストラリア代表監督(2007〜2010年)

2007年12月に就任し、2010年南アフリカW杯への出場権を獲得。 オーストラリアサッカー界にその名を刻んだ。

モロッコU-23(2010〜2012年)

テクニカルダイレクターとして若き才能を発掘。 ノルディン・アムラバト、ヤシン・ブーノー(ブノ・ムスタファ)らを育て上げた。 このふたりは、2022年カタールW杯でアフリカ勢初のベスト4に進出するモロッコ代表の中核を担う選手になった。

「ピムが蒔いた種は、12年後に花開いた」とも言える。

オマーン代表(2016〜2019年)

癌を患いながらも指揮を続け、2019年アジアカップでオマーン史上初のベスト16進出を実現。 これがオマーンサッカー史上最大の成功となった。

大会終了後、ピムは引退を表明。スパルタ・ロッテルダムの取締役に就いた。 そして2019年11月28日、アムステルダムで静かに息を引き取った。

弟が、そして弟子が、大宮に戻ってきた

不思議な縁がある。

ピムが大宮を去った後、彼の弟ロバート・ファーベークが大宮アルディージャの監督に就任した。 兄の築いた地盤の上で、弟が指揮を振るった。

さらに、もうひとつの縁がある。

ピムのもとでコーチを務めた渋谷洋樹が、後年、大宮の監督になった。 渋谷は「師が植え付けたポゼッションフットボール」を自分のスタイルの原点と語り、大宮をJ2優勝・J1復帰に導いた。

クラブの記録にはこう残っている。 「渋谷は自らがコーチとして師事した初代監督ピム・ファーベークのスタイルであるポゼッションフットボールを志向した」。

ひとりのオランダ人が残したものは、組織図には載らない。 でも確かに、大宮の血に流れている。

「大宮はトータルフットボールのクラブだった」

よく誤解される。

「大宮といえば堅守速攻」。

確かに、ズデンコ・ベルデニック監督時代の鉄壁の守備ブロック、長年続いたカウンターサッカーが大宮のイメージを形作った。

でも、クラブの「DNA」を辿れば、その源流にある。

「大宮は元々は堅守速攻のクラブではなく、ピム・ファーベークと三浦俊也が構築したトータルフットボールを主軸にしていた」。

堅守速攻は、J1の強豪と戦うために後天的に獲得したアイデンティティだった。 根っこにあったのは「ボールを持つ」「動かす」「組織で制圧する」という哲学。

それを最初に持ち込んだのが、ロッテルダムから来たあのオランダ人だった。

記憶に残る名場面

試合①:1999年 J2元年・大宮アルディージャの首位快走

J2元年1999年シーズン。「大宮アルディージャ」と冠した最初のJリーグシーズンは、驚くほど順調なスタートを切った。

埼玉県営大宮公園サッカー場に、プロになったクラブのサポーターが集まった。 ピムの4-4-2は噛み合っていた。ヨルン・ブーレが点を取り、中盤が連動し、首位争いを演じる大宮をスタンドが信じていた。

「このまま昇格できる」という空気が、スタジアムを満たしていた。 しかし5月。事件が起き、すべてが変わった。

試合②:1999年・首位から6位への失速

ブーレを失った大宮は、その後の試合で勝ち点を積み上げられなくなった。

ピムは戦術を工夫した。選手を入れ替え、残された戦力で戦い続けた。 でも、核を失った穴は大きかった。

シーズン終盤、最終6位が確定したとき、スタジアムには静けさと「もしも」の空気が漂った。 ピムは多くを語らなかった。ただ「このサッカーは正しい」とだけ、信じていたように見えた。

試合③:2002年FIFAワールドカップ 韓国代表 準決勝進出

大宮を退いて3年後、ピムは世界の舞台に立っていた。

フース・ヒディンクのアシスタントとして迎えた2002年日韓W杯。 韓国は次々と強豪を撃破し、ベスト4に進出する奇跡を起こした。

あの赤い壁を組織した戦術の一翼に、ピムの知恵が流れていた。 大宮の片隅で2年間、オランダのサッカーを伝えようとしていた男が、今や世界のサッカー史に名を刻んでいた。

開拓者は去ったが、種は残る

ピム・ファーベークが大宮を指揮したのは、たった2シーズンだった。

タイトルはない。昇格も果たせなかった。

でも彼が残したものは、スコアでもトロフィーでもない。 「ボールを動かす。全員が連動する。スペースを使う」という哲学。 それを、プロ化したばかりの大宮という土に、最初に植えた人物が彼だった。

種は、時に10年後に芽吹く。20年後に花を咲かせる。

渋谷洋樹がJ2優勝を成し遂げたとき。 中村順がアカデミーで次世代を育てるとき。 ロバート・ファーベークが兄の後を追って大宮のベンチに立ったとき。

ピムの影が、そこにあったのかもしれない。

2019年11月、彼は逝った。

でも、問いは残る。

あなたが今見ている大宮のサッカーの中に、 あのロッテルダムのオランダ人が最初に植えた哲学は、 まだ息づいているだろうか?