怠惰な高校生の心にじわりと焼き付いた物語
風が心地よい午後だった。
はっと気がつくと、授業はだいぶ進んでいる。慌ててページを合わせてシャーペンを握り直した。先生と目が合いそうになって、さっと視線を落とす。
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高校2年生。将来の夢もやりたいこともわからない。勉強の意味も見出せずに、部活を逃げ場にして、過ごしていた。
中学生までの、がんばって勉強して、いい高校いい大学に行って母を喜ばせるんだという熱い気持ちはどこ行ったんだ。
実力テストは「今の実力だから」なーんて、みんなが言ってても、本当に勉強してない人はどこにいるんだ。特別進学クラスの中では、私だけだったかもしれない。
そんな怠け者の高校生だったから、授業の内容や先生の言葉で心に残っていることは少ない。
「国語の教科書」と聞いて思い出せること…か。
noteを何気なく見ていたら、ぴこんと通知が。フォロワーさんのチェーンナーさんが参加している企画だそうだ。
なんかあったっけ…と、頭の中で記憶を辿ると、思い出せることがひとつだけあった。
… 串が刺さった鼠が溺れかけながら、必死にもがいている。その鼠に笑いながら石を投げつける大人や子供。
不思議とこのシーンが頭に焼き付いて、消そうとしても消えなかったんだった。
そう、志賀直哉「城の崎にて」だ。
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今思うと、これまでの人生で何度も「生きる意味」を考えてきた。
私は、なぜ生まれてなぜ今ここにいて、何のために生きていくんだろう。
大好きな家族も、誰かを好きになっても、いつか別れてしまうのに何のために出会うんだろう。
死んだらどこに行くんだろう。
死んだら体は、意識はどうなってしまうんだろう。
そうやって、自分の存在意義を考えては漠然とした不安を感じたり、虚無感を覚えたりした。
だから「城の崎にて」に妙に惹きつけられたのかもしれない。
離婚して家を出ていた父が亡くなった時
中学から付き合っていた彼氏と別れた時
大好きだった祖父が亡くなった時
新卒で出来損ないで毎日涙を流していた時
無力な自分が嫌で、いつも「消えて無くなりたい」と思い続け、生きる意味を問うてきた。
でも、悲しい時だけではなく、幸せな時でも「生きる意味」は常に、私に付きまとってきた。
たとえ
友だちと楽しくカフェでしゃべったり、遊んだり、飲んだり、馬鹿みたいに笑ったり、彼氏とデートして、手を繋いで、いろんな場所に行って遊んだり、セックスしたり、何気ないことで笑ったりしていても。
そんな何でもない日常なのに、いつまでこの幸せが続くのか、いつか死ぬのに馬鹿みたい。なんて悲観的に眺めているもう1人の自分がいた。
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生と死
「城の崎にて」では、いくつもその描写が描かれる。事故に遭った自分、蜂、鼠、イモリを通して。
命あるもの、いつかは必ずその命は終わりを迎える。
鼠のように、もがき苦しんで死ぬのは怖いと高校生の頃、強烈に意識してしまったんだろう。
私の死がどうなるのかは誰にも、私自身でさえ、わからない。でも、もがき苦しむ可能性があるからこそ、いつも「城の崎にて」を思い出しては、不安に駆られた。
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この企画を見かけて、今書いている記事のために「城の崎にて」のあらすじを読み返した。
そして、改めて今考えてみる。
「生きる意味」とは何か。
それは、本当にシンプルに
「ただ、生きること」
じゃないかと思う。
学生時代や新卒時代などと比べて、今はずいぶんと心の平安を取り戻せている気がする。
だからこそ、難しく考えすぎるのをやめることができている。
食べて
笑って
寝て
愛し合って
自分と大切な人が毎日元気に過ごすことができたら、ほかには何が要るんだろう。
確かに生きるためには、辛いことだってあるし、お金だって子どものことだって、今の私にだって考え出すと悩みが湧き出てくる。
でも、自身の心を整えることで、悩みは小さくなり、一旦脇に置いておけることを知った。
「城の崎にて」が心にしがみ付いていたのは、本当の意味で「生きる意味」に気づくための、伏線だったのかもしれない。と大袈裟に思っておこうと思う。
城崎。少し疲れた時、いつか1人で行きたい場所のひとつだ。
