【超解説】 エプスタインの案件のおそれ / 「アイズ ワイド シャット」
ドミートリイ・ショスタコーヴィチの作曲したワルツ第2番の軽快な旋律とともに、映画「アイズ ワイド シャット」は幕を開ける。クラシック音楽を愛好し、本作までの作品でも音楽に細心の注意を払ってきたスタンリー・キューブリック監督は、この選曲にもちろん意味を持たせているのだが、詳細は後述する。まずは開幕のシーンである。

これから出かける夜会のために着衣をストンと床に脱ぎ捨てるアリス(ニコール・キッドマン)の美しい後ろ姿によって物語は始まる。実は、このシーンこそが本作の核となっている映像である。と言うのも、この冒頭のシーンとほぼ相似の場面が本作(159分)のちょうど中間にある。例の仮面パーティの儀式において、若い女たちがまさに冒頭のアリスを思い出させるように、ローブを床にストンと脱ぎ捨て、裸になるシーンだ。冒頭と中間の二つの場面は、明らかに互いを連想させる行動として撮られている。アリスとはいったい何者なのかーー、ということを探るためには、まず本作の構造を考える必要がある。
映画「アイズ ワイド シャット」は、ビル(トム・クルーズ)が主人公のように撮影されている作品だ。カメラは基本的にビルの行動を映している。なお、Bill という名は英語名 William の通称であり、また「紙幣」や「会計」を意味する単語でもあることに留意してほしい。そして倦怠期のような雰囲気を醸し出している妻アリスは、劇中で何度も意味ありげな目線を鏡に向けている。この行為はもちろん、Through the Looking-Glass, and What Alice Found There (鏡を通って、そしてアリスがそこで見つけたもの)、すなわち『鏡の国のアリス』を観客に想起させるものだ。では、鏡を覗き込むアリスは何を見ているのかーー、と考えると、本作の仕掛けが見えてくる。

まず、本作の構造の話をする。
この物語は、表向きの主人公であるビルの「動揺」によって折り返している。すなわち、ちょうど中間で描かれる仮面パーティと、その直後にアリスから聞いた夢の話によって「海軍将校に抱かれるアリス」という妄想がビルを支配し、本作の後半でアイデンティティの危機が訪れる。アリスの告白を契機として本作が折り返すならば、アリスが鏡を通して見つめているものとは「本当のアリス」ではないか、と仮定できる。なぜなら、アリスは劇中で鏡を何度も見つめており、どこか諦念のような表情を浮かべていることといい、映画「アイズ ワイド シャット」とは、「妻としてのアリス」がビルに垣間見せた本当の姿や、夢の話によって、ビルを操っている物語として解釈できるからだ。映画の前半でアリスに対する戸惑いを募らせ、「良き夫」であることから足を踏み外そうとしたビルを、後半ではアリス(あるいはジーグラー)が軌道修正させ、良き夫ではなく「アリスにとって都合の良い夫」に変える話ではないのか、という仮説を立てることができる。つまり、妻としてのアリスと鏡に映る(本当の)アリスが鏡像であるように、この映画そのものが、アリスの告白とビルの動揺を鏡として、前半と後半が互いに鏡像のようになっているのではないかーー。
この仮説が正しいかどうか、読みやすく検証する。
以下に映画の冒頭から中間地点(仮面パーティ)までの出来事を時系列に並べる。その下の括弧の中には、映画の終幕から逆再生するように、出来事を時系列の逆に書いていく。なぜなら、鏡に映したものは前後が反転(俗に言う左右の反転)するからだ。
娘のヘレナが留守番の間に「くるみ割り人形」をテレビで観てもいいかと夫妻に訊ねる
(娘のヘレナが「バービー人形」を手に取り、夫妻に見せる)
↓
夫妻はヘレナをベビーシッターに預けてジーグラーの夜会に出かけ、別行動になる
(夫妻と娘が一緒にクリスマスの買い物に出かける)
↓
夜会にてビルはオーバードーズしたマンディを介抱し、ジーグラーの窮地を救う
(ジーグラーがビルを諭し、窮地を救ってやったと打ち明ける)
また、夜会から帰宅した夫妻は男女のありかたについて口論になる
(帰宅したビルが全てを打ち明ける)
↓
患者のネイサンソンが自宅で病死する
(マンディが病院で死ぬ)
↓
ネイサンソンの娘マリオンに何度もキスをされる
(サリーへの欲望を断ち切る)
↓
ビルのことを faggot (オカマ野郎)と罵るイェール大学生らに路上で絡まれる
(ドミノがHIV陽性であることを知る)
↓
ドミノの家でアリスに電話をし、ドミノに金を渡して去る
(ドミノの家でサリーに出会い、ケーキを渡して話をする)
↓
パスワード FIDELIO とニックが書いたナプキンを手にする
(屋敷の玄関で脅迫状を受け取る)
↓
貸衣装屋 Rainbow でアジア系の男二人組が店主とトラブルになる
(貸衣装屋 Rainbow でアジア系の男二人組が良い顧客になっている)
↓
パスワード FIDELIO によって仮面パーティに入場する
(ホテルの受付でニックの名前を出すとチェックアウトした後だった)
↓
仮面パーティ(アリスの夢の話)
映画「アイズ ワイド シャット」という物語そのものが、前半と後半が互いに鏡像となっている、という僕の仮定はおそらく正しい。そしてその鏡とは、ビルの精神に訪れた「動揺」という名の鏡であり、それは仮面パーティとアリスの夢の告白によってもたらされたものだ。これが本作の構造である。また、仮面パーティとアリスの夢の告白も、互いに鏡像のような関係になっている。ビルが「夢のような出来事を現実に目にした」ように、アリスは「現実に起きた体験を夢として語った」と言えるーー。
詳細は後述するとして、ここからは、本作の筋書きで重要なことであるビルの動揺と、アリスの正体について考える。
まず、ビルは医師である。しかもジーグラーのような上流階級の人物の担当医であることから、優秀かつ裕福な男だ。それは映画冒頭に映し出されるビルとアリスの住居によっても示されている。名前が Bill であることも、富を持った男としての造形に一役を担っている。価値や倫理などがこの世の中の常識に従う、真っ当な人物である。このことをキューブリック監督はスクリーンの青色によって表現している。
古来より青という色は、海や空がそうであるように、安定や落ち着き、信頼を表す。だから本作において、夜間の窓の向こうは全て青く光っている。また、ビルとアリスの家の玄関も、外側だけが青く塗られている。本作において青は、現代の都市の常識を象徴する色として使用されている。

この記事の冒頭で書いたように、ビルは出かける前まで居室でドミートリイ・ショスタコーヴィチのワルツ第2番を流していた。クラシック好きの方ならお分かりいただけると思うが、ショスタコーヴィチの交響曲ではなく、この曲を夜間に居室で流す医師の男とは、上流の暮らし「らしく」振る舞おうとしている、やや軽薄な男という印象を抱かせる。そういう意味でも、ビルは「青」の世界の男である。
また、劇中で何度も映し出される各所のクリスマスツリーの電飾はどれも虹に見えるよう光っている。映画の序盤の夜会のシーンにおいて、若い女の二人組がビルを誘惑する会話のなかで where the rainbow ends (虹がたどり着くところ)と何度か口にしたり、貸衣装屋の店名が Rainbow であることなど、本作では色を用いて象徴のように表現するというキューブリック監督の意気込みが伝わってくる。ちなみに、虹といえばもちろん「オズの魔法使い」を連想するが、Where the Rainbow Ends という表現は、イギリスで有名な子ども向けの演劇の題名と同じであり、これは「子どもたちが親を探す物語」である。この夜会のシーケンスでは、娘ヘレナがベビーシッターに預けられていたことを踏まえたユーモアでもあるだろう。
映画の冒頭からネイサンソンの死まで、ほぼ全てのシーンはスクリーンのなかが淡い色に見えるよう処理されている。夜会のシーンはもちろん、ビルとアリスの寝室もフィルターをかけたように色調が補正されている。このことは、ビルがまだ「青」の世界に安住しているため、アリスをはじめ世の中を「他の色」で見ることができていない、ということの表れだ。
劇中で唯一、赤い色が強調されたクリスマスツリーが設置されていたところは、マリオンのいた部屋(ネイサンソン邸)である。赤はもちろん、激情や愛を示す色だ。マリオンはビルに愛を打ち明け、数学の教授と結婚したくないと言い寄る。大学教授と結婚するという、経済に基づく判断(青)ではなく、たとえ妻子がいるにせよ愛する男はビルだから、という感情による生き方を表現する赤だ。このマリオンの生き方が伏線となり、後の仮面パーティのシーンが意味を帯びる。このように色によって、生き方の違いが描かれている。映画が進むにつれて色調の補正が無くなることは、ビルが「青」の世界から離れつつあることを示唆している。
仮面パーティにおいて、バルコニーからビルに会釈をする仮面の男がジーグラーであると推定することに異論はあまりないだろう。夜会でアリスと踊ったハンガリー人の富豪サンドール・サヴォストの可能性も残されているが、このように「断定できない曖昧なところ」に物語を設置することにより、本作の「夢のような現実、あるいは現実の夢」という主題が浮かび上がる。

さて、ヴェネチアンマスクのなかで Bauta (バウタ)と呼ばれる仮面を着けている男の隣に立つ女の仮面には、涙のような模様が描かれている。これは特に注意を引くデザインであり、先述のマリオンの「赤」の生き方の後にこのシーンを見れば、この涙は「仮面パーティに付き添わねばならないような相手を選んだ自身への涙」として解釈できる。つまり、バウタ仮面の男がジーグラーだと推定すれば、隣に立つ女とは、富のためとはいえ自身の境遇を嘆くジーグラーの妻である。実際にこの2人の身長差は、夜会でビルとアリスと挨拶した時に映るジーグラーと妻の身長差と同じである。
そしてまた、男の立ち位置によって、価値観の差が象徴されている。バルコニーに立つジーグラーは女の左手の側(観客から見て右)に立っている。それに対し、この直後にビルのところへ謎の女を連れて来る時には、女の右を歩いている。このことは、欧米で長らく伝統であった「右上位」を表している。
映画「アイズ ワイド シャット」の全篇にわたり、ビルが女と話す時には、必ず女の左に映っている(女の右手の側にいる)。アリスと会話をする時は左に映っており、マリオンとキスする時もビルは左に座っている。マンディの左に座って介抱をし、サリーの左に立って話をしている。ところが、例外が3箇所だけある。ドミノと会話をする時と、仮面パーティでマンディに先導される時、ビルは女の右に映っている。そして映画の最後のプレゼント屋においてビルは観客から見てアリスの右を歩いている。
つまり、世の中の「男が上位」という、「青」の世界の常識に従うビルは、女の右手の側にいる男として造形されているのだが、ドミノやマンディによって「引率」される時にその価値観が揺らいでいるという表現だ。ゆえに仮面パーティにおけるバウタ仮面の男がジーグラーであると仮定すれば、妻を自分の右手の側に立たせているという描写は、夜会での妻との立ち位置と合致する。ジーグラーは「妻をヨイショしながら乱交を楽しむ男」であり、妻はそんなジーグラーと生活を共にすることに対して「心のなかで涙を流している」という表現だ。マリオンの「赤」が際立つ構成である。
ここまで構造と色と立ち位置について解説したので、そろそろ物語そのものについて話をする。留意すべきことは、この映画そのものが「鏡」ということだ。
さて、夜会においてアリスはまずビルに「会場内に顔見知りはいるか」と訊き、次に「なぜジーグラーは毎年のように夜会に誘うのかしら」とビルに訊ねている。この会話は覚えておく必要がある。
ビルから離れ、ハンガリー人のサンドールを「あたかも誘うかのように」会話を始めるのだが、サンドールは唐突にアリスに対し、オウィディウスの著した The Art of Love (『愛の技法』)を知っているかと訊ねる。帝政ローマの人気の詩人の手によるこの著作は、後にオウィディウスの失脚の遠因となった可能性が指摘されているものだ。何が問題だったのかというと、この本の第3巻は女に対して「男をこうやって操りなさい」と説いたものだった。つまり男が上位という価値観をひっくり返すような、当時の為政者たちにとって極めて破廉恥な内容であった。そしてこの本についてアリスは知っており、オウィディウスは惨めな最期を遂げる羽目になったことを指摘している。
この会話を通して、男が上位という「幻想」を崩さずに保持しておく方が都合が良い、というアリスの態度が透けている。しかしその幻想、すなわち「青」の世界に染まっているビルを旦那にしている(おそらく経済の事情が大きい)以上、アリスには自らの「他の色」を発揮するところがなく、帰宅後に相変わらず「青」らしいことしか口にしないビルと口論になる。
ここでビルが I'm sure of you! (僕は君を信頼しているんだ)と言うと、アリスは腹を抱えて笑う。あなたは「常識」の人じゃないの、という反応だ。この直後にネイサンソンが死んだという電話により、スクリーンはパステル調でなくなり、ビルの「冒険」が始まる。ネイサンソンの娘マリオンが、大学教授ではなくビルと結ばれたいと懇願した態度は、ビルの妻としてビルを笑うアリスや、涙を流すような仮面を着けているジーグラーの妻と対照的に映る。
ところで、この I'm sure of you! というビルの発言の鏡像が、映画のほぼラストにビルがアリスに訊ねた Are you sure of that? (本気でそう思う?)である。このように、本作の発言の多くは鏡像となっている。いちいち列挙するとキリがないので省略する。
先述したように、ビルのアイデンティティの危機のキッカケとなったものはアリスの夢の告白だった。海軍将校とベッドを共にし、周囲の人たちも乱交しており、それから自身も乱交した、という「夢」だ。ところが、本作の鏡の構造を考慮すると、これは現実に起きたことを夢として語ったものと理解する方が道理にかなう。だから映画の冒頭におけるアリスの脱衣と、仮面パーティの儀式での女の脱ぎ方が相似になるよう撮影されている。

つまりアリスは、かつて仮面パーティに参加していた女、ということが強く示唆されている。おそらくジーグラーはビルよりも以前からアリスを知っており、またアリスはおそらく、ハンガリー人のサンドールと「かつて交わった」ことがある。シャンパングラスを置く所作は隣に立つサンドールへの合図にも見えるほど、会話を誘うような仕草として撮られている。アリスが毎年夜会に誘われる理由を察しているとすれば、ビルが得意げに「ジーグラーの担当医だからさ」と語ったことが滑稽に映る。
もちろん、バルコニーに立っていたバウタ仮面の男の正体が特定できないように、アリスの過去も断定は一切できない。ただし、もし仮面パーティでのビルの体験の鏡像として、アリスが「現実に起きたことを夢として語った」のであれば、よく考えてみると、そもそもこの「映画」そのものが作り話ではなく「実話」ではないのか、という疑問が浮かぶ。
そう考えると、この記事のヘッダー画像として使用しているアリスの目線の意味が分かる。この眼差しは、脅迫状を手渡された後に帰宅したビルをアリスが見つめているものとして理解できるように撮影されている。しかし、そうではない。アリスのこの視線は、観客に向けられたものである。いわゆる「第四の壁」をここで破っている。鏡ではなく、カメラを通して我々を見ているアリスが「私は夫の行動を知っている、そしてそれを隠している。私の過去についてもこれからも隠し続ける、なぜならビルは知らなくていいことだから」と語っている目だ。また、アリスとしてのキューブリック監督が「あなたたち観客はこの映画を観ているけど、本当に僕が撮っているもの、伝えたいものが見えていますか」と問いかけている目線でもある。目を見開いて(eyes wide open)映画を観ているはずなのに、観客の多くはビルが「浮気を企む男」でアリスが「自宅で夫の帰りを待つ妻」のように、「青」の世界の価値観でしか物事が見えていない(eyes shut)のではないか、と指摘している眼差しだ。
以上のことを踏まえると、映画「アイズ ワイド シャット」がよく見える(open)ようになる。
たとえば、映画の序盤の夜会において、ビルを誘惑した若い2人組の女のうちの少なくとも1人は、仮面パーティにおいて3人で同性愛に興じている。仮面を着けているために分かりにくいものの、髪型で見分けられる。なお、過激な画像なので、この記事の成人指定を避けるために省略する。気になる方は映画を観ていただきたい。なお、この女の役名は、夜会の時にビルに自己紹介したように、ヌアラ・ウィンザーである。ウィンザーが何を意味するか説明するまでもないだろう。

また、仮面パーティの最中にビルに帰るよう促していた女(マンディ)の代わりとしてバウタ仮面の男(おそらくジーグラー)が連れてきた女は、髪型と声からしてドミノである。

このように、ヌアラ、マンディ、ドミノのように、ビルが劇中で話をした女の多くが仮面パーティに出席している。ヌアラはおそらく性欲のために、マンディはおそらく薬物のために、そしてドミノはおそらく金銭のために、仮面パーティに参加している姿が描かれている。これらの登場人物は、「青」の世界の人たちがまるで先入観のように決まり文句にしている「女を食いものにしている男たちの被害者」ではない。ちょうど映画の前半でビルがアリスの生き方を決めつけていたように、我々は女という性について勝手な偏見を持ち込んでいないだろうかーー。実際に「浮気を企むビルと、自宅で不満げに待つアリス」という先入観のようなものを抱えて鑑賞した観客が大半だろう。しかし、その発想(偏見)こそが「男が上位」という価値観の産物ではないか、ということだ。だから映画の序盤でオウィディウスを参照している。
つまり、本作で描かれているように、たとえそれが金のためであれ薬物や性欲のためであれ、会場に参加している女たちの多くは男と同様に「欲望」を持って臨んでおり、そしてその経験をアリスのように隠して生きている「妻」が世界中にいるという、「主役としてのアリス」に焦点を合わせている。キューブリック監督は本作によって、現代のオウィディウスのように、男が上位という価値観が偏見に過ぎないことを指摘している。
ゆえに、ジーグラーの邸宅から帰宅したビルがベッドの上に発見した仮面は、アリスが置いたものだ。ビルは尾行された経験から、自宅に不審者が侵入して置いたに違いないと(多くの観客と同様に)錯覚し、泣き崩れる。しかしこのシーンにおいて、アリスは自らの真横の枕に置かれている仮面に一瞥もくれない。何もかも把握しているアリスが第四の壁を破った目線のなかには「貸衣装屋に仮面は返却できなかったでしょ」という心の声も含まれている。映画冒頭の夜会でサンドールと踊ったアリスの鏡像として、夫が仮面パーティで着けた仮面と共に夢を見ている、というシーンだ。

ちなみに、ジーグラーの手配した尾行から逃げている最中、ビルは路上のキオスクでニューヨーク・ポスト紙を購入するのだが、その表紙にはよく見ると LUCKY TO BE ALIVE (幸運にも生きている)と書かれている。ちょっとした遊び心である。
さておき、本作の後半においてビルは「青」の世界から少しずつ離れつつあるように見えるものの、しかし完全にアリスによって操られたまま終幕となる。映画の冒頭で「僕の財布を見かけた?」と訊ねつつ、アリスの言うことを上の空で聞いていたビルの鏡像として、終幕前のプレゼント屋では「どうすればいいのかな」と相談する立場になっている。アリスの右手の側を自信満々に歩いていた姿は影も形もない。
こうしたビルの変化は、仮面パーティへのパスワードが FIDELIO であったことと重なる。fidelio とは「誠実な」を意味するラテン語の形容詞 fidelis から派生した単語だが、クラシック音楽ファンならばベートーベンの唯一のオペラ作品「フィデリオ」を思い出すだろう。僕の好きなオペラだ。このオペラは、夫に忠節を尽くす妻レオノーレが「フィデリオ」という男に変装し、監獄に忍び込んで夫フロレスタンを救出する、という筋書きだ。これを鏡に映すように書き換えると、妻への愛を見失いつつある夫ビルが仮面を着けて変装し、仮面パーティに忍び込んで妻アリスを困らせる、という本作の概略になる。
映画の最後の会話は、アリスがビルを言い含めるようにゆっくりと語る。これ以上ビルが「詮索」しないよう、ジーグラーとアリス自身のために、ビルの不安や動揺を宥めるシーンだ。この会話のなかで唯一、僕が理解しかねた箇所がある。ビルが forever という単語を口にすると、アリスが It frightens me.(それ怖いのよ)と応じたところだ。なぜ forever という単語が怖いのか、本作を見てもさっぱり分からず、「Kubrick forever」と Google 検索をしたところ、答えに辿り着いた。こういう時にこそ検索は便利である。これは、キューブリック監督作「シャイニング」において、ホテルの廊下で2人組の女子が forever と囁いた直後、悲惨な死体となる悪夢をダニーが見たシーンのことだ。この作り込まれた映画「アイズ ワイド シャット」の終幕に挿入された、キューブリック監督のユーモアである。
最後の台詞にあたるアリスの一言、Fuck. とは、映画の冒頭において仮面パーティではなくジーグラー夫妻による「健全」な夜会に出かけるために準備をしていたアリスの鏡像である。冒頭ではアリスは不満を抱えた妻であり、夜会からの帰宅後にビルに愛撫されても心ここにあらずの様子だった。つまり、アリスが求めているものは「青」の世界で流通しているような make love ではなく、fuck だということだ。これが妻としての、あるいは母としてのアリスではなく「本当のアリス」である。
また同時に、冒頭で描かれたようなビルの態度に対しても、あるいは妻という立場に対しても、もっと大きく言えばこの「文明」を動かしている価値観そのものに対して、クソクラエ(fuck)と、本当の主人公が吐き捨てる終幕である。そしてショスタコーヴィチのワルツ第2番が、冒頭のように室内に流れている音楽としてではなく、BGMとして挿入され、この「鏡」の物語は終わる。
1999年3月5日、スタンリー・キューブリック監督はイギリスのワーナー社の役員たちを自宅に招き、本作のテスト上映会を催した。その2日後、キューブリック監督は「原因不明の心臓発作」により亡くなった。
<余談>
以下は余談である。2019年から世間を騒がせているジェフリー・エプスティーンの案件のせいで、本作がにわかに注目を集めている。
(Epstein という姓を英語ではエプスティーンと発音する)
しかし、本作の主旨とは以上の記事のように、メディアが喧伝するような「女を食いものにする権力者たち」という視点の真反対から撮られたような作品である。そのような発想こそが「男が上位」という偏見から生まれるものだとキューブリック監督は指摘している。
実際に、エプスティーンの案件にせよ、世界中で行われている富裕層による「パーティ」にせよ、大勢の成人した女たちが参加している。この女たちのほぼ全員が「金持ちの餌食になった被害者」なのだろうか。また、参加した女たちのほぼ全員は、おそらく配偶者やパートナーにその過去を隠しているだろう。
それに、エプスティーンの案件では「未確認」のことながら、明らかに責任能力があるとは言い難い年齢の子どもたちが含まれている。これは小児性愛という、本作とは別件の事柄であり、明確な犯罪である。映画「アイズ ワイド シャット」の題材とは異なる次元の話だ。子どもたちは被害者である。
たまに「娘のヘレナはラストシーンで拉致された」と主張する人たちがいるようだが、以上の僕の記事を読めば分かるように、映画「アイズ ワイド シャット」には児童は関係がなく、そのような解釈は牽強付会である。ただし、貸衣装屋の娘が売春しているシーンを挿入したように、未成年の性がビジネスになっていることは明確に指摘されている。
文中にも書いたように、本作のなかでジーグラーが「このことを絶対に他言するな」と語った仮面パーティとは、ほぼ間違いなく実在するものであり、むしろ、キューブリック監督が直接目撃したか、あるいは信頼できる誰かから聞いたことを、そのまま忠実に「映画」にしたものだと僕は考えている。このことを表現するために、アルトゥル・シュニッツラーの『夢小説』を原作として選んだ気がしてならない。つまり、これは映画ではなく映像化だろう。おそらく、実際の光景をかなり忠実に再現したもののはずである。
以上の記事が何かの参考になれば幸いである。
