【歌詞考察】日向坂46『Kind of love』は恋なのか?

「好きなような気がする」。
好きだ、ではない。
好きかもしれない、でもない。
「好きなような気がする」。
いったいこの曖昧な表現はどういう意味なのでしょうか。
そして、なぜ "love" ではなく "Kind of love" (恋のようなもの)なのか。
しゅへと申します。
日向坂46の『Kind of love』の歌詞考察記事です。
『Kind of love』をすでに聴き込んだ方向けに、歌詞世界を掘り下げて一層この異色のラブソングを好きになりましょう!という趣旨の記事になっております。
個人的な見解が多く含まれますが、どうぞ最後までお付き合いください。
思い当たるその痛み

初見時、私がもっとも印象に残ったフレーズです。
まるで国語の問題だな、と思ったからです。
問題
「思い当たるその痛み」とはどのような痛みか。40字以内で説明しなさい。
実はかなりの難問です。あなたはどう考えますか?
「僕」はレッカー移動される車を見て、どんな痛みに心当たりがあって、見知らぬ誰かを憐れむまでに優しくなれたのか?
この問いを手に記事を読み進めていただければと思います。私の回答は、記事の最後で示します。
自信のない片想い系

信号、標識、駐車違反、レッカー、渋滞、右折車線、ウインカー。恋を語るにしては不思議なほどに、交通の言葉で溢れているこの曲。
アップテンポな疾走感と裏腹に、こうした交通ルールのフレーズは主人公である「僕」のスピードを縛り付けているかのようです。
「信号も標識も いつだって守って来た」
信号や標識とは、世界を予測可能にしておくための装置です。赤なら止まる、青なら進む。そのルールに従っている限り、自分の周りで何が起こるかは事前にわかる。
「僕」は、そうやって自分の人生を安全に運転してきた人なのでしょう。
そして直後に続くのが「自信のない片想い系」という自己規定です。
「系」が重要です。実際の状況とは関係なく、「自分は片想いで終わる側の人間だ」と自分のタイプをあらかじめ決めている。
ルールに従うことも、片想いのまま留まることも、根は同じです。自分からは動かない。動かなければ傷つかない。予測可能な世界から出なくて済む。
ところが、その安全圏に、何かが割り込んできました。

「渋滞中無理やり割り込む右折車線の横暴さ」
私は車を運転しないのでピンと来ず、これどういうことなの?と友人に尋ねたところ、心優しい友人がとてもわかりやすい概念図をよこして来ました。

渋滞で直進車線がびっしり詰まっているところに、本来まったく別方向に行くはずの右折車線の車が、強引に割り込んでくる状況です。直進車線で順番を守って並んでいる側からすれば、理不尽きわまりない。
しかも「心のウインカーを出さなきゃ伝わらない」。ウインカーとは、これから自分がどう動くかを周囲に予告する装置です。つまり割り込んだ恋心は、予告なしにやってきた。
ルールを遵守することで、予測可能な(楽な)世界に生きる「僕」の心は、大きく乱されることになります。
肉体と精神のバランス

この曲には、神経伝達物質の名前が三つ登場します。
ドーパミン、アドレナリン、セロトニン。
交通系の用語と同じく、恋愛ソングとしてはかなり異色の語彙です。
「何か叫んでるドーパミン」
ドーパミンは報酬への期待に関わる物質で、「手に入るかもしれない」という不確実な状態で最も活発になります。「僕」はそれを「何か叫んでる」と描写しています。何を叫んでいるのかはわからない。ただ身体が勝手に反応している。
「制御不能のアドレナリン」
アドレナリンは本来、生命の危機に際して身体を臨戦態勢にする物質です。つまり「僕」の身体は、恋を危機として処理している。
「乱れてしまうよ セロトニン」
セロトニンは精神の安定を司る物質で、恋愛初期には分泌が低下することが知られています。平穏の土台が崩れる。
こうして三つを並べると、構図が浮かびます。
つまり、ドーパミンが期待で暴走し、アドレナリンが身体を危機モードに置き、セロトニンが低下して精神の安定が崩れる。
それにしても、アドレナリンが放出されるほどの「生命の危機」とは大袈裟な話ですね。しかし、以下の歌詞を見れば、これが「僕」にとって非常に重大な局面であることに気付かされます。

「肉体と精神のバランス」
さらりと書いてありますが、極めて重要なフレーズです。
肉体が興奮し、精神の安定が失われる。神経伝達物質によって肉体が精神よりも優位な状態になっている。つまりこの「肉体と精神のバランス」というフレーズは、今まさに失われようとしている、「僕」にとって非常に重要なものを表しているのです。
「僕」はこの、自分の心に割り込んできた「これ」を、「恋」と呼んでいいのか?と迷い続けます。それは「これ」が、さまざまな神経伝達物質によって自分の精神を制御不能にしてしまう、恐るべき破滅を予感させるものだからです。
恋とは続く長さ 愛とはその深さをいう

「恋とは続く長さ 愛とはその深さをいう」
ここ、非常に印象的なフレーズですね。好きな歌詞に挙げている方も多いですが、よくよく読んでみると、ここに「僕」の張り裂ける痛みが描かれています。
「僕」はここで、恋と愛を定義しようとします。「〜をいう」という語尾は辞書や教科書の文体で、なんとも他人事のような言い方ですね。自分がまさに渦中にいるはずの感情を、外側から概念として整理しようとしている。
この態度は、これまでと一貫しています。
信号や標識でルールを作り、プロセスを計画し、「片想い系」と自己分類する。すべて、予測不能なものを予測可能な枠組みに収めようとする試みです。恋と愛の定義もまた、恋愛に対する交通標識なのでしょう。
「水平線よりも長く どんな海よりも深くありたくて」
切実で、とても美しい比喩です。
しかし注目すべきは、この理想の恋愛像が徹底的に穏やかであることです。水平線は果てしなく広がる凪いだ海を思わせ、深い海は凛として静かです。
ここには、ドーパミンの叫びも、アドレナリンの暴走も、セロトニンの乱れもない。
つまり、「僕」が思い描く「本物の恋」とは、相手を深く理解し、長く寄り添い、そしてそのことによって心が乱されない状態なのではないでしょうか。
誰よりも相手のことを知っている。だからこそ不安も動揺もない。「肉体と精神のバランス」が保たれたまま、穏やかに続いていく関係。それが「僕」にとっての恋の完成形なのだと思います。
しかし、現実はどうか。直後にそっと置かれた言葉があります。
「(君をもっと知りたい)」
まだ知らないのです。水平線のような長さも、海のような深さも、まだどこにもない。あるのはただ、知らない相手に対して身体が暴走しているという事実だけ。
「僕」が理想として描いた恋が「相手を深く知っている」ことによる安定だとすれば、いま経験しているこの状態はその対極にある。相手を知らないからこそ心が乱され、知らないからこそ制御不能になっている。
ここに、「僕」の最も深い亀裂があります。
「僕」が「こうありたい」と願う恋愛は、相手への理解に裏打ちされた、肉体と精神のバランスの取れた状態。
しかし実際に身体を侵食しているのは、相手を知らないまま引き起こされる一方的な化学反応です。これは「僕」の定義に照らせば、恋と呼ぶに値しない。
恋の出来損ない、恋のようなもの。Kind of loveでしかないのです。
Kind of love 好きなような気がする

「Kind of love Kind of love 好きなような気がする」
これを、「僕」がまだ自分の気持ちに気づいていない、と読むこともできるでしょう。しかし、ここまで見てきた通り、「僕」の身体はとっくに反応しています。
「僕」は気づいていないのではなく、これを「恋」だと認めることができないのだと、私は思います。
なぜか。先ほどみたように、「僕」には、恋とはどういうものかという確固たる定義があるからです。長く続き、深く理解し合い、心が穏やかに保たれる関係。肉体と精神のバランスが取れた、美しく秩序立った状態。
ところが自分の身体に起きていることは、その理想とはまるで違います。インフルエンザのように伝染し、渋滞に割り込む車のように横暴で、心のウインカーも出さない。しかも相手は何も気づいていない。いったいこれのどこが、水平線のように長く、海のように深い恋だというのか。
「ああ これが恋なのか?」
「僕」は、「これ」が恋であるとは認めたくありません。だから「Kind of love」なのです。恋ではない、恋のようなもの。こんなものは本物ではない。
しかしそれでも、「僕」は「君を見つめてしまう」。
こんなに心を引っかき回される厄介なものに、恋のまがいものに、それでも強く惹きつけられてしまう。
理想と現実に引き裂かれるような思いこそが、「僕」の抱える「痛み」なのです。

冒頭で宙吊りにしたままだった問いに戻りましょう。
問題
「思い当たるその痛み」とはどのような痛みか。40字以内で説明しなさい。
駐車違反をした人のことを想像してみてください。
多くの場合、その人は「ここに止めるのは良くない」とわかって止めています。
わかっていて、それでも止めざるを得なかった。その人の中にはすでに、「いけないことをした」という自覚があるのです。
レッカー移動の本当の痛みは、車を持っていかれることそのものではありません。自分の中でうっすらと抱えていた「いけないことをした」という自覚を、外側から突きつけられ、逃げ場なく再認識させられることです。
自分の中にある判定を、制度が可視化してしまう。自分で自分を裁いていたものを、もう誤魔化せなくなる。
「僕」に起きていることも、構造としてはまったく同じです。
「僕」の中では、二つの声が同居しています。一方では、「これを恋と呼んでしまいたい」という誘惑がある。「僕だけのそばにいて」と叫び出したい。
しかしもう一方では、「これは恋ではない」という判定が作動している。自分が信じてきた恋の定義(均衡の取れた理想の関係)に照らせば、こんな制御不能な衝動は恋と呼ぶに値しない。
「僕」は、自分の内側で自分を裁いているのです。「恋と呼びたい自分」を、「恋の定義を守りたい自分」が却下し続けている。
だから、レッカーされる見知らぬ誰かの痛みに「思い当たる」のです。そのドライバーも、自分で薄々認めていたことを、外から突きつけられて再認識させられている。自分も、自分の中で薄々認めかけていることを、自分の中のルールに却下され続けている。痛みの形が、同じなのです。
私の答え
自分の中で薄々認めかけていることを、自分の中のルールに却下され続けている痛み。
この一節は、歌の早い段階ですでに、この曲のすべてを先取りしています。「僕」が恋という概念ルールを手放せないこと、にもかかわらず身体がそのルールを裏切りつつあること、何より自分がそうした板挟みの状況から動けないこと。その二重性の痛みを、「僕」は自覚しているのです。
「好きなような気がする」とはぐらかす「僕」は、決して鈍感なのではありません。かつてないほどに身を震わせるような「これ」を「恋」と呼んでいいのかと迷いながら、「Kind of love」という解釈に一旦停めざるをえない状態なのです。
というわけで
私が見た『Kind of love』の歌詞世界、お付き合いくださりありがとうございました。
メロディーの雰囲気もあいまって、「僕」があたかも強大な「恋のようなもの」に立ち向かっていく力強さを感じられる曲だなぁと思います。とても好きです。
「ああ これが恋なのか?」も、制御不能な怪獣を前にして、つい漏れてしまった主人公のセリフのように聞こえてきませんか。
正直、かなり異端な解釈だとは思っていますが、かと言って私にはこれ以外の解釈はないようにも思え、結果として『Kind of love』を異色のラブソングとして楽しむことになりました。
あなたにとっての「Kind of love」とは何か、ぜひ教えてください。
ではまた。
