その時、天使はささやいていた。
『今日は天使のささやきの日です。』
テレビでそう言っていたので、風呂の中で思い出そうとした。
今まで、私に天使がささやいてくれたことはあっただろうか……
天使…天使…
けれど、どうしても思い出せない。そればかりか、天使を思い出そうとすればするほど”悪魔”の顔ばかりが思い出される。
私はあきれて風呂を出た。
「いいことなんて一つも無いな」
ため息交じりに吐き捨てるが、正確には少し違う。無いのではなく忘れているだけなのだ。
人はいいことは忘れ、悪いことは憶えているものだという。
いい人の存在は簡単に忘れ、悪い人の顔だけは一生忘れない。
やれやれ、悲しい生き物である。
私は諦めきれず、夜中に『天使』を探しはじめた。
何処かに必ずいるはずだ!
目を凝らすと、リビングのガジュマルの鉢の下、2番目の引出しがキラッと光ったような気がした。
あそこか!
ダイヤモンドダスト
2番目の引出しを開けると、そこにはメモが残されていた。
『ここにたからものはありません』
1番上の引出しと3番目の引出しも開けてみたが同じことだった。
そのメモを手に取ると、ガラクタの中から豆粒ほどの小さな天使が顔を出してこう言った。
「一番大切なものを、失くさないように盗まれないように、どこかにしまおう。金庫の中? 枕の下? 引き出しの奥? さてどこに隠そうか。」
いえね、どこかにしまったはずなんだけど、どこにしまったのか思い出せなくて、いま探しているところなの。知ってるなら教えてよ。
「心の中はどうでしょう?誰にも盗まれない、心の中。」
*
天使は、まるでダイヤモンドのかけらのように小さな小さな出来事を拾い集めては、私の心の中にせっせと隠していたのだという。耳をすませばその砂が心の中でこすれ合う音がする。だけど心の中は目で見ることも、宝物を手に取ることもできないじゃないか。
「は、はくしょん!」
やれやれ。
風呂上りですっかり湯冷めした私は、引出しを閉めて寝ることにした。
コーヒーを淹れる
新しくできたカフェは、まるで工場のようだった。
高い天井にはいろんな配管が張りめぐらされていて、コーヒーのデキャンタにつながるパイプを見上げると、とんでもなく高い所にガラスの水瓶があった。
「水が一滴づつ落ちてるでしょ。この一滴がいつコーヒーの一滴になるかは分かんないんだ。ロマンだよね~」
白い顎髭のおじさんはそう言って、ニコニコご機嫌そうに笑いながら小さなフライパンで豆を煎っている。
「このコーヒーは冷やして明日飲むんだよ。一晩寝かせなくっちゃいけないんだ。20杯分しかできないからね、20人限定さ。」
明日?!20杯?!……周りを見わたせば、店内はたくさんの客で賑わっている。足りていないのでは?私はひどく現実的な質問をしようとして、コーヒーと一緒に急いで吞み込んだ。
おじさんはきっと、コーヒーが心底好きなんだ。彼こそロマンだ。
来る日も来る日も飽きることなく、おじさんはコーヒーを淹れる。好きっていう、それだけの理由で。
店長の夢
「どうしてカップルに結婚式を挙げてほしいのかというと、、実家が小さな小さな結婚式場だったんです。」
コーヒーを一口飲むと、彼はぽつりぽつり話し始めた。
日本海が見える小高い丘の、青い屋根のチャペル。
お母さんが衣裳とお花、お父さんが写真を撮って、小さな結婚式を切り盛りしていたそう。
彼は小学生の頃から家業の手伝いをしていた。お母さんと一緒に衣裳やお花を運んだり、学校が休みの日には結婚式の様子を眺めて育った。彼の日常の中には結婚式があり、そこではたらく両親の姿があった。
「今は閉館してしまったんですけど、その青い屋根のチャペルをいつか継ぎたいと思ってるんです」
そう話す彼の職業は、結婚指輪ショップの店長。
「最近は結婚式をしない人が増えてきたけれど、ボクは指輪だけじゃなくて結婚式を挙げてほしいんです。」
なんか自分の話ばかりですみません…と彼は、冷めてしまったコーヒーを飲み干した。
ゆっくり歩く
そのチャペルはこじんまりとしていて、映画に出てくるような大聖堂に憧れを抱く人には不向きといえた。
バージンロードは明るく柔らかい色のフローリングで、祭壇までの距離は8mしか無かったが、それを見た彼女はにっこり微笑んでこう言った。
「長すぎなくてちょうどいいね」
バージンロードは長ければ長いほどいいとは限らない。
彼女はお父さんと一緒に短いバージンロードをゆっくりと歩きたかった。足の不自由なお父さんがつまずかないように、疲れないように。
*
扉が開き、親子はゆっくりと歩きだした。
半歩。また半歩。
アヴェ・マリアを奏でるオルガンが、親子の歩調に合わせてテンポを落とす。拍手がだんだん大きくなっていく。
半歩、また半歩。
嗚呼、もしも天使がいるのなら。
この瞬間を心に刻んで、生涯の宝物にしたいのです。
歩む先では、牧師が微笑みながら見守っている。
ダイヤモンドのように輝く言葉を携えて。
「あなたが素晴らしい家族と出会えた理由は、あなた自身が素晴らしいからです」
この世界はみんなのもので、たった一人のためにある。
宝物は夢の中に
ピピピピ、ピピピピ、、、
いつものように、スマホのアラームが鳴って目が覚めた。
この時期はカーテンの隙間から、朝日がちょうど寝ている顔に当たる。のどが痛い。
なにか夢を見ていた気がするけど思い出せない。
今日は休みだ。ぼーっとした頭でしばらくまどろみ、二度寝を決め込もうと寝返りをした途端、
「は、はくしょん!」
くしゃみで思い出した。昨夜、夜更かしをしたから風邪をひいたのだと。
風邪薬はあったかな?
リビングの2番目の引出しを開けてゴソゴソと探す。
ぜんぶ夢だったのかな…
ささやかな花でいい
大袈裟でなくていい
ただあなたにとって 価値があればいい
