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みかんとキミとサッカーと。

小学2年に上がるタイミングで、我が家は東京・神田から郊外の団地に引っ越した。
その団地は建ったばかり、同時期に何百世帯もの家族が入居した。

高度成長期真っ盛りの昭和53年。
近隣の埋立地には雨後の筍のごとく団地やマンションが建てられ、その街にあった小学校がたちまち子供たちで膨れ上がった。
当時、一学年8クラスあったと記憶している。

神田時代の私は、病弱で引っ込み思案、大人しく目立たない存在であった。
今からは想像もつかないが(笑)。
2年生になったら、気分も新たに積極的な子供に変身しようと目論んでいた。
「今までのひ弱で引っ込み思案のキャラから卒業するんだ」
私は転校先の小学校での新生活を、期待に胸膨らませて今か今かと待っていた。



さて、転校先の朝河小学校(仮名)の始業式。
の日だったか翌日だったか。
担任の先生が
「学級委員を男女一人ずつ決めたいと思います」
と言い出した。
私は真っ先に「ハイ!」と勢いよく手を挙げた。

…教室内はしんと静まり返っていて、誰も挙手していなかった。

あれ、ここはみんな競って手を挙げるシーンじゃなかったの?
ヤバ、恥ずかしい。。。

挙げた手を引っ込める前に、先生がクラス全員に問う。
「みんな、女子の学級委員は紗雪さんでいいかな?」
「いいでーす」

待て待て待て待て、ちょーっと待ってくれぇぇぇぇぇい!!

私の心の叫びも虚しく、この時から2年1組の学級委員を1年間務める羽目になった。

男子の学級委員は、在校生であった小野寺浩くん(仮名)がなった。
いかにも腕白でガキ大将という雰囲気を醸し出し、みんなに推薦されるのもわかる気がした。



覚束ないながらも、学級委員として務めて数か月経った頃だろうか。
その日の給食で、たまたまデザートにみかんが出された。

自宅では、母がみかんの薄皮をひと房ひと房ていねいに剥いて食べていた。
だから「みかんは薄皮を剥いて食べるもの」だという刷り込みがあった。

ところが周囲を見渡すと、誰もが薄皮など剥かずにそのまま口に放り込んでいるではないか。
うわぁ、どうしよう。
薄皮がどうしても呑み込めず焦った私は、子供ながらにない知恵を絞った。

それは
「頬っぺたの内側と歯茎の間に薄皮をため込んで、給食が終わり次第トイレで吐き出して流しちゃえ」
という作戦だった。

しかし、私の給食を食べるスピードが遅く、トイレに行く暇がなかった。
先生に「帰りの会を始めるから戻って」と声をかけられて、泣く泣く教室に戻らざるを得なかった。
「みかん薄皮トイレ流出作戦」は未遂に終わってしまったのだ。

今度こそ「絶体絶命の大ピンチ」だった。
私の背中を脂汗がツツっと伝って落ちた。

何故なら朝の会と帰りの会は学級委員がやるものと決まっていた。
だから、私はみかんの薄皮を口に溜め込んだまま、教壇の前に立つ事態に陥ってしまったのだ。

なるべく口を開かないよう、喋らなくて済むよう、注意深く振舞っていたつもりだったが、恐らく先生含めクラス全員が、私の挙動不審に気が付いていたに違いない。

何かの議題で意見を述べるために、並んで立っていた小野寺くんが挙手をした。
私は口を開きたくなかったから「ん」と指さすしかできず。

先生から
「ちゃんと名前で呼んで」
と注意が飛んだ。

もごもごしながら「おにょでりゃくん」と言った。と思う。
どれだけ恥ずかしかったことか、顔から火が出る思いだった。
あの時ばかりは先生を恨めしく思ったものだ。

3年生でクラス替えがあり、小野寺くんとは離ればなれになった。
私は前年ですっかり懲りて、学級委員に立候補するなどという真似は二度としなかった。



この朝河小学校は、体育に力を入れていた。
しかし、体育が苦手な私は逆上がりもまともにできず、跳び箱4段すら飛び越せず、放課後まで一人残って猛練習したものだ。
どれだけ頑張っても、通信簿の体育の欄はアヒルの行列だった。

4年生の、冬の体育の授業の時のこと。
校庭で縄跳びの練習をしていた。

二重跳びの練習をしていたが、ドンくさい私は、すぐにつっかえてしまう。
そこに、クラスが違うはずの小野寺くんがこちらに近づいてきた。

何だろう、と振り返ると
「貸してみ」
と私の縄に手を伸ばしてきた。

小野寺くんは2年間会わない間に精悍さが増していて、近寄りがたくなっていた。
怖かった私は黙って縄を差し出した。

すると彼はその場で二重跳びを始めたではないか。
たいそう綺麗なフォームだった。
私はポカーンと口を開け、思わず見惚れていた。

数回跳んで、彼は
「ほい」
と私に縄を返し、スタスタと校舎に戻って行った。

それ以来私は「あれは何だったのだろう?」と考える日々が続いた。
小野寺くんがどういうつもりで、私の縄跳びで二重跳びをしたのか。

あまりに下手くそな私を笑いに来たのか、あるいは昔のことをからかうつもりだったのか。
子供だった私には、そんな稚拙な考えしか思い浮かばなかった。

やがて、あまりにマンモス校になり過ぎた朝河小学校は、新設校への分校が決まった。住んでいる地区で生徒が分けられ、私ら団地勢は新設校へ5年生から編入することになり、小野寺くんは朝河小にそのまま残ることになっていた。

——今ならわかる。
きっと小野寺くんは、私に惜別の思いを込めて二重跳びのお手本を見せに来てくれたのだろう、と。



それから瞬く間に月日は流れた。
私が女子校時代に夢中になったのが、当時大流行した『キャプテン翼』だ。
今の名だたるサッカー選手が「大空翼」に憧れたように、私たち女子も例外ではなく、応援する側としてサッカーファンになっていた。
まだJリーグが発足する以前の話だ。

ある時、放課後の教室でサッカーファンの女子たちが何かを囲んでキャッキャと騒いでいた。
なんだろう?と覗いてみると、机にサッカー雑誌が置かれていた。
表紙を飾っているのは、かの小野寺浩くんではないか。

そのサッカー女子たちによると、超強豪校のキャプテンを務めるエースで、プロからも注目されているらしい、と記事に書いてあったそうだ。

そういえば小野寺くんの将来の夢は「サッカー選手か産婦人科医」だったっけ。
サッカー選手はともかく、何故産婦人科医なの?と尋ねると
「仕事で女のアソコが見られるから」。

……小学2年生にして、なんと破廉恥なマセガキだったんでしょう!

それはともかく、夢に向かってまっすぐ生きている小野寺くんが、お世辞ではなく「すごいな、カッコいいな」と素直に思った。



私が異郷の地で前夫とともに暮らしていた時のことだ。
日中家に引きこもり、友達もろくすっぽ居なかった孤独な私は、当時日本に上陸したてのSNSの魅力に取りつかれていた。
SNSやりたさに、iPhone3GSを購入したほどだ。

ふと、小野寺くんのことを思い出した。
あれからプロのサッカー選手になれたかな?

SNSなら何か情報があるんじゃないか。
そう思って調べると、彼のアカウントを発見した。

その時はもうプロを引退し、どこかのチーム監督をやっているという記述があった。
同級生として、そして一緒に学級委員を務めた仲間として、我が事のように誇らしかった。



ちゃんとプロサッカー選手になる夢、叶えたんだね。
小野寺くん、本当に良かったね。


みかんはあれから薄皮ごと食べられるようになったよ。


そして、あの時言えなかった「ありがとう」をここに記しておきます。



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紗雪(さゆき)| "しおん"と"桜 詩音"の中の人 あなたのお気持ち、頂けたら嬉しいです! 御恩は一生忘れません☆