正親町天皇と信長親子との絆を示す・大雲院
金閣,銀閣に続く“銅閣”こと祇園閣が境内にそびえる大雲院。なんと,この寺は,正親町天皇の勅命により建立されており,境内には,織田信長・信忠親子の墓誌がある。(京都市東山区祇園町南側)
祇園閣がそびえる大雲院
2024年7月,伊東忠太設計の祇園閣が特別公開中ということで,これを見ないわけにはいかないという思いで大雲院を訪ねた。当初の目的は,あくまでも,金閣,銀閣に続く,銅閣と称される祇園閣の拝観だったわけだ。祇園閣自体は,期待に違わぬ忠太ワールドで,最上階からの眺望も抜群であった。ここを別荘と定めた大倉喜八郎の人生の豊かさに嫉妬するばかりである。

織田信長・信忠親子の墓誌
さて,祇園閣を訪ねようとするまで,自分は全く知らなかったのだが,大雲院は,天正15年に正親町天皇の勅命により織田信長・信忠親子の菩提を弔うために創建された寺であり,境内には親子の墓誌があるのだという。確かに,墓域に入る門の脇には,織田信長公 信忠公 墓所参道の石柱がある。その奥にひときわ高く白っぽい石碑が見えるのだが,これが,総見院=信長と大雲院=信忠の墓誌らしい。祇園閣の最上階からも見下ろすことができる。石川五右衛門と墓域が一緒というのが,なんとも不思議な感じではあるけど。

二条新御所での信忠の最期
この寺の開山である貞安上人は,信長ゆかりの僧で,大雲院は,信忠の法名でもある。正親町天皇が,どうして,それほどまでに信長親子を篤く弔うのかということについて疑問に思ったので,少し調べてみた。天皇の皇子・誠仁親王との関わりが鍵なのだなと思った。織田信長が改修した二条邸が,のちに誠仁親王に献上され二条新造御所となる。そして,この二条新造御所が,本能寺の変に際し,織田信忠主従の最期の地となったのである。足利義昭のためにつくった旧二条城,のちに徳川家のつくった二条城などがあり,紛らわしいが,そのどちらでもない,二条新造御所が織田信忠最期の地なのである。信忠は,はじめ妙覚寺に宿泊していたが,二条新造御所に移り,誠仁親王を御所に逃したのちに防戦,自刃して果てた。信長同様に遺骸が見つかっていないのが不思議である。有楽斎が逃げのびたことを考えれば,信忠とて逃げきれないこともなかったような気もするが,それよりは,残念な結果になる確率の方が高かったのかなとも思う。光秀を利することのないようにするためには,全てを焼き尽くすことが最善の策だったのかもしれない。二条新造御所は,本能寺と同様に灰燼に帰したわけだが,その跡地に建立されたのが大雲院なのだそうだ。その後寺の位置は,変転し,現在は東山にある。二条新造御所のあたりは,現在マンガミュージアムがある辺りらしく,それを示す石柱がある。

正親町天皇の思惑
そもそも,織田親子は,正親町天皇親子の政治的・経済的な後ろ盾であったと思うけれど,本能寺の変に際し,親王の命を救ったことが天皇の心には強く残っていたのだろうか。ただし,正親町天皇には,本能寺の変の黒幕説もあり,その場合には後ろめたさから篤く弔ったとなるのか。そうは,考えたくないけれど。祇園閣見たさに足を運んだのだが,本堂では,遠目に信忠の木造も拝することができた。思いがけず,織田信長・信忠親子のエピソードに触れることができ,感慨はひとしおである。
