♯36 御三家筆頭の威光が蘇る・名古屋城
若き日の織田信長が居城した那古野城。そこに,清須の町を丸ごと引っ越して造られたのが,名古屋城と城下町。天下普請によって造られた巨大城郭は,徳川御三家筆頭・尾張徳川家の居城として,威風堂々たる姿で西国諸大名に睨みを効かせた。その威容は本丸御殿の復元によって蘇り,さらに天守閣の木造復元までもが検討されている。(愛知県名古屋市中区)
蘇った本丸御殿
名古屋城の歴史,規模・構造を私が改めて書き記す必要はなく,下記公式webサイトを閲覧すれば,ほぼ,全てが丸わかりと言っていいだろう。とはいえ,自分なりの感想くらいは記してみたいと思う。
城郭建築として国宝第1号となった名古屋城の天守閣と本丸御殿は,1945年(昭和20)の大空襲により焼失した。戦後,天守閣は1959年(昭和34)に再建されたが,鉄骨鉄筋コンクリート造りだった。天守閣と共に焼け落ちて礎石を残すのみとなった本丸御殿は,その後長らく再建されることもなかった。確かに,2008年11月に訪ねた時には,天守閣から本丸跡を見下ろせば,そこには御殿跡の礎石だけが並んでいた。

本丸御殿の復元工事は,その翌年2009年(平成21)から開始されたようだ。2018年(平成30)に復元が完了,蘇ったその見事な姿が公開されている。自分も,2022年10月の再訪時に,御殿建築と天守閣が重なる姿を目の当たりにし,その歴史的な景観の美しさに心を奪われる思いがした。




復元を支えた昭和実測図
昭和5年に,名古屋城の天守,本丸御殿,各隅櫓,門など江戸時代初期に建てられた建造物24棟が国宝に指定されている。これにより,当時の名古屋市は,建造物の調査に着手した。ところが,図面整理の最中だった昭和20年5月14日の空襲によって多くの建物が焼失した。この空襲の後,先に別置きされていた襖絵と調査資料が名古屋城外に疎開されて終戦を迎えたのだとか。戦後の昭和27年に図面の整理が終わって完成した実測図は「昭和実測図」と呼ばれ,昭和34年の天守閣再建はもちろん,今回の本丸御殿の木造復元に当たっても基本資料として大きな役割を果たしたようだ。





本丸御殿障壁画を守った乃木倉庫
御深井丸に残されている陸軍時代の弾薬庫は,乃木希典にちなんで「乃木倉庫」と呼ばれている。もちろん,名古屋城の遺構ではないが,名古屋大空襲の折に,本丸御殿の障壁画等を守った,名古屋城にとっては,大切な遺構となる。「よくぞ,守ってくれました。」と,感謝の言葉をかけてあげたい建物である。

乃木倉庫 登録有形文化財(平成九年)
乃木希典が名古屋鎮台に在任していた明治初期に建てられたと伝えられ、だれいうとなく「乃木倉庫」と呼ぶようになった。
当建物は、煉瓦造平屋建で旧陸軍の弾薬庫であった。昭和二十年五月十四日の名古屋空襲の際、天守閣、御殿等が焼失したが、本丸御殿の障壁画や天井絵類の大半を取りはずしてここに保管していたため被災を免れた。のちに煉瓦の保全のため白亜塗りにした。
なお、被災を免れた障壁画等は重要文化財に指定されている。
“美の壺”的な巨大天守閣
昭和34年に再建された名古屋城の天守閣は,鉄筋コンクリート製だったとはいえ,その威容には,「鉄筋コンクリートだっていいじゃないか」と,見る者を納得させるものがある。大阪城が,まるで,あり得ない場所にあり得ない姿で再建されていることを思えば,上出来である。
そして,名古屋城といえば,金のシャチホコばかりに目が行きがちだが,巨大でありながら,破風を効果的に配置して優美さも兼ね備える天守閣が,実に美しい。銅板で葺いた屋根が経年変化で緑青色になっているところに,破風の部分の黒チャン塗りがアクセントになっていて,語彙が少なくて申し訳ないが,やはり,美しいの一言に尽きる。



内部公開された本丸西南隅櫓
城内には,重要文化財指定の建造物が,櫓3つ,門2つ残されている。そのうち,2022年10月に訪ねた際には,本丸西南隅櫓(未申櫓)の内部が公開されていた。3階建てなのに,屋根は2重というのが,外観の特徴だ。西面と南面には,破風が付いていて,その形状が異なっているのも面白い。南面の方には唐破風も備わっていてオシャレだ。逆に,本丸側には飾り気がない。1612年(慶長17)頃の建造と推定されるが,1921年(大正10)に災害により一度倒壊し,1923年(大正12)に修復され現在に至るようだ。


櫓とは,平時にあっては倉庫なのだから,もちろん内部の造りは簡素である。藩主の鎧兜が収められ,御具足奉行が管理していたらしい。面白いのは,最上階にあった「御窓台(おまどだい)」である。もとは,天守の最上階の四隅に設置されていたもので,城主が遠くを眺めるための踏み台のようなものだ。この櫓内に移設されていたために,戦災を逃れることができたようだ。


櫓内から外を眺めると,ここから,現在は公園の正門として外観復元されている西の丸榎多門からの侵入者を攻撃できることが分かる。

東南隅櫓と本丸表二之門
本丸東南隅に置かれた東南隅櫓(辰巳櫓)も重要文化財に指定されている。その延長線上にある本丸表門は,渡櫓が失われているが,鉄板で覆われた二之門と両袖の土塀が残っている。櫓は,西南隅櫓同様,三階建てありながら,屋根は二重になっている。


戦災で焼失した本丸東門の跡には,昭和47年(1972)に旧二之丸東二之門が移築され,これも重要文化財に指定されている。高麗門形式で,鉄板が貼られている。高麗門は,やはり背面が美しい。焼け落ちる前の本丸東門も櫓門形式の一之門,高麗門形式の二之門だったというから,移築の違和感はないのだろう。


清洲城天守を移築か・西北隅櫓
御深井丸の西北隅櫓は,清洲櫓とも呼ばれる。清須越しに際して,清洲城の天守を移築したものと伝えられている。堂々たる規模,風格であり,並の城であれば,これが天守閣であって申し分ない。幅の広い水濠越しに見る姿は,圧巻である。



重要文化財 西北隅櫓
古名は戌亥櫓。清洲城天守を移築したと伝えられ清洲櫓とも称された。昭和三十年の解体修理により、古い建物の材木を一部用いて元和五年(1619)頃に造営されたことが明らかになり、清洲城天守の古材を転用した可能性が高まった。屋根三層・内部三階で、全国でも最大規模の隅櫓である。
外観が再現された西之丸三番蔵・四番蔵
西の丸には,かつて御蔵が建ち並んでいたようだ。発掘された六番御蔵の礎石の位置などが分かるようになっている。
また,三番御蔵と四番御蔵の外観を再現したという西の丸御蔵城宝館という展示・収蔵施設も建っている。外観だけでも,こうやって再現してもらえると,当時の様子を思い浮かべることができて良いなと思う。



名古屋城の石垣
名古屋城の石垣は,主に西国の大名20家に割り当てられて築かれた。「丁場割り」と呼ばれる持ち場の分担があったので,石垣には大名家ごとに記された刻印を見ることができる。
築城の名手・加藤清正は,名古屋城の石垣工事でも活躍したようで,「清正石」と呼ばれる巨石も残っているが,清正が担当したのは天守台の石垣なので,どうも,後の世の創作らしい。
広範囲に見応えのある石垣が続く名古屋城だが,1970年(昭和45)の豪雨で崩落した御深井丸北面石垣の修復をきっかけに,石垣の修復工事が継続的に行われている。





二の丸庭園と那古野城跡
二の丸庭園には,2025年,3度目の訪問で初めて足を踏み入れたが,圧巻の大名庭園遺構だった。規模も大きく,いくつもの築山や見事な石組みの池がある。民間に払い下げられていた御茶屋が再建され,周辺の庭園整備も進んでいるようだ。水の流れなども再現されたら,さぞ美しかろうと思う。



そしてこの二の丸庭園のあたりが,かつての那古野城の跡になるらしく,大きな石碑が置かれている。だが,刻まれた文字が読めない。

戊辰戦争と名古屋城
そもそも名古屋城は,西国諸大名への備えとして,徳川の権威を示すために築かれた巨大城郭であった。しかし,幕末,西から吹き荒れた討幕の流れを止める役割を果たすことはなかった。
尾張徳川家は,初代藩主の遺訓を守り,徳川御三家筆頭でありながら,勤皇の立場を貫いたということらしい。会津の松平家が藩祖の遺訓を守り徳川に忠節を尽くした上に見放され,辛酸を舐めることになったのとは対照的だ。石碑には,「王命に依って催さるる事」と刻まれている。

藩訓秘伝之碑
この碑文は初代藩主徳川義直の直撰「軍書合鑑」の中にある一項の題目で,勤王の精神について述べている。
歴代の藩主はこれを藩訓として相伝し,明治維新にあたっては,親藩であったのに,勤王帰一を表明したといわれている。
この碑の位置は,二之丸御殿跡である。
遺訓に従ったからなのか,藩主の座を退いても実権を握っていた元藩主の徳川慶勝は,明治新政府に与していた。そして,尾張藩内にあって旧幕府を支持する勢力を粛清してまで,新政府側にあることを明確にし,東海道,中山道筋の大名を新政府側に就かせるために尽力している。
徳川慶勝といえば,美濃高須藩松平家出身の高須四兄弟の1人である。この四兄弟の中には,明治新政府に徹底的にあらがった会津藩主・松平容保と桑名藩主松平定敬もいる。兄弟で,全く異なる明治維新を迎えたことになる。早くから新政府側についていたことで,名古屋城は戦火に見舞われることもなく,天守閣や本丸御殿など多くの建築物が残っていた。大空襲によって焼け落ちてしまったことが,本当に残念だ。
徳川御三家でありながら,明治維新に大きな役割を果たした徳川慶勝は,最後の将軍・徳川慶喜同様に写真を趣味としていた。名古屋城を写した写真も数多くあり,貴重な資料となっているようだ。激動の時代を生きた徳川慶勝は,明治政府の中で活躍の場を得るということはせずに,徳川一門やその家臣らたちの行く末に心を砕いたという。墓は,尾張藩下屋敷があった戸山荘(新宿区戸山)の南,西光庵にある。


平和裏に幕末維新を推進した人物
尾張藩主第十四代・第十七代徳川慶勝公墓碑(1824~1883)
江戸の町を戦火から救ったのは西郷隆盛と勝海舟の会談のお陰と言われている。しかし新政府軍が旧幕府勢力と一戦も交えることなく江戸に到達できるよう策を講じたのは名古屋城主徳川慶勝だった。尾張藩の藩祖遺訓に従い、尊王の立場に立ち、幕府を終わらせ新しい時代につなぐために貫いた考え方は「血塗らずしてことを収めよ」である。そこで「東海道」「中山道」全域の諸藩・寺社等に新政府側へ付くという誓約書を書かせた。そのお陰で新政府軍は悠々と東進でき、江戸城無血開城を果たすことができた。
慶勝は尾張徳川家の分家・高須松平家(新宿区荒木町)に生まれ、尾張藩第十四代当主となる。高須四兄弟の長兄であり十五代将軍慶喜の従兄でもある。薩摩の島津斉彬との親交が深く当時の世界情勢をよく学んでいた。また海外の写真技術を研究し、「写真家大名」と呼ばれ、多くの記録を残している。
明治政府が動き始めると役職を辞し、徳川一門とその家臣らの行く末に心を砕いた。篤姫(天璋院)が尾張藩下屋敷の戸山荘(新宿区戸山)に住んだこともあった。尾張藩士たちの仕事を確保するために北海道南部の八雲町における開拓事業を指導した。
墓碑の背面に「熾仁親王書」の文字が読める。慶勝の墓碑を揮毫したのは官軍の総督・有栖川宮熾仁親王であり、慶勝の維新に果たした功績への感謝の証と考えられる。
令和三年十月 「戸山の歴史を語り継ぐ集い」有志
はたして天守閣の木造での復元はなるのか?
名古屋城の天守閣については,木造での復元が計画され,何かと話題となっている。名古屋城のwebサイト「天守閣の整備」には,復元事業の詳細が公開されていて,現実味のある話なのかもしれないと思わせる。
城郭ファンとしては,この計画の実現を待望するわけだが,実際に巨大な天守を木造復元するって本当に可能なのかとか,それにいったいいくらの費用がかかるのかとか,いろいろと考えてしまう。そして,それが実現するのはいつのことで,自分は,この目でそれを確かめることができるのかとか,階段を登り切ることができるのかとか。妄想が尽きない。

