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♯45 幻となった黄金城郭・聚楽第

 築城から8年あまりで,まさかの破城となり,その痕跡も跡形なく消し去られた聚楽第。『京都歴史散策マップ』を頼りに,ぐるり一周してみた。(京都府京都市)


西陣碑からのスタート

 聚楽第は,関白豊臣秀吉が京都に築いた公邸だが,周囲に堀を巡らし,ほぼ城郭といっていい構えだった。天正14年(1586)2月には築城を開始し,近隣には大名屋敷が配置された。天正19年(1591)に関白職とともに甥の秀次に譲られたが,文禄4年(1595)に秀次は高野山で自害。翌年8月に聚楽第は跡形もなく破却されたという。黄金に彩られた城郭が,一瞬にして消え去り,幻となった。

 これまでにも何度か,その痕跡に触れる機会があったが,今回改めて,『-文化財と歴史を歩く-京都歴史散策マップ20聚楽第』を頼りに,聚楽第跡を歩いて一周してみた。
 探索は,西陣織会館の「西陣碑」からスタートした。西陣の由来を刻んだ西陣碑も大事だが,今回の探索では隣の「村雲御所跡」の碑の方がより重要だ。村雲御所は,嵯峨の村雲の地に豊臣秀吉の姉・とも(瑞竜院日秀)が,息子の豊臣秀次や孫を弔うため建立した瑞龍寺という寺院だという。のちに堀川今出川に移転し,代々皇女や摂関家の娘が貫主となったために,村雲御所と呼ばれるようになったとか。瑞龍寺は,昭和36年に秀次ゆかりの滋賀県八幡山へと移転している。探索は,聚楽第の最後の主人だった豊臣秀次を弔う寺院跡からのスタートとなった。

西陣碑と村雲御所跡の碑(2026.3.23)

 マップに従って西陣会館を南に向かって少し歩くと,参拝者で賑わう晴明神社がある。参拝の目当てはもちろん安倍晴明だと思うが,ここは,千利休の聚楽屋敷があったあった所でもある。利休は,ここで茶会を催し,茶の湯に用いたとされる井戸も現存する。そして,秀吉の命により切腹した後の利休の首は,この聚楽屋敷とは目と鼻の先の一条戻橋に晒されたのだという。

千利休聚楽屋敷趾の碑(2026.3.23)
晴明井(2013.11.23)
利休の首が晒された一条戻橋(2026.3.23)

東堀跡へと進む

 晴明神社からさらに南へと歩を進め,一条通を西に向かって進む。周辺の地名から,聚楽第の東堀の外側に置かれた大名屋敷の痕跡をたどることができる。掲示板や消化器入れ等に記された地名表示などを頼りに確認できたのは,如水町(黒田如水),飛騨殿町(蒲生氏郷),弾正町(上杉景勝)だ。

黒田如水邸跡の碑(2026.3.23)
如水町の消火器入れ(2026.3.23)
飛騨殿町の消火器入れ(2026.3.23)
上杉景勝邸跡の碑(2026.3.23)

 聚楽第跡の碑が,大宮通りと中立売通が交差する所に建っている。大宮通りに沿って聚楽第の東堀が南北に伸びていたようだ。この碑の辺りからは金箔瓦が大量に出土していて,それを記念してこの地に碑を建てたらしい。黄金城郭だった証が出土したということだ。ここより南は,東堀町となっており,もちろん町名は聚楽第の本丸東堀に由来しているのだろう。

聚楽第跡の碑(2018.8.3)
聚楽第跡の石碑の由来(2018.8.3)
東堀町の消火器入れ(2018.8.3)

北の丸跡の痕跡

 聚楽第跡の碑が建っている辺りから,松屋町通りを北に進むと鏡石町に至る。おそらくは,北の丸の石垣に巨大な「鏡石」が据えられて,それが地名の由来となったのだろう。
 北の丸跡は,発掘調査が行われていて北の丸北堀跡の南側で石垣が発見さ
れ,現地の地中に埋め戻されて保存されている。石垣発見場所の北側には後の時代に築かれた石垣があり,これが北堀の段差を示しているのだという。発見された石垣と,この石垣の間が北ノ丸の北堀跡になると考えられており,堀幅は約20mと推定されるようだ。現状からは,かなり想像力を働かせないと,当時の姿を思い描くことはできない。

鏡石町の住居表示(2026.3.23)
北ノ丸の北堀跡北側の段差(2026.3.23)

本丸西堀跡の京都弁解説

 鏡石町から,裏門通りを南に進むと正親小学校の北側に,聚楽第跡を示す石碑と西濠跡についての説明がある。解説は,堅苦しいやつ(木製の方)と京都弁のポップなやつ(白い方)があったので,京都弁の方を紹介しておく。

西堀跡に建つ聚楽第跡の石碑(2026.3.23)

聚楽第は「じゅらくてい」と読みます。「じゆらくだい」というてもかましまへん。聚楽第はいまから四百年余り前に太閤秀吉(たいこうひでよし)はんがこの辺りにお建てにならはった建築群で、いまの二条城みたいに濠と石垣で囲まれてたんで外見はお城みたいどした。中には行幸御殿、天主御殿、その他の屋敷群、茶屋などが建てられ、池と庭園がおました。それはようでけてたらしいどす。ここ(裏門通り)は聚楽第の西側の濠があった場所どす。ここから二百五十メートル東、いまハローワークやユニクロがあるところ(大宮通り)に東側の濠がありました。そのハローワークを建てるときに地面を掘ったら聚楽第屋敷の瓦が出てきました。瓦には金箱が貼られていて、いまは国の重要文化財になってます。それを記念してハローワークの向かいに「聚楽第址」の石碑が建ってます。その石碑(東濠跡)と、いまご覧のこちらの石碑(西濠跡)との間が聚楽第のあった場所やったということになります。聚楽第は竣工して八年後に或る理由で完全に取り壊されてしまいました。当時の記録も余りあらしまへんので、ほんまはどうやったんかよう分かりまへん。この石碑のおかげでこの辺りに聚楽第があったんやということが分かるだけどす。

現地説明(2026.3.23)

豊臣秀勝と江が暮らした屋敷跡

 加賀屋町の辺りから土屋町通りを南に進む。その道筋が西外堀のあったラインのようだ。途中,豊臣秀勝邸跡伝承地の石碑がある。何故に早世した豊臣秀勝の屋敷跡に碑が建つのだろうか。現地の説明をかいつまんで記しておく。豊臣秀勝は,豊臣秀吉の姉・ともの子で聚楽第の主人となった豊臣秀次の弟なのである。秀次同様に秀吉の養子となり,浅井三姉妹の江を妻として聚楽第のこの辺りに住まいしたらしい。しかし,秀勝は朝鮮出兵中に病死し,江は,徳川秀忠と再婚することになる。大事なのは,ここからで,秀勝と江の間には,おそらくこの地で生まれた完子(さだこ)という娘がいたのである。当然,徳川家についていくことはなく,淀殿に養育され,のちに五摂家の九条家に嫁ぎ多くの子を産んだのだという。しかも,その子孫を辿っていくと,なんと,子孫の一人・九条節子(さだこ)は大正天皇に嫁いで昭和天皇を産んでおり,豊臣の血統が完子を通して現在の皇室にも及んでいるということが書かれている。血のつながりというものを女性側に視点を当てて見ていくと,また,違った見え方があるものだなと思う。

加賀屋町の消火器入れ(2026.3.23)
豊臣秀勝邸跡伝承地の碑(2026.3.23)

南外堀跡

 西外堀の南端を東に進むと南外堀跡の碑が建つ松林寺に至る。山門から本堂や墓地のある所が大きく下がっていて,その向こう側に段差が見え,おそらくここら辺が堀底なのだろうというのが,北外堀跡よりも実感できるように思う。

松林寺の山門(2026.3.23)
南外堀跡と考えられる段差(2026.3.23)

 さらに,松屋町通の方へと戻っていくと,松永神社という小さな神社がある。この辺りが,聚楽第の堀に架かっていた鵲(かささぎ)橋の跡らしい。地図と照合しても,それは南外堀なのか,南二ノ丸南堀に架かっていたのかよくわからないのだけれど。この橋の東の方に吉野町と呼ばれるエリアがあり,そこが豊臣秀長の屋敷と推定されるらしい。ここから堀川通の方へ出ると,聚楽第の主郭をほぼ一周したというところだろうか。スタートからおよそ1時間15分ほどの探索だった。

松永神社(2026.3.23)
聚楽城鵲橋乃旧蹟碑(2026.3.23)

加藤清正屋敷跡や直江兼続屋敷跡も

 聚楽第外堀跡の周辺から少し離れたところにも大名屋敷の推定地はある。一条戻橋から少し東に寄ったところには,加藤清正邸跡の伝承地があり,カラーのビジュアルな解説がある。

加藤清正邸跡伝承地の碑(2026.3.22)

 一方,聚楽第の南端から,さらに南,現在の二条城の方へと進んだところには,直江兼続の屋敷跡の推定地の碑があり,こちらは,テキストでの長文解説が添えられている。何をそんなに長く書くのかというと,確かに,直江兼続は陪臣なのに,聚楽第に屋敷があるというのは本当かという疑問が湧くわけだ。だが,陪臣でありながら豊臣の姓も賜っている直江兼続の屋敷がここだったろうと推定されるわけを丁寧に解説しているのだ。京都の街は,いろいろと深いなぁ。

上杉景勝/直江兼続屋敷跡推定地の碑(2026.3.23)

 なお,上京区下立売通千本西入北側,弘誓寺の山門前には「木村長門守重成公旧舘地」の石碑が立つ。京都市webページでは,これを「この石標は,聚楽第が築かれた際の重成邸跡を示すものである。なお,この地を長門町というのは,この邸宅に因むものである。」としているが,少し無理があるかもしれない。木村重成の生年は文禄2年頃と推測されており,聚楽第の破却が文禄5年とすると,そもそも聚楽第と木村重成を結びつけること自体に無理があるのではないだろうか。

木村長門守重成公旧舘地(2018.8.3)

妙覚寺へ移築された裏門

 破却された聚楽第の建造物は,一部が,寺院等に移築されて現存している。有名なものとしては,西本願寺の飛雲閣があるが,これには異説もあり,聚楽第のものかどうか定かではないようだ。大徳寺の唐門は,聚楽第の遺構のようだが,通常非公開で私は目にしたことがない。

 確実なものでいつでも見ることができるものとしては,妙覚寺の大門がある。聚楽第の裏門を移築したという寺伝があるようだ。確かに,柱の太さは城門然としており,両側に潜扉を備える様子なども城門を想起させる立派な門である。柱の様子などは,御香宮神社に移築された伏見城の大手門に通じるものがあるように感じる。寺伝が確かであれば数少ない貴重な遺構であり,聚楽第の在りし日の姿を偲ぶことができる。
 それにしても,一時は養子に迎えて後継に据えた甥っ子とその一族を皆殺しにして,その居城をも跡形もなく破壊するという,いったい何が秀吉をそのような凶行に走らせてしまったのだろう。聚楽第の痕跡を辿りながら,つくづく人間って,恐ろしいなと思った。

妙覚寺大門正面(2026.3.22)
妙覚寺大門背面(2026.3.22)
妙覚寺大門の柱と潜扉(2026.3.22)
妙覚寺大門の扉(2026.3.22)


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