喫茶ひだまり「ポークカレーがなじむまで」
カランコロン、とドアベルが鳴る。
午後二時。
店内は、『日時計の丘』の静かなBGMと、深く焙煎された珈琲の香りに満たされていた。
外のジリジリとした太陽から逃げるように滑り込んできた男――須山丈志(35)は、カバンを置き、カウンターの端の席に深く腰掛けた。
「いらっしゃいませ」
迎えたのは、店主の月読さんだ。
白髪を後ろできれいに一つに結び、銀縁のめがねの奥から、穏やかな瞳がこちらを見つめている。
洗いざらした若草色のエプロンからは、ほんのりとスパイスの匂いがした。
丈志はメニューを見る気力もなく、低く掠れた声で呟いた。
「……ポークカレーを、お願いします」
「はい、かしこまりました。今、お作りしますね」
月読さんは優しく微笑むと、厨房へと引っ込んだ。
丈志はスマートフォンの画面を開き、溜息を飲み込んだ。
画面に並ぶのは、今月の営業成績のグラフだ。
太陽光発電の訪問・リモート営業を始めて三年目。最初は勢いがあったはずなのに、ここ数ヶ月は数字が全く伸びていない。
「君の営業には、熱意が見えないんだよね」という上司の言葉が、鼓膜の奥で何度も再生する。
リモートワークをいいことに、街を彷徨い、行き着いたのがこの『喫茶ひだまり』だった。
やがて、カウンター越しに白いお皿が差し出された。
「お待たせいたしました。当店のポークカレーです」

湯気とともに、甘酸っぱいトマトと、ツンと鼻を抜けるクミンやコリアンダーの香りが広がる。
驚いたのは、具材の大きさだった。
ゴロゴロとした大きな豚肉と、じっくり炒められて蜂蜜色になった玉ねぎが、深い飴色のルーの中で静かに佇んでいる。
「あ!」
思わず声が出た。
辛さは控えめなのに、口の中にじんわりとコクが広がる。
何より、大きな豚肉が、噛む必要がないほど柔らかく解けてゆく。
じっくりと時間をかけて煮込まれたことが、不器用な丈志の舌にもはっきりと伝わってきた。
「美味しい、です。すごく」
丈志が顔を上げると、月読さんはトントンと銀縁めがねのフレームを指先で叩いた。
「ありがとうございます。うちのカレーはね、スパイスを合わせるよりも、お肉を弱火でずうっと煮込む時間の方が長いんですよ。早く仕上げようとして強火にすると、お肉が固くなって、ルーと馴染まなくなっちゃうの」
月読さんは、まるで天気の話でもするように淡々と言った。
「焦って火を強めるより、お肉が柔らかくなるのを 『待つ』。美味しいカレーを作るには、それが一番大事なことなんです。きっと、人間関係も、お仕事もね」
待つ、という言葉が、丈志の胸の奥の固く凝り固まった場所に、じゅわっと染み込んでゆく。
自分は早く結果を出したくて、画面の向こうの顧客に「早く決断してくれ」と強火の営業を押し付けていなかっただろうか。
相手の心が解れるのを、じっくり待つ余裕を失っていたのではないか。
丈志の目から、不意に一滴の涙が零れそうになり、 彼は慌ててカレーをもう一口、口に運んだ。
月読さんは、静かにお冷やを注ぎ出した。
「時間をかければ綺麗に馴染む。あなたの日々も、きっと今は、美味しいカレーを煮込んでいる最中なのよ」
カチン。
スプーンが皿に当たる、小さな音が、 ひだまりの店内に心地よく響いた。
丈志の心に灯った小さな明かりは、外の太陽よりもずっと温かかった。
了
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・フリー素材BGM『日時計の丘』(秋山裕和)
