カノンアート 第十話
〈赤色の憂い 後半〉
そうしてあっという間に日が過ぎ、途中で出た影も一瞬で消し去って、アートを船長らに渡したカノンたちは船から降りることになる。地面はない。チャンスは一度、星の端に船は浮かんでいる。どこまでも広がる海を眺めて二人と1匹はゆっくりと足を境界線に触れさせた。
「ありがとうございました。では。」
『うつれ』
大きく、その言葉を口にすると、なんともいえない浮遊感が彼らを襲い、目を瞑ると、ゾクっとした冷気とその暗さがカノンを迎えた。
目を開くと、どこまで続いているのかわからない薄暗い地面に、細い道がいくつかつながっていて、所々に暗さに覆われた木が生えている。間を縫って、白い何かの生き物たちが徘徊していた。おどろおどろしい雰囲気と、それでいてどこか幻想的な風景。暗い空は、それでも空の星はこちらに向いて、仄かな光を放っている。カノンはコートの上から自らの体を抱きしめた。とても寒い場所だ。そして横を見る。
「マーテ…?」
そこにマーテはいない。どうやら少し遠くに移ってしまったようだ。
「とりあえず、マーテを探さないとな。」
星の淵はすぐ近くにある。そこに落ちないように少し距離を置き、どこまでも薄暗い中を、光を灯してカノンは歩いて行った。
近くで、ぼおおぉ…ぼおおぉ…という音が聞こえる。カノンは履いている靴をしっかり履き直して、カサカサした地面を踏みしめて行った。
異変が起きたのはその時だった。すぐ近くに、人のような何かが近寄ってくるのが見えた。
「マーテ?」
くつくつと、笑う声が聞こえた。何かが、口を開いた。
「おやぁ?見慣れない顔ですねぇ。わざわざこの場所に来るなんて、どんな物好きなんでしょうねぇ?」
「だ、れ?」
カノンが顔を引きつらせる。くつくつとまたそいつは笑い、こちらを舐めるように見た。
「人間だねぇ?恐怖に縛られているなんて可哀想。だいじょうぶ、すぐに楽になれるからなぁ。」
「何を、いっているの?」
暗くてよく見えないが、どうやらそいつは男のようだった。青白く、悪魔のように囁いて、カノンに近づく。
「生きるのって、苦しいでしょ。ほら、張り詰めた心を持ってて。」
ツンツンと、カノンの背中をつつく。そこがとても冷たくなってカノンは固まった。
「なに…?」
「決められたことを、人形のようにやってきたんだねぇ。キミ、しんどかったでしょ?でもそんなのは、ただのまやかし。もっと、楽になれることがあるんだよ…」
細長い指を楽しそうに突き出していたそれは、後ろから近づいて、魔法を放ったマーテに振り返った。
「おい、そこで何やってんだよ。カノン、大丈夫か?こいつはだれだ?」
「あはっ、喋った。じゃまた会おうね、キミ。」
闇に滑るように溶け込んだそれを見て、マーテはさらに顔を険しくした。
「うわ…なんだ今の。カノン、命の危険があったらすぐに逃げるって、約束してくれよ。本当に危ないからな。」
「…うん」
ただの生き物であればよかったけれど、まるで今のは悪魔のようで。知性を持ったそれのことを考えて、カノンはブルっと身を震わせた。
一本の道に光を灯して、カノンたちは進んだ。途中でスカイとも合流した。赤い糸を解呪しなければならないこともあるが、その因縁の相手と契約したことは変えられない。複雑な感情を抱きながら、彼女たちは真ん中にあるという〈ワールド〉へと進んでいた。昼の明るさとは程遠い夜の闇に目を凝らし、スカイの暖かさを感じながら進んでいると、不意に境目もほとんどわからない道の端が、ぼうっと光った。
「?」
ゆらりと、木が揺れる。複雑に絡み合った木々が、ひんやりとした白い光を煌めかせる。
「これは…」
彼らは息を呑んだ。遥か彼方、三角の形へと広がるこの世界に沢山の光が集まり、まるで川のように揺らいでいる。幻想的な光に思わず、足がふらふらと動いた。
「あぶなっ!」
カノンがパシッとマーテの手を掴む。目の前に白いヘヒがとぐろを巻いている。マーテは輝きに魅せられるように光を見つめていた。だが手を見て、照れたように笑い、口を開いた。
「変な気分だ。ここはきっと、人ならざる者のテリトリー…お願い、手を繋いだままでいて。」
スカイは黙ってついてきた。たまに光る実を口にしては、ご機嫌な声を出しているが。
どれだけそうしていただろうか、見ているうちに光はどんどん減り始めて、やがて闇が訪れた。黙って進んでいたカノンのお腹が鳴った。
「うっ」
「もう昼か。」
マーテはそっと手を外して、スカイの背中に乗っていたバッグを降ろし、光を灯して中からパンを取り出した。
「食べよう。生きていかないと。」
『生きるのって、苦しいでしょ。』耳に悪魔の囁きがこだます。カノンはそれを振り払って頷いた。薄暗い中で二人は顔を見合わせる。
「うん。お腹すいた。」
「本〜♪本〜♪どこにいるのかな〜♪」
「カノン、大丈夫?」
カノンが適当に歌を歌っていると、マーテが顔にシワを寄せて聞いてきた。冗談でなく心配しているらしい。
「いや、暗いと自然と気分も落ち込むでしょう?歌を歌ったら、そんな気分吹き飛ぶかなってさ。」
お腹が膨らむと、かなり元気になった。相変わらずどこまでも薄暗い道を、踏み締めて歩いていると。
「あ、また影…」
すでに見慣れてしまった影が現れたのに気づき、カノンは魔法を使う。抵抗もせず静かに消えるそれを眺めて、カノンはマーテに問いかけた。
「影は、私たちの近くにしかきっと現れていない。あの町の老婆も、影が狙ったのはとても長く生きている人たちだって言っていた。一体どういう条件で出ているんだろう。」
マーテの表情は暗くてよく見えない。空の星が、静かにこちらを眺めている。
「影はどこからかいつも現れる。そして、普通はとても違和感のある闇魔法が、すぐに効いている。カノン、影はきっと、他の世界から来ている。そして、長生き…知ることを経て時間が歪んでいる人たちを狙っている。彼らは、それに巻き込まれたのじゃないか。」
「…そうなんだ。」
暗い道で、とても寒いはずなのに、汗が流れるのを感じた。
「…そうなんだ。」
暗い道で、とても寒いはずなのに、汗が流れるのを感じた。
「それってさ、影は自らの意思でこっちに来ていないと言うことだよね?」
「そうだ。俺が考える仮定では、おそらく影には実体がない。この世界の、さらに向こう側には神々の世界が広がっている。その中の一つから、なんらかの理由で来てしまっているのだろう。闇魔法は実体を持つ何かを無に変えるという、『法則を無視している』とされる魔法だ。他にもそんな魔法はあるが、それを使う時俺たちはすごく違和感を感じるだろう。俺の考えでは、その違和感は他の世界の法則がそれに適用されていることによって生じると思っている。」
急に説明口調になったのでカノンは頭を傾げた。ホウ、ホウ…と、どこかで鳥が鳴いている。足元には硬質の土が続いていた。
「ええと…つまり、影はこの世界の生き物ってこと?」
「いいや。影は今やどこの世界の生き物でもない。実体がないというのは、その感情の残像が、アートとして後に残っているんだ。」
「え?」
マーテはふっ、と息をはいた。そしてトコトコとついてくるスカイの毛を撫でながらカノンに言う。
「言っただろ、アートは俺たちの心の分身なんだって。憶測だが、きっと影たちは世界の空間の歪みによって、この世界に連れてこられている。その恐怖が、影たちを元の世界に戻そうとかりたてているんだ。」
何度もボタニーに教えてもらったンゴの実は光った。幻想的な光、たまに出会う白い生き物たちは、まるで別の世界に行ってしまったように心に響く。
美しく、儚い。たったの一度でもカノンが大規模魔法を使えば、この環境は消えてしまうだろう。感情を持たなければそんなことは起きない。けれど感情を持たなければ、その美しさも儚さも、何もわからない。
マーテは足を止めた。すでに時間がわからなくなったかと思われたが、実の光った回数を数え、大体を把握していた。横を見ると、カノンが半分寝ぼけながら歩いている。
「なんか、すごく眠たい…」
仕方ないなと言う目でマーテは、グローブを取り出した。
「神淵の光を浴びなければ体の時の感覚はなくなる。今はまだ、この辺りは夕暮れ時ぐらいだと思うな。」
「ええ…そう…?」
カノンはその場にぼてっと座りこむ。そして、すぐに寝てしまった。スカイがコッコーと鳴いて、その白い羽毛にカノンを乗せる。マーテはため息をついた。
「ああもう、明日には俺も13歳になるのに。そうだ、まだそんなに夜でもないし、少しだけ辺りを見てこようかな。そしたらもっとカノンの役に立てるかもしれない。」
マーテは立ち上がり、また光り始めた木々の中を歩いて行った。
星は輝いている。どのぐらい時間が経ったのかわからないまま、カノンは目を覚ました。
「え、あれマーテは?」
スカイの背中から滑り降り、グローブの中を覗く。
「どっかに行ったのかな…心配だな…」
カノンは魔法で光を作り、空に飛ばした。
「これで合図になるかな。これを見たら多分起きたってわかって戻ってくれるでしょ。」
その光は空で小さく爆発した。まるで火の花のように光は眩く閃いた。きらきらと落ちてくる破片を見ながら、カノンはぼんやりと突っ立っている。
「そこで何をやっているの。」
「マーテ!…?」
カノンが振り向くと、
「また会ったねぇ。」
マーテとは違う背格好のあいつがいた。カノンは二歩、三歩と後ずさる。そして魔法をすぐに使えるように構えた。男は困ったように微笑む。そして見えない速度で距離を詰め、息のかかるような距離で言った。
「そんな警戒しないでよ。迎えにきただけだから。」
ピキリと、背筋が固まる。そっと鋭利な刃物が首に触れた。
「か、風、基礎その一!」
カノンが小さく叫ぶと、大きな音を立てて風が吹き荒れた。男は飛び上がり、近くの幹に乗る。
「ははっ、面白いねぇ」
そこからその刃物を投げてくる。カノンは慌てて魔法を操り、その切先を元の方向に向けて風で投げ返した。数秒、驚いた顔をしていたそいつは、立ち直したように心臓に向かっていた刃物を素手で掴んだ。目を細めて、吹き荒れる風の中にいるカノンを見る。そしてこの世とは思えない笑みを浮かべて、それを自らの首に当てた。
「まだ死ねないから。キミも、ワタシも。キミが持つ目的を潰すまでは…ね?」
そのまま、消えていく。昼よりも暗い夜の如法暗夜の面。カノンは風を少しずつ抑えて、頭を抱えた。
目的ってなんだろう。あいつはお告げのことを知っているのか。ああ、もしかしたらあれが、ボタニーの言う番人なのかもしれない。『強い使命を持った者に対して、彼らは謎を問う』と彼女は言っていた。お告げはそんなに、守らなければいけないのだろうか。どんな反感を抱いていても、『使命を持った者』と、言われ続け、そう判断されるのだろうか。カノンは淡く光り始めた大地を眺めながら、困った顔でどこまでも晴れている星空を見上げた。
「あ、あれじゃないか?」
「…きれいだね」
近くを白い蝶が舞っている。そして淡い星が、どこかの山を浮き上がらせている。その山の手前側に、一つ赤く光る場所があった。ただの神社でないことは一目でわかる。だが、その場所はまだ途方もなく遠かった。
「そうだ、マーテ。」
「うん。」
「おめでとう」
マーテは顔を輝かせた。ばっと顔を隠そうとするが、暗いからいいかと手を下ろす。
「覚えてくれてたんだね。」
一言そう言うと、マーテはそっぽを向いた。そういえば、カノンはいつももっと祝ってくれる。どうしたのだろうか。何かがあって落ち込んでいるのか。
と、カノンがこちらを向いた。その手には。
「ふふ、これはプレゼントだよー。マーテが生まれた日を忘れるわけないじゃん。生まれた子たちはみんな奇跡の子供なんでしょ?」
首にかけているはずのペンダントが、朱色の飾りが付け足されて握られていた。マーテは俯いた、それではダメだ。それはカノンの守り神のようなお守りのハーブ。最近怪しいやつに出会ったのも、それが原因だとしたら。
「それはこの超少子高齢化の世界だから言えることだよ。俺だけもらうのも悪いし、俺のブレスレットと交換しよう。」
カノンはびっくりして口を開き、少し迷ってから笑顔で大きく頷いた。
「ありがとう。」
マーテは内心穏やかではなかった。焦ったようにカノンへと向く。
「絶対に外すなよ。」
カノンは頷き、赤い糸の上からマーテの腕輪をつけた。丁度タイミングを見計らったかのように辺りの木が光り始める。光に加わるようにそのブレスレットは淡く光り、赤い糸を覆い隠すようにカノンを守っていた。
