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カプセル

私は今、バーにいるようだった。

さっきまで別の場所にいた気がするのに、いまはここにいる。夢だったのかどうか、それも思い出せない。目の前の窓には夜景が広がり、まるで額縁に閉じ込められた幻影のようで、現実味が乏しかった。

「子どもが産まれてから、こんなところに来るの初めてね」

目を輝かせ妻が言った。そう、妻だ。隣には妻が座っている。彼女がいることで、ここが現実なのだと確信が持てる。

神戸の旧居留地にある老舗ホテルの十七階。「ザ・バー J.W.Hart」という名の店だった。少し硬めのソファに、この店の姿勢のようなものを感じる。深く沈み込むほど身を委ねることはできないが、適度な反発はお酒を楽しむにはちょうどいい。心地よく酔えるが、過度な依存は許してくれない。

そのようなソファに座りながら、私はハイボールを、妻はブラックローズを口にしていた。

店内にはジャズが流れていたが、耳を澄まさなければ聴こえないほど小さな音だった。そこにも誰かの意図が潜んでいる。たぶん夢と現実の境目を微かに震わせる、そんな振動数があるのだろう。それが私に昨日見た夢を思い出させた。

私はグラスの縁を指先でなぞった。目の前の妻は、口元に微かに笑みを浮かべ、夜景に見入っていた。その表情は、子どもが生まれてからの数年間、私がほとんど見ることのなかった、無邪気で、わずかに酔いの回った、特別な夜の顔だった。

「そういえば、夢を見たんだ」と私は言った。

「夢?」

妻はストローで氷を転がした。
カランという音が輪郭を持って響いた。

「別の世界の夢。戦争も、貧困も、差別もない世界。お金や所有って概念もほとんどの人は知らない」

妻は微笑んだ。

「なにそれ。原始時代の話?」

私は、ああそうかと言うように、ピーナッツを口に運んだ。人類が狩りをして暮らしていたときは、きっとそうだっただろう。

「精神性としては近いのかもしれない。でも、物質的にはまるで違う。農村と太陽系外縁のコロニーくらいには違うんだ」

私は金属製のグラスに口を運んだ。冷たい液体が喉を滑っていった。すぐに顔が熱くなるのがわかる。

「どっちでもいいけど、まあ、あなたの好きそうな夢ね。でも、お金も所有もないのは最悪。私は欲しいわ。服も、車も、お金も」

妻は悪びれることなく欲望を肯定した。欲望に忠実であることが、どこまで許されるのだろう。欲は人の心に溜まるほこり。忌み嫌うべき対象として育てられてきた私には、とても刺激的な意見に思えた。妻はいつだって私の心を揺さぶる人だ。ただ、夢の世界での欲望は病気に分類される。

「そういう人は『欲望症』って診断される。あの世界で、欲望は病気扱いなんだ」

「それはずいぶんなことね。それで、治療でもするっていうの?」

妻は少し苛立って言った。そろそろ話題を変えた方がいいのかもしれない。でも、最後まで伝えないとこの話の核心はまだ先だ。

「薬で抑えるんだ。でも、どうしても欲が消えない人がいる」

「隔離でもするの? あるいは、安楽死させるとか? まったくひどい世界ね」

「いや。この世界では誰も排除しない。彼らのために、『カプセル』が用意されているんだ」


「カプセル?」


妻がどこか落ち着かない様子で、グラスの氷を弄んだ。カラン、カランという音が数回鳴った。妻は何かを思い出そうとしているみたいだった。でもうまくいかない。頭の中に曲があるのに、口ずさもうとすると蜃気楼みたいにゆらめいて、初めの一音すらあやふやになるのと同じだ。記憶はどこか深い海の底に溜まっていて、何かのきっかけで浮上してくる。そう、きっかけだ。

「カプセルに入ると、音を合図に眠らされる。そして、別の世界で生きることになる。そこには戦争、差別、貧困。もちろん金と権力だってある。欲望に忠実な世界だね」

「それが、私の望んでいる世界とでも言いたいわけ? まるで私が欲望まみれみたいじゃない」

私は答えられなかった。ある意味では妻の言う通りだし、別の意味では妻の主張は的外れだった。

妻もグラスを見つめ、しばらく黙っていた。やがて、何かに気づいたのだと思う。その横顔を見て、私にはすぐにわかった。理由はなく、ただ、わかった。もしそれが真実なら、私たちが座るこの場所は、いったい何の意味を持つのだろう。

どこかで、カランと音が鳴った。また何かの合図だ。妻はブラックローズにゆっくりと口をつけた。それは、朧げな悪夢を飲み込んで消化させる儀式のようだった。妻は、ある事実の可能性から目を背けることにしたのだ。

「明日は買い物してから帰るでしょ? 私、黄色のワンピースが欲しい。秋だし」

「いいね。きっと似合うよ」

妻の声は、どこか遠い場所から響いているようにかすれていた。私も平静を装った。だが、語尾の震えは隠せなかった。


そのようにして、この話題は消えていった。


私は、妻が目を背けたものに触れることを恐れた。口にすれば、いつも座っている妻の隣の席が、現実の根拠が、瞬く間に霧散してしまうことを。


だから、聞きそびれてしまった。


——夢から覚めるとき、私はカプセルの中にいた。ひょっとして君も同じ夢を見なかっただろうか。


ジャズはまだ流れていた。けれど、もう音楽とは思えなかった。

ただ氷の音だけが、夢と現実、どちらが“いつもの場所”なのかを測りかねているように、静かに響いていた。




よしまるさん、はじめまして。
こちらの企画に参加したいのですが、
165文字オーバーとなってしまいました。
不躾ですが、拾っていただけたらうれしいです。

あわせて、「#いつもの場所に座って」にも参加しています。

#あなたの旅ショートストーリー
#いつもの場所に座って


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