ありがとうの呪文
私がこの世に生まれ落ちたとき、その命は風前の灯火だった。
母乳を飲むたび、「ピーッ」とクジラの潮のように噴き出してしまい、医者には「食道が細いようです。このまま飲めなければ覚悟してください」と告げられた。母は病院をいくつも回ったが、どの医者にも匙を投げられた。
「なにくそ、死なせてなるものか」
母は匙を投げ返すやいなや、寺社仏閣に加持祈祷へと駆け回った。あらゆる神や仏、「生き神様」に至るまで、ご利益がありそうなところへ片っ端から馳せ参じた。奇跡の水や幸運の壺の類もたぶん買った。藁にもすがる思いだったのだろう。神の御守護か偶然か、真偽のほどは不明だが、母の執念深き信念により、私の灯火は消えることなく燃え続けたのである。
「だから、ありがとうと言える人になりなさい」
母はそう言って、記憶にない私の物語をそっと閉じた。
覚えのないことで説教されるのがたまらなく嫌だったが、母の「ありがとうと言える人になりなさい」という言葉は、呪文のように耳に残った。
小学生になると、私はそろばん塾や習字をサボり、母の五百円玉貯金をくすねては駄菓子屋に入り浸った。
気づいた母は、お金が減っていることと、それが母の腎結石の手術代なのだと言うと、あの呪文を唱えた。白々しいと思った。ひきづり回してぶん殴ってくれた方がマシだと思った。
中学生になると、私はいつも不機嫌で、「うっせぇ、クソババア!」と悪態をついた。
母は荒れ狂う私に、何も言わなかった。そのかわりに腰の辺りを押さえて、強く目をつぶった。私の脳裏に蒲焼さん太郎がよぎったが、「う、うっせぇ、クソババア!」と押し切ってしまった。
高校生になると、遠方で寮生活を始めた。
部屋は三人部屋で私のスペースは二畳だった。消灯時間になると布団を敷くが、寝返りもできない。
部屋には華原朋美がリピートされている。先輩のCDが止まることはなかった。
I’m proud 壊れそうで 崩れそうな 孤独を
夜、母のことを考えた。
泥だらけのユニフォームを、毎日タワシでこすってくれた母。
好き嫌いの多い私のために、工夫してご飯を作ってくれた母。
熱を出すと、神様の名前を口にしながら、私の体をさすり、そのまま手を合わせていた母。
何度「うっせぇ、クソババァ」と言っても、うるさいほど話しかけてくれた母。
ある朝、食堂のおばさんに「ありがとう」と言っていた。気づいたら、口から出ていた。
寮に入る少し前、母がやけにトイレに行く時期があった。
家族で出かけた帰り道、車を何度も停めた。
「何回トイレ行くねん」
そう言った気がする。
母は何も言わなかった。顔は見えなかった。
母に電話した。
「いつもありがとう」
母は一瞬黙って、「あら、めずらしいじゃない」と言った。声は笑っていたけれど、鼻のすする音が聞こえた。
ただ大人になってからも、母は、会うたびに呪文を唱えた。私は曖昧に笑って、コーヒーに口をつけた。
「またそれか」と思った。
私は手土産の洋菓子を頬張る母を覗き見た。
その日、妻の実家で、末っ子のささやかな誕生日会がひらかれた。
「ありがとう」
末っ子がプレゼントの包みを開けて言った。
両手に木製の倒立バーを持ち、ぎゅっと握ったり、すりすりと撫でたりしながら、その感触を確かめている。今すぐ試してみたいらしく、うずうずしている様子だった。
けれど、「帰ってからね」と妻に言われると、一言も返さずにうなずいた。
「さあ、ケーキにしましょ」
義母がケーキを箱から出した。
「もう7歳か」
プレートを見て、義父がぽつりと言った。
でも、声はデカい。
「ほんと、あっという間ですよね」
私は相槌を打ちながら、七本のろうそくに火をつけた。
長男が走って電気を消す。
末っ子の顔が、オレンジ色に揺れていた。
「さん、ハイ」
妻の合図で、みんなが歌い出す。
義理の両親のマンションのリビングに、たどたどしい歌声が響く。
マンションだからと気を使っているのか、声はいつもより小さい。
でも、弟を祝う気持ちは強いらしく、変な顔をして笑わせようとしていた。
私はスマホを構え、動画を撮る係に徹した。
画面には、ろうそく越しの末っ子の顔。
毛が増えただけで、生まれたときと顔がさほど変わらないと思えるほどに幼い。
小学生に上がるころ、突然「体操選手になる」と言いだした。それが思いつきでないことは、すぐにわかった。飲み込みが早いタイプではない。逆上がりができるようになるまでだって、ずいぶん時間がかかった。
それでも彼は、毎日トレーニングを欠かさなかった。いいのか悪いのか、気づけば腹筋が六つに割れていた。
あるとき、宿題をやらなかったことをきっかけに、「体操教室、やめさせるよ」と叱った。
彼は、しょんぼりとした顔で謝り、ぽつりとこう言った。
「体操教室に行けなくなっても、僕、トレーニングは続けるよ」
「今回だけだぞ」と苦言を呈したものの、私は父親の仮面の下で小躍りしていた。
そしてテーブルの下では、「2036 オリンピック 開催地」と検索していた。
末っ子に続けて、歌う長男と娘を写していく。
歌が終わり、静かになる。
「願い事言ってから消すんだよ」
長男が、長男風を吹かしている。
「ちがうよ」
末っ子が言った。
「誕生日は、願い事をする日じゃないよ」
え?とその場のみんなが顔を見合わせた。
末っ子は、腕をめくり、筋肉を見せて言った。
「かなった日だよ」
それから、妻をまっすぐと見た。
「お母さん、産んでくれてありがとう」
ふぅっと、ろうそくの火が消えた。
一瞬の静寂。
誰もすぐには口を開かなかった。
「おめでとう」
長男が言った。
遅れて、拍手が広がった。
義父が「うむ」とだけ言った。
やはり声はデカかった。
帰りの車の中で、妻が言った。
「産んでくれてありがとう、って……」
言葉はそこで途切れた。
私はLINEを開いてみたが、そのまま閉じた。
幼い彼の眼差しに、動けなかった。
私の背中に、あのときの母の手の重さが残っていた。
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