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映画「家族の肖像」1974年イタリア・フランス



映画という表現媒体が、外部世界の客観的な構築から離れ、作家自身の内なる深淵を照らし出す鏡へと変貌する瞬間。巨匠と呼ばれる映画監督たちが、晩年あるいは創作の決定的な岐路において、自らの「プライベート(私的記憶・肉体的制約・内的葛藤)」を被写体とする試み。それは単なる自己陶酔的な私小説ではありません。世界を創造し続けてきた神たる監督が、最後に自らの「精神的裸形」をスクリーンという祭壇に供犠として捧げる、壮絶なる自己解剖の儀式。
とまあ、このこの映画を、ヴィスコンティ風に芸術的に謳い上げれば、こんなことになるでしょうか。

1963年、フェデリコ・フェリーニは『8 1/2』において、創造の完全な枯渇とインスピレーションの死を主題に据えました。無意識の奔流とシュルレアリスム的映像の交錯の果てに彼が到達したのは、すべての矛盾を「人生の円舞」として抱擁する混沌の祝祭化。また1990年、黒澤明は『夢』において、論理的構築を完全に放棄しました。幼少期の恐怖や戦争への悔恨を直接的にスクリーンに叩きつけ、極めてプライベートな夢の羅列を人類普遍の神話的ヴィジョンへと昇華させた狂気の沙汰。
これら自己言及的シネマ(オートフィクション)の系譜において、最も冷徹かつ救済のない絶望を描き出した代表的作品。それこそが、ルキノ・ヴィスコンティが1974年に発表した『家族の肖像』です。

前二者が「精神の枯渇」や「深層心理」へと向かったのに対し、ヴィスコンティが直面したのは、1972年の脳卒中がもたらした左半身不随という「肉体の幽閉」でした。かつて『山猫』や『ルートヴィヒ』で絢爛たる歴史スペクタクルを描き出した男は、その不自由な身体を投影するかのように、物語の舞台をローマのアパルトマンという極小の閉鎖空間へと凝縮させました。「室内劇(Kammerspiel)」という形式の選択。それは物理的制約の産物などではなく、自己の芸術を濃密な内面宇宙へと昇華させるための痛切なる美学的必然。劇中、テラス越しに見えるサン・ピエトロ大聖堂のドームが意図的に平坦な「描き割り」として処理されている事実。外部の権威を徹底して平面化し、閉ざされた室内のみを唯一の実在とする、老教授の傲慢な隠遁の具現。真実を覆い隠すと同時に、向こう側にある死の世界を暗示する「ヴェール」に包まれた、自閉的で壮麗な、生ける石棺なのです。

この閉鎖宇宙の崩壊を読み解く上で決して避けて通れないのが、ヴィスコンティ自身が抱えていた三重の矛盾したアイデンティティです。ミラノの最高級貴族の末裔でありながら、イタリア共産党にシンパシーを寄せるマルクス主義者。そして、生涯を通じて同性をも愛したバイセクシャル。この矛盾こそが、彼の映画に比類なき緊張感と、退廃的な死の香りを付与した最大の源泉。
彼の性的指向は、単なる私生活のゴシップではありません。それは伝統的な家族制度やブルジョワジーの倫理を内部から破壊し、絶対的な「美」と「老い」の残酷な対比をスクリーンに焼き付けるための、極めて強力な美学的装置。ヴィスコンティ作品において、同性愛やバイセクシャル的な欲望は、しばしば「伝統的家族と血統の崩壊」の直接的な引き金として描かれます。異性愛が「生殖」と「血統の維持」というブルジョワ的な生産システムを担保するのに対し、同性愛は生殖を伴わない「非生産的」な愛の形。それは貴族階級の歴史の終焉を決定づける、美しきデカダンスの象徴です。

『地獄に堕ちた勇者ども』において、鉄鋼一族エッセンベック家を破滅に導くのは、同性愛的かつ小児性愛的な欲望を持つ孫のマルティンでした。彼の倒錯した欲望は、ナチスの台頭という政治的野蛮と結びつき、家族秩序を腐敗させる猛毒。『ルートヴィヒ』における狂王の孤独もまた、国家システムからの完全な逸脱を意味します。そして『ベニスに死す』において、老境の作曲家アッシェンバッハが美少年タッジオに見出した絶対的な美。ヴィスコンティのカメラは、伝統的な映画において女性に向けられてきた「対象化」の視線を、圧倒的な執念をもって「若く美しい男性」へと向けます。欲望する老いた権力者と、欲望される美しき青年。この残酷な非対称性こそが、愛と権力の力学の露呈。
そして、そのバイセクシュアリティが作品に与えた最大の影響。それは、晩年の彼の実生活におけるパートナーであり、究極のミューズであったヘルムート・バーガーの存在です。『家族の肖像』において彼が演じたコンラッドは、高潔な魂を暴力的に蹂躙し、伝統を破壊する、野蛮で美しい天使。監督のプライベートな愛憎と性的欲望が、公的な芸術表現と完全に一体化した、狂気的とも言える共犯関係。ヴィスコンティのセクシュアリティは、彼の映画に「満たされることのない永遠の渇き」を与え、やがて老いと死に飲み込まれていく人間の宿命を冷徹に見つめる、絶対的な孤独のまなざしを完成させたのです。

本作の原題、そして英題(Conversation Piece)が指し示す通り、この静止した空間の骨格を成すのは、18世紀イギリスで全盛を迎えた美術ジャンル「会話図」です。バート・ランカスター演じる主人公の老教授にとって、壁面を飾るこれらの絵画は、血縁という名の予測不可能なカオスを排除し、教養と秩序によって凍結された「理想の家族」の代理表象。人間的な親密さの欠落を埋めるための、完璧な代替品(サロゲート)。
映画冒頭、教授が拡大鏡(ルーペ)を握りしめ、ヨハン・ゾファニーの『第14代ウィロビー・ド・ブローク卿とその家族』を凝視するシーン。彼が偏執的に観察するのは、もはや調和ある全体像ではなく、絵画の表面に無数に走る微細な「ひび割れ(クラクリュール)」。生きた価値体系を信じられなくなった知識人の、断片的なディテールへの絶望的な逃避。それは自らが愛した文明の終焉を静かに見届ける、キュレーター的視線による残酷な検死作業。モデルとなった美術史家マリオ・プラッツの思想的残滓が漂う、事物の蒐集という名の武装。
しかし、この静止した虚構は、アパルトマンの垂直構造を通じてもたらされる空間の弁証法によって無残に解体されていきます。1階は、教授が支配する伝統と静寂の聖域。褐色の深み、重厚なダークウッド。モーツァルトの旋律が満たす、永遠に凍結された母体(ウーム)。対する2階は、ブルモンティ家が強引に占拠した現代と破壊の領域。プラスチックの無機質な家具、露出した配線。イヴァ・ザニッキが歌う大衆的なポップスの卑俗なリズムと、絶え間ない改築工事の騒音。
教授が自ら階段を上る行為は、構築した安全地帯からの離脱と、予測不能な生の荒野への苦痛に満ちた侵入を意味します。2階の物理的破壊は、天井のひび割れを通して、1階の教授の頭上へと無機質な塵となって降り注ぐ。静止した肖像画のイデアは、生身の人間たちが放つ世俗的な喧騒によって、容赦なく蹂躙されていく不可避のプロセスといえます。


この閉鎖空間の密度をさらに決定づけているのが、劇中で放たれる文学的引用の数々と、その背後に蠢く1970年代イタリアの政治的リアリティです。
ヘルムート・バーガー演じるコンラッドが暴力的に突きつける、W.H.オーデンの詩句「墓場にセックスライフはない」。アンチ・マスク『感性の娯楽』において、本来「猿」という卑俗なキャラクターに割り当てられたこの台詞。文明の極北に位置する知識人が、最も野蛮な猿の言葉によって生の真実を突きつけられる残酷なパラドックス。教養という壁で死を覆い隠そうとしていた教授の論理を攪乱する、剥き出しの肉体的な武器。一方、リェッタが朗読するA.C.スウィンバーンの詩劇『カリドンのアタランタ』。物語全体を包み込む、ギリシャ悲劇的な避けられない破滅の予感。デカダンスの響きは、老境に達した教授の絶望と共鳴し、神々の残酷な戯れを告げる不吉なエレジーとして機能します。
三谷幸喜が脚本を書けば、間違いなくシチュエーション・コメディになるはずの題材が、ヴィスコンティの手にかかれば美しきデカダンスの芸術となってしまうわけです。

これらの死の予兆は、当時のイタリア社会を震撼させていた「鉛の時代」という血生臭い現実と直結しています。極右と極左が血で血を洗う、テロリズムの季節。コンラッドの正体は、1968年の学生運動の記憶を抱えながら、現在は右翼実業家の妻のジゴロという汚辱に身を委ねる、挫折した左翼ラジカル。彼が象徴するのは、美しき理想が資本主義の罠と現代政治の汚濁に無残に磨り潰されていく過程そのものです。
対する教授は、かつて反ファシズムのレジスタンスに関わった誇り高き過去を持ちながら、現在は無力な中立へ逃避している傍観者。「緊張の戦略」のもとで暗躍する極右組織の影、すなわち擬装されたファシズムの脅威を察知してもなお、不介入を貫く姿勢。激動の時代において沈黙を守ることは、悪に加担することと同義。ヴィスコンティがここで突きつけたのは、絵画のひび割れを眺めるだけの無力な隠遁者へと成り下がった知識人全体への、容赦のない自己告発の刃です。

是枝裕和の『万引き家族』がカンヌの頂点を極めて以降、現代のシネマティクな空間を席巻する「擬似家族(Found Family)」という新たな潮流。貧困と孤立の荒野において、根を持たぬ者たちが身を寄せ合い、仮構する刹那のユートピア。これらは現代特有の社会構造が生み出した産物として語られがちですが、「血縁の形骸化」と「選択された絆の尊さ」というテーマを、すでに1970年代において最も先鋭的かつ絶望的な精度で描き切っていたルーツこそが、本作です。
ヴィスコンティにおける「絵画」の家族と、是枝における「棄てられた」家族。両者はともに、血縁がもはや人間を救済しないという諦念を出発点としています。ヴィスコンティがブルジョワジーの没落として描いた伝統的家族の死は、半世紀後の是枝作品において、新自由主義下の貧困層のセーフティネット崩壊として反復されている。
そして、この一時的なユートピアは内部崩壊ではなく、常に「冷酷な外部システムの介入」によって物理的に解体されます。是枝の柴田家が国家権力という法の網の目によって強制的に解体されたように、ヴィスコンティの教授の聖域もまた、「鉛の時代」の政治的テロルによって爆破される。個人の意志で作られた選択された絆が、マクロな制度の前ではいかに無力であるか。しかし、その無力な絆が解体される過程を描くことで、残された者の心に「確かにそこにあった愛」を強烈に刻み込む構造の完全なる合致。

ラストシーンを飾るアパルトマンの凄絶なガス爆発。それは右翼勢力による冷酷な政治的暗殺劇であり、教授が命懸けで守ろうとした美学的静止の内面聖域を、物理的に完全に粉砕する一撃です。すべてが解体され、瓦礫と化した空間。死の床に横たわる教授が最後に到達する境地は、物語冒頭の自閉的な孤独ではありません。他者と激しく接触し、傷つけ合い、そして決定的に喪失した結果としてのみ立ち現れるのが人間の孤独です。


コンラッドが遺した手紙に記された「あなたの息子より」という署名。血縁を超えた擬似家族の形成の一瞬の成就と、永遠の喪失。関係が持続している最中には名言されず、システムが崩壊し、死という別離が確定した瞬間にのみ逆説的に完成する事後的な父性。教授は、死者の領域に属する息子を手に入れることで、皮肉にも人生で初めて真の父親となったわけです。壁に掛かった絵画の中の虚構を捨て去り、血を流す現実の絆を不器用に選び取った男の終焉。

本作は、過去への逃避を描いた甘美なノスタルジーではありません。過去に閉じこもろうと足掻いた男が、現代社会の残酷な暴力との対決を経て、自らの孤独を完成させる凄絶なプロセス。ヴィスコンティが自身の衰えゆく肉体を投射し、文明の黄昏と個人の死を濃密な美学で結晶化させた痛切な自画像。
塵にまみれ、死を待つ教授の耳に最後に届く、階下から響く不確かな階段を上がる足音。それは、彼がようやく受け入れることができた他者の再来か。自身をかき乱したあの騒音こそが、泥にまみれた「生」そのものであったという宗教的な受容。その根源的な問いへの答えは、映画という幕が完全に閉ざされた後の深い沈黙の中に、いつまでも、静かに響き続けてきます。それは、果てしなく続く、美しき絶望の余韻かもしれません。

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