映画「パルプ・フィクション」1994年アメリカ
そこそこの映画ファンで、この作品を通過していない人はいないでしょう。
この作品のタイトルを聞けば、有名なシーンが脳裏にフラッシュバックしますので、僕もすっかり観た気になっていたのですが、どうも物語が繋がらないわけです。
どうやら、あまりに多い本作の情報を、ネットでチラチラと見ているうちに、すっかり映画自体を見た気になっていたようなんですね。
YouTubeやネットでは、やはり好きな映画関連の情報を拾いに行くことが多いので、画像や映像で、細切れの情報をインプットしているだけで、いつのまにか映画鑑賞体験があったと勘違いしてしまうことが多くなってきました。
それとも、単なる年齢による記憶力の劣化で、見ている映画なのに覚えていないのか?
Amazon プライムで見つけて鑑賞してみたところ、本作に関しては、やはり未見であったことが判明。
知識としてはあった、クエンティン・タランティーノ監督の、時間軸をパズルのように操る秀逸な脚本をしっかりと堪能させていただきました。
それでは、映画レビューです。
もう30年以上も前の作品ですから、ネタバレ全開はご容赦。
1994年のカンヌ国際映画祭で、本作が最高賞パルム・ドールをさらった瞬間、間違いなく映画史に地殻変動が起きたことは間違いないようです。
低予算のインディーズ映画でありながら世界的な熱狂を巻き起こし、アカデミー脚本賞まで奪取したこの作品は、単なる娯楽作品ではありません。
それは90年代以降の映画の在り方を決定づけた「事件」であり、既存の映画文法をあざ笑うかのような、痛快な革命宣言でもあったんですね。
この作品最大の功績は、なんといっても映画における「物語る順序」を解体してしまったことでしょう。
共同脚本のロジャー・エイヴァリーが「プレッツェル」と例えたその構造は、通常の時系列(リニア)を無視し、時間軸を大胆にシャッフルしています。
映画は、強盗カップルによるダイナーの襲撃(プロローグ)から始まり、殺し屋コンビの珍道中、ボクサーの逃亡劇などを経て、再びダイナーの場面(エピローグ)へと戻ってきます。
しかし、これを時系列通りに並べ直してみると、その順序はまったく異なっているぞということに気がつかされるわけです。
本作で起こっていることを時系列順に並べるとこういうことになります。
朝: ヴィンセントとジュールスがアパートを襲撃(「奇跡」の生還)
昼: 誤って殺した死体の処理(掃除屋ウルフの登場)
朝食: ダイナーでの強盗事件(映画のラストシーン)
午後: ボスの密談と、夜のヴィンセント&ミアのデート
翌日以降: ボクサー・ブッチの裏切りと逃亡、そしてヴィンセントの死
タランティーノ監督は、この時間軸をシャッフルして、複雑怪奇なパズルを提示することで、観客を単なる「受動的な鑑賞者」から、物語のピースを自ら組み立てる「能動的な探偵」へと変貌させます。
特に秀逸なのは、物語の中盤でボクサーのブッチに射殺されるヴィンセントが、映画のラストシーンでは何食わぬ顔で登場する点です。
彼の「確定した死」を目撃しながら、ラストでは、再び彼の「生」を目撃することになります。
この皮肉でありながら特権的な視座こそが、本作がもたらす不思議な快感の源泉になっていますね。
これを確信犯的にやっているタランティーノの憎らしさよ。
キューブリック監督の「現金に体を張れ」や、オーソン・ウェルズの「市民ケーン」など、時間軸をいじる構成の傑作映画はたくさんありますが、こういった過去の映画体験が、この人の脚本執筆の血肉になっていることは間違いなし。
「クォーター・パウンダーをフランスで何と呼ぶか知ってるか?」
「チーズ・ロワイヤルだ」
映画史に残るこのヴィンセントとジュールスの会話は、実際のところ物語の本筋には何の関係もありません。
従来のハリウッド脚本術であれば、真っ先に削除される「贅肉」のような部分です。
しかしタランティーノは、ゴダールらヌーヴェルヴァーグの作家たちに倣い、この「無駄話(ダイアローグ)」を、意識的に映画の核に据えました。
これによって、どんな効果が生じたのか。
彼らが語るマクドナルドや、50年代風ダイナー、架空のブランド「レッドアップル」タバコ。
これらのポップカルチャーの引用は、殺し屋という非日常的な存在に、生々しい人間味とリアリティを与えることになるわけです。
また、ヴィンセントがトイレに行くたびに事件(ミアの薬物過剰摂取、ダイナー強盗、自身の死)が起きるという「排泄と暴力」の連鎖は、タイトルの『パルプ(安っぽい三文小説/トイレットペーパーの原料)』に掛けた、監督一流のブラックジョークとも考えられますね。
「ビデオショップの店員」出身であるタランティーノの脳内は、古今東西の映画データで満たされています。
それは、国境を越え、普通の人なら素通りしてしまう様な、他国のB級作品にまで及んでいます。
そして、その膨大な映像データは、彼の脳内でシャッフルされ、彼独特の映像表現の根源になっています。
本作は、彼が愛するサブカルチャーをハイカルチャー(芸術)の領域へと昇華させた、巨大なコラージュ作品とも言えるでしょう。
ひとかどの映画評論家なら避けるであろうB級テイストに、惜しみなく、映画愛を注いでいる点が、この人の真骨頂といえます。
ジョン・トラボルタとユマ・サーマンの象徴的なツイスト。
これはフェリーニの『8 1/2』へのオマージュであり、かつて『サタデー・ナイト・フィーバー』で世界を踊らせたトラボルタへの、最高のリスペクト演出でした。
質屋でブッチが日本刀を選ぶシーンには、深作欣二作品などの日本の任侠・時代劇映画への愛が炸裂しています。
神聖な聖書をB級アクションの台詞で書き換え、高尚な芸術と俗悪な暴力を等価に扱う。
この境界線の破壊こそが、タランティーノ・スタイルです。
本作の制作費は約800万ドルでした。
驚くべきことに、その大半に当たる500万ドルが出演料に消えたため、現場は極限の工夫を強いられたそうです。しかし、その制約こそが伝説の名シーンを生むことになります。
アドレナリン注射のシーン。
ミアの胸に注射針を突き刺すショッキングな場面。実際に刺すわけにはいかないため、針を「引き抜く」動作を撮影し、編集で「逆再生」することで、あの衝撃的な映像を作り出しました。
ブリーフケースの 中身を見た者の顔を黄金色に照らす謎のケース。
中身は「マクガフィン(物語を動かすための仕掛け)」として意図的に設定されていませんが、その神秘的な光の正体は、単なるオレンジ色の電球とバッテリーでした。
安易なCGや特殊効果に頼らず、アイデアと演出力で観客の想像力を刺激する。
これこそが、低予算インディーズ映画が世界と戦うための最強の武器となったのです。
膨大な製作費をかけてズッコケる映画よりは、低予算の中からアイデアをひねり出して大ヒットをさせる映画の方が痛快で、個人的には好きですね。
タランティーノは、俳優の「キャリア」さえも「遊び」の道具にしてしまいます。
当時低迷していたジョン・トラボルタをあえて起用し、再びトップスターへ返り咲かせた手腕。
1970年代、『サタデー・ナイト・フィーバー』でディスコ・キングとして世界を熱狂させたジョン・トラボルタ。
しかし、90年代初頭の彼は、はっきり言って「過去の人」扱いされていました。
タランティーノは、そんな彼をあえて「ダンスフロア」に立たせます。
しかし、踊らせたのはディスコではなく、50年代のロックンロール(チャック・ベリーの『You Never Can Tell』)でした。
少しふっくらとした体型のトラボルタが、無表情で、しかし完璧なリズム感で踊り出す。
その瞬間、かつての「キング」のオーラが蘇ると同時に、過去の栄光とは違う、渋みを増した新しい魅力が爆発します。
このシーンは、俳優ジョン・トラボルタのキャリアを物理的に蘇生させた「奇跡の儀式」だったといえそうです。
クリストファー・ウォーケン演じるクーンズ大尉が、幼いブッチに「金時計」を届ける回想シーンも印象的でした。
ここは、タランティーノの「語りの魔術」が極まったシーンであり、映画史上最も奇妙な長回しの一つです。
クーンズ大尉は、ブッチの曾祖父、祖父、そして父がいかにしてこの金時計を戦場で守り抜いたか、重厚なトーンで語り始めます。第一次世界大戦、第二次世界大戦……ここまでは感動的な「家族の歴史」であり、「男たちの継承の物語」です。
しかし、話はベトナム戦争のエピソードで一変します。捕虜収容所での没収を防ぐため、ブッチの父はこの時計を「5年間、自分の尻の穴(ass)に隠していた」と明かすのです。
そして父の死後、クーンズ大尉自身もまた、2年間その時計を尻に入れて持ち帰ったと語ります。
最も神聖な家宝(ハイカルチャー)が、最も不浄な場所(サブカルチャー/下ネタ)によって守られた。
この「荘厳さと滑稽さ」の強烈なギャップこそがタランティーノ脚本の妙です。
観客は、感動すべきなのか笑うべきなのか分からない宙吊りの状態に置かれるわけです。
クリストファー・ウォーケンは、4分間ニコリともしません。
このシーンが長い(ほぼカメラ固定の長回し)のには、明確な理由があります。
物語の後半、ブッチは命の危険を冒してまで、恋人が忘れたこの時計を取りにアパートへ戻ります。
ここで「たかが時計のために?」と観客に思わせてはいけないわけです。
あの4分間が、ここで効いてきます。
長大で、あまりにも強烈な(そして少し汚い)エピソードを見せることで、「ブッチにとって、あの時計は命よりも重い(そして呪われた)運命の象徴なのだ」という説得力を生んでいるという仕掛けです
この時計は、ブッチがプロボクサーとしてのプライド(あるいは男としての意地)を取り戻すための「聖杯」としても機能してくるわけです。
そして、プロデューサーの反対を押し切ってサミュエル・L・ジャクソンを抜擢し、映画史に残るキャラクター「ジュールス」を誕生させた慧眼。
映画のラストで、ジュールスが唱える「エゼキエル書25章17節」。
実はこれ、聖書の正確な引用ではなく、千葉真一主演『ボディガード牙』の米国版ナレーションからの流用とのこと。ちょっと嬉しくなります。
ブルース・ウィリスにあえて「落ち目のボクサー」を演じさせたことも含め、キャスティングのすべてが、映画のテーマである「やり直し(Redemption)」や「栄枯盛衰」とリンクしてくる秀逸なキャスティングになっているのは見事です。
『パルプ・フィクション』とは、どんな映画なのか。
それは、物語の構造を解体し、無駄話を芸術に変え、過去の映画遺産をサンプリングしてリミックスした、映画マニアによる映画のための革命といえます。
時間軸をいじることで、観客に「謎」を与え、考える楽しみを提供したこの作品以降、映画は単に「観る」ものから、積極的に文脈を「読み解く」ものへと進化したと言えます。
この映画を何度も見て、タランティーノ監督の仕掛けたマジックに気がついた人は、おそらくそれを誰かに語らずにはいられなくなるでしょう。
円環構造の果てに、ジュールスは新たな人生へと旅立ち、ヴィンセントは死へと向かう。
その運命の分岐点を目撃するたびに、一見チープにも見えるこの映画の底知れぬ深さに戦慄させられます。
タランティーノ監督が歓喜した、東映のクラシックB級娯楽作品を、改めて見直したくなりました。

